第26話「心を映す鏡」
田中和也が去った後の「ほぐし庵」は、どこか静かだった。陽菜はカウンターで手帳を開きながら、彼の告白を思い出していた。
「俺、陽菜さんのことが好きです。」
その言葉の響きはまだ胸の中で温かく残っている。だが、それと同時に、自分がどう応えるべきなのかという迷いも消えなかった。
「私、どうしたいんだろう……。」
自問自答を繰り返していると、入口のベルが鳴り、新しい患者が訪れた。
「こんにちは、陽菜さん。また来ちゃった。」
笑顔で入ってきたのは山本玲子だった。彼女は最近、趣味のハーバリウム作りに夢中になり、以前よりも明るくなった様子だった。
「玲子さん、いらっしゃいませ!お元気そうで何よりです。」
「ありがとう。でもね、最近また腰がちょっと痛くて。それと、少しだけ話を聞いてほしくて来たの。」
玲子の腰を気遣いながら施術台に案内し、陽菜は丁寧にマッサージを始めた。
「最近、夫が少し変わったの。」
玲子の言葉に、陽菜は手を止めず耳を傾けた。
「変わったって、どんな風にですか?」
「なんだか、急に優しくなったのよ。私が趣味を始めたのを見てから、以前よりも家事を手伝ってくれるようになったり、仕事の話をしてくれたり。でも……それが逆に不安で。」
玲子の声は、どこか寂しげだった。
「どうして不安なんですか?」
「夫が今さら私に気を使うのは、何か後ろめたいことでもあるんじゃないかって、つい疑ってしまうの。私、こんな風に思う自分が嫌で……。」
陽菜は玲子の肩にそっと手を置いた。
「玲子さん、それはきっとご主人も自分なりに玲子さんとの関係を大切にしたいって思っているからじゃないでしょうか。大切な人が笑顔だと、自分も嬉しくなるものですから。」
玲子は目を閉じて、ふっと息を吐いた。
「そうかもしれないわね。私も、もう少し素直に受け取れるようになりたいな。」
玲子が帰った後、陽菜は一人で掃除をしながら考えていた。
玲子の話を聞きながら、自分が田中和也にどう向き合うべきなのか、少しだけ見えた気がした。
「相手が自分を大切に思ってくれているなら、それに応えたい気持ちがあるなら、素直に向き合えばいいのかもしれない。」
玲子の言葉が、心の鏡のように自分の気持ちを映し出していた。
その日の夕方、田中が再び「ほぐし庵」を訪れた。
「今日は予約してたんだ。覚えてる?」
「もちろんです。どうぞお入りください。」
田中が施術台に横たわると、陽菜はいつも通りの手際でマッサージを始めた。
「最近、肩の感じはどうですか?」
「肩はそこそこだけど、心の方はまだモヤモヤしてるかも。」
田中の言葉に、陽菜は小さく笑った。
「それなら、今日は心のモヤモヤも一緒にほぐしていきましょうか。」
施術を終えた後、田中が帰ろうとした時、陽菜は意を決して声をかけた。
「田中さん、少しだけ時間をいただけますか?」
田中は驚いた表情を浮かべたが、すぐに頷いた。
「もちろん。どうしたの?」
「私、田中さんの気持ちを聞いて、自分がどう思っているのかをずっと考えていました。でも、まだちゃんとした答えが出せていないんです。」
田中の顔に一瞬、不安の色がよぎった。それを見た陽菜は微笑んで言葉を続けた。
「でも、田中さんが異動するまでの間に、私も自分の気持ちに正直に向き合いたいと思っています。だから、少しだけ時間をください。」
田中はじっと陽菜を見つめた後、穏やかに笑った。
「わかった。陽菜さんがそう言ってくれるだけで十分だよ。」
田中が帰った後、陽菜は施術台を片付けながら、心の中に芽生えた小さな確信を感じていた。
「私、きっと田中さんのことが……。」
その言葉はまだ口に出せなかったが、陽菜の中で田中への想いが確実に形になりつつあった。
陽菜にとって、それは大切な一歩だった。




