第30話「一歩踏み出す勇気」
朝の冷たい空気が、街全体に冬の訪れを告げている。陽菜は「ほぐし庵」の暖房をつけながら、心を落ち着けようとしていた。今日は彼女にとって特別な日になりそうだった。
「自分から誘ってみよう」
そう決意したのは、数日前のこと。田中和也とランチをして以来、彼への気持ちが少しずつ自分の中で大きくなっているのを感じていた。
午前中、田中が予約通りにやってきた。いつも通りのスーツ姿に、少し疲れた表情。それでも、陽菜が「おはようございます」と声をかけると、彼は柔らかく微笑み返す。
「おはようございます。今日もよろしくお願いします。」
田中が施術台に横たわると、陽菜は肩から背中にかけてほぐしながら、自然な会話を始めた。
「田中さん、最近お仕事はどうですか?」
「相変わらずですね。でも、あの日ランチで話した後、ちょっと気持ちが楽になった気がします。」
「それはよかったです。たまには息抜きもしないとダメですよ。」
陽菜は施術に集中しながらも、心の中でタイミングを計っていた。この施術が終わったら、自分の気持ちを伝えよう、と。
施術が終わり、田中がコートを羽織ろうとしたそのとき、陽菜は意を決して声をかけた。
「あの、田中さん!」
彼が振り向くと、陽菜は少し顔を赤らめながら続けた。
「もしよかったら……今度の休日、一緒にお出かけしませんか?」
突然の誘いに、田中は目を丸くした。
「えっ……僕と、ですか?」
「はい。お仕事でお疲れだろうし、リフレッシュも兼ねて。もちろん、無理なら大丈夫ですけど……。」
陽菜は少し早口になりながらも、なんとか言葉を絞り出した。田中は一瞬考え込むような表情を見せたが、すぐに穏やかな笑みを浮かべた。
「いいですね、ぜひ行きましょう。」
その返事に、陽菜の胸は一気に温かくなった。
「本当ですか?じゃあ、また日程を連絡しますね!」
田中が帰った後も、陽菜の心は高鳴ったままだった。
午後、専業主婦の山本玲子がやってきた。彼女は最近、夫婦関係の悩みについて陽菜に打ち明けており、少しずつ変化を見せ始めていた。
「陽菜さん、この前教えてもらった手芸教室、行ってみたんですよ。」
施術台に横たわりながら、玲子は嬉しそうに話す。
「どうでした?」
「思ったより楽しかったです。自分のための時間を持つって、こんなに大事だったんですね。」
玲子の表情は以前よりも明るく、声にも力が感じられる。
「それに、夫が最近少しだけ優しくなった気がして。」
「それは玲子さんが変わったからですよ。自分の時間を大切にしていると、自然と周りにもいい影響が出るんです。」
玲子の話を聞いているうちに、陽菜は自分自身にも励まされているような気がした。
その日の施術がすべて終わり、店を片付けながら陽菜は一人考えた。
「少しずつでも、前に進めてるのかな。」
田中を誘った自分を思い返しながら、陽菜は胸がじんわりと温かくなるのを感じた。
「私も自分の時間を大切にして、もっと素直になっていこう。」
陽菜はそう心に決め、翌日の予約表を確認した。そして、次の休日が楽しみで仕方がない自分に気づき、思わず笑みがこぼれた。




