第24話「和也の決断、陽菜の戸惑い」
朝の「ほぐし庵」は穏やかな空気に包まれていた。陽菜は窓際に差し込む朝日を背に、カウンターで帳簿を整理していた。つい昨夜の田中和也との会話が頭をよぎる。
「会いたくなっただけかもしれない」
彼の言葉を思い出すたび、胸が温かくなるのを感じた。けれど、それと同時に自分が抱える迷いも浮かび上がる。
「私は……田中さんにどう答えたらいいんだろう。」
そんな思いに耽っていると、玄関のベルが鳴った。
「いらっしゃいませ!」
元気よく声を上げて振り返ると、そこには田中が立っていた。
「おはよう、陽菜さん。朝からごめんね。予約してなかったんだけど、今日空いてるかな?」
「田中さん、おはようございます!もちろん大丈夫ですよ。どうぞ、こちらへ。」
施術室に入ると、田中はスーツの上着を脱ぎながら微笑んだ。
「この間は夜遅くにありがとう。あの後、不思議と肩が軽くなったよ。」
「それは良かったです。でも、無理しないでくださいね。最近忙しいんですか?」
「うん、少しね。でも、忙しいのは慣れてる。」
そう言った彼の声には、どこか含みがあった。陽菜は施術台に座る田中の表情をじっと見つめた。
「田中さん……今日は何かあったんじゃないですか?」
彼の肩に手を置くと、田中は少し驚いたように陽菜を見上げた。
「やっぱり、わかるんだね。」
「はい、田中さんの肩、いつもより固いですから。」
田中は苦笑いを浮かべながら、静かに話し始めた。
「実は、会社からまた異動の話が出てね。」
「えっ、またですか?」
田中は頷いた。
「今度は地方の営業所への異動。それも、かなり急な話でさ。」
「地方……どれくらい遠いんですか?」
「新幹線で数時間くらい。転勤となると、しばらく東京には戻れないかもしれない。」
陽菜の手が一瞬止まった。思いがけない知らせに胸がざわつく。
「それで……田中さんはどうするつもりなんですか?」
田中は少し目を伏せてから答えた。
「正直、迷ってる。でも、断るのも難しい立場でね。上司には信頼されてるけど、その分、期待も大きい。」
「期待されるのはすごいことですよ。でも……田中さんの気持ちは?」
陽菜の問いかけに、田中はしばらく黙り込んだ後、小さく笑った。
「自分の気持ちか。そうだね……正直、ここに通うのが楽しみだったから、離れるのが寂しいって思ってる。」
陽菜の胸がぎゅっと締め付けられるような感覚がした。
施術を終えた後、田中が着替えている間、陽菜はカウンターでお茶を淹れながら考え込んでいた。
「田中さんがいなくなる……そんなこと、今まで考えたこともなかった。」
田中が戻ってくると、陽菜は笑顔を作って彼にお茶を差し出した。
「はい、どうぞ。今日はお茶のサービス付きです。」
「ありがとう。こういう気遣い、陽菜さんらしいね。」
田中はカップを手に取りながら、ふと真剣な表情になった。
「陽菜さん、俺……異動する前に伝えたいことがあるんだ。」
陽菜の心臓が一瞬止まりそうになった。
「えっ?」
「……まだちゃんと考えがまとまってないから、次に来たときに話すよ。それまで待っててくれる?」
「もちろんです。でも……無理しないでくださいね。」
田中は微笑むと、軽く会釈をして店を後にした。
田中が去った後、陽菜は深く息をついて椅子に座り込んだ。
「伝えたいこと……って、一体なんだろう。」
玲子や信次、水野涼など、これまでの患者たちの人生に触れる中で、陽菜は何度も「自分の心に正直になること」の大切さを学んできた。
「私も……自分に正直にならなくちゃいけないのかもしれない。」
陽菜はカレンダーを見つめながら、田中が次に来る日を心待ちにする自分に気づいていた。
「田中さんがいなくなるなんて、嫌だな。」
小さな声で呟いたその言葉が、陽菜の心の中で確かな想いに変わりつつあることを、彼女自身も感じ始めていた。




