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ほぐしの時間 - あなたのコリと人生を聞かせて  作者: 鍼野ひびき


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第25話「陽菜の覚悟と、二人の未来」

朝の「ほぐし庵」はいつも通り静かで、陽菜はカウンターで湯気の立つお茶を飲みながら、これからの予定を確認していた。けれど、心の中にはまだ田中和也の言葉が残っている。

「異動する前に、伝えたいことがある。」

あの時の彼の真剣な表情が忘れられなかった。そして同時に、自分の胸の内で膨らみつつある感情を無視できないことにも気づいていた。

「私、どうするべきなんだろう……。」

そんな思いを抱えたまま迎えた昼過ぎ、予約なしで訪れた患者がいた。

「陽菜さん、こんにちは。」

玄関に立っていたのは田中和也だった。

「田中さん、こんにちは!どうぞお入りください。今日は予約していませんでしたよね?」

「うん。急に来てしまってごめん。でも、どうしても陽菜さんに会いたくて。」

その言葉に、陽菜の胸が高鳴る。何か特別な話があるのだろうかと期待と不安が交錯する中、彼を施術室へ案内した。

「今日はどんな感じですか?肩の調子は?」

「肩も腰もまあまあかな。でも、それよりも今日は陽菜さんと話したいことがあって。」

田中の表情は真剣そのものだった。

施術を始める前に、田中は深く息を吸い込んだ。

「陽菜さん、突然だけど、俺……この異動の話を受けることにした。」

陽菜の手が一瞬止まる。しかし、すぐに笑顔を作って彼の目を見つめた。

「そうなんですね。田中さんらしいですね。きっと新しい場所でも頑張れると思います。」

「ありがとう。そう言ってもらえると少し安心する。でも、本当は……異動の話を受けるかどうかでずっと迷ってたんだ。」

「迷ってた?」

田中は頷き、静かに続けた。

「陽菜さんと会えなくなるのが嫌で、どうしたらいいかわからなくなってた。でも、結局自分の仕事を大切にしたい気持ちが勝った。これが俺の選択だって思ったんだ。」

陽菜は彼の言葉に胸が熱くなるのを感じた。

田中の話を聞きながら、陽菜は自分の中に生まれつつある覚悟に気づいた。この数ヶ月、田中との会話や彼の人柄に触れる中で、自分がどれだけ彼に惹かれていたのかを改めて実感していた。

施術を終えると、田中がベッドから降りて立ち上がった。

「陽菜さん、本当にありがとう。ここに来るたびに、体だけじゃなくて心も軽くなってた。だからこそ、俺……最後にちゃんと伝えたいことがあるんだ。」

田中は少し恥ずかしそうに視線を逸らしながらも、深く頭を下げた。

「俺、陽菜さんのことが好きです。」

その言葉に陽菜は目を見開いた。

「……え?」

驚きで言葉を失う陽菜に、田中は続けた。

「こんなタイミングで、しかも急に異動するって話をしておいて、こんなことを言うのはずるいかもしれない。でも、どうしても伝えたかったんだ。」

陽菜はしばらく言葉を探していたが、やがて小さく微笑んだ。

「田中さん……ありがとうございます。でも、私……どう答えたらいいかわからなくて。」

「うん、無理に答えを出してほしいわけじゃない。ただ、俺の気持ちだけは知っておいてほしかったんだ。」

田中の誠実な言葉に、陽菜は胸がいっぱいになった。

帰り際、田中は玄関先で立ち止まり、振り返った。

「異動まで、あと1ヶ月くらいある。その間にまた来てもいいかな?」

「もちろんです。いつでもお待ちしてます。」

田中は微笑みながら手を振り、ほぐし庵を後にした。

一人になった陽菜は、田中が座っていた施術台を見つめながら、そっと呟いた。

「私も……ちゃんと自分の気持ちに向き合わないと。」

玲子や信次、水野涼たちの人生に寄り添う中で、陽菜自身もまた、新しい一歩を踏み出す時が来ているのかもしれないと感じていた。

「田中さんがいなくなるまでに、私も何かを伝えられるようになりたい。」

陽菜の胸の中で、小さな決意が芽生え始めていた。


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