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ほぐしの時間 - あなたのコリと人生を聞かせて  作者: 鍼野ひびき


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第29話「新しい視点」

寒さが厳しくなり、ほぐし庵の周囲にも冬の訪れを感じさせる景色が広がり始めた。陽菜は、朝の準備をしながら昨日の田中とのランチを思い出していた。

「どうしよう、意識しちゃうな……。」

心の中でそうつぶやきながら、いつもより少し早めに到着した田中を迎える準備をしていた。

その日の午前中、施術台に横たわるのは佐藤信次だった。腰痛がひどいと言いながらも、佐藤は最近少し顔色が明るい。

「佐藤さん、今日はどうですか?腰の具合。」

「まあまあだな。でも、最近少し歩くのが楽になった気がする。」

陽菜がほぐしながら話を聞くと、佐藤はぽつりぽつりと話し始めた。

「この前、桜井さんに言われてな。昔の教え子に連絡を取ってみたんだ。」

「えっ、本当にですか?どうでした?」

佐藤は少し照れくさそうに鼻をすすった。

「最初はな、何て話せばいいか分からなかった。でも、あっちが意外と普通に話してくれてな。昔のわだかまりなんて、俺が勝手に気にしてただけだったみたいだ。」

陽菜はその話を聞いて、心から嬉しそうに微笑んだ。

「それはよかったですね。佐藤さんが一歩踏み出したから、きっと相手も喜んでくれたんですね。」

佐藤は少し黙った後、ぽつりとつぶやいた。

「俺もこれから、少しは素直になってみようと思う。」

その言葉に、陽菜は胸が温かくなるのを感じた。

午後の予約が一段落し、少し休憩を取っていた陽菜はスマホを手に取った。田中から送られてきた昨日のランチのお礼メッセージを眺める。

「今日はありがとう。桜井さんと話してると、自然と元気になるよ。」

その短い言葉が、陽菜の胸をざわつかせる。

「元気になるって……どういう意味なんだろう。」

田中の気持ちはまだ分からない。それでも、自分の中で田中が大きな存在になりつつあることを認めざるを得なかった。

「私、どうしたいんだろう。」

陽菜は自問しながら、次の予約の準備を始めた。

その日の最後の患者は、水野涼だった。大学生の涼は恋愛や将来の悩みを抱えてほぐし庵に通うようになった常連だ。

「今日はどうですか、涼くん?」

涼はうつ伏せになりながらため息をついた。

「まあ、いつも通りですよ。恋愛もうまくいかないし、就活のことも考えなきゃいけないし。」

陽菜は涼の背中をほぐしながら言った。

「涼くんは、自分が本当にやりたいことって何か考えたことある?」

「やりたいこと、か……。」

涼は少し考え込んだ様子で答えた。

「正直、分からないです。好きなことはあるけど、それを仕事にするなんて現実的じゃない気がして。」

陽菜は笑いながら言った。

「私も昔はそう思ってたよ。でもね、やりたいことを見つけるって、いきなり答えを出すことじゃないんだよ。少しずつ、自分の気持ちに素直になっていけばいいの。」

涼はその言葉に少し驚いたようだったが、すぐに表情を緩めた。

「少しずつ、ですか……。なんか、ちょっと気が楽になりました。」

その日の施術がすべて終わり、店を閉めた後、陽菜は一人きりの静かな店内で深呼吸をした。

「少しずつ、か。」

涼に言った言葉が、まるで自分自身に向けたもののように胸に響いていた。田中との関係も、焦らず少しずつ進めばいい。自分の気持ちに正直になることが大切だと、陽菜は改めて思った。

そして、少しずつでも前に進むために、次は自分から田中を誘ってみようと決意したのだった。


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