第23話「玲子の勇気、陽菜の想い」
朝の「ほぐし庵」では、陽菜がいつものように予約の整理をしていた。カウンターには香り高いコーヒーの湯気が立ち上り、陽菜はその香りに一瞬目を閉じてリラックスする。
「さて、今日は玲子さんが久しぶりに来る日だ。どんなお話が聞けるかな。」
玲子は陽菜にとって特別な存在だった。専業主婦として家族を支えながらも、肩こりや腰痛を抱え、時折ぽつりと話していた夫婦関係の悩み。それを聞きながら、陽菜は時に笑い、時に真剣なアドバイスをしてきた。その結果、玲子は少しずつ自分の時間を取り戻し、趣味のフラワーアレンジメントを始めたのだ。
玲子が到着したのは午後のことだった。玄関のドアが開く音とともに、明るい声が聞こえる。
「こんにちは、陽菜さん。久しぶり!」
以前よりも輝いて見える玲子の笑顔に、陽菜は嬉しくなった。
「玲子さん! なんだか雰囲気変わりましたね。すっごく素敵!」
「そうかしら? 最近、趣味に夢中になってるからかな。」
施術室に案内しながら、玲子はフラワーアレンジメントの話を楽しそうに語った。地域の小さなイベントで展示をしたことや、新しい友達ができたこと。
「でもね、陽菜さん……実は今日はちょっと相談があって来たの。」
玲子がぽつりとそう言うと、陽菜は手を止めて彼女の顔を見た。その表情には、少し不安が混じっている。
「どうしたんですか?」
「……夫にね、趣味を始めたことを話したんだけど、最初はあまりいい顔をされなくて。それでも続けてたら、最近少しずつ認めてくれるようになったの。だけど、次のステップに進む勇気が出ないの。」
「次のステップ?」
「教室を開いてみようかって思ってるの。でも、家のことをほったらかしにするんじゃないかって、夫の顔色を伺っちゃって……。」
陽菜は少し考えてから、柔らかく言った。
「玲子さん、自分の気持ちを大事にするのも大切ですよ。ご主人のことを考えるのは素敵ですけど、玲子さんが輝いてる姿を見て、ご主人も変わるかもしれませんよ。」
玲子は少し驚いた表情をしてから、笑みを浮かべた。
「陽菜さん、いつもそうやって背中を押してくれるのね。本当にありがとう。」
玲子が帰った後、陽菜は一人でカウンターに座りながら、手帳にメモを取っていた。
「玲子さん、すごいなぁ。勇気を出して一歩踏み出すのって、やっぱり大変だよね。」
ふと、田中のことが頭をよぎった。
「私も……田中さんに何か言えたら、何か変わるのかな。」
陽菜は自分の気持ちに気づき始めていた。田中が来る日が待ち遠しくて、彼の言葉に一喜一憂してしまう自分。この感情は、ただの患者に対するものではない。
「でも、どうすればいいんだろう……。」
その夜、ほぐし庵の営業時間が終わろうとしている頃、玄関のベルが鳴った。
「こんな遅くに誰だろう?」
陽菜が出ると、そこには田中が立っていた。
「田中さん? どうしたんですか?」
「遅くにごめん。急に肩が痛くなっちゃって……無理なら帰るよ。」
田中の表情はどこか申し訳なさそうだったが、陽菜はすぐに彼を中に招き入れた。
「いいえ、ちょうど片付けが終わったところですから、大丈夫ですよ。」
施術室に案内しながら、陽菜の心は少しだけ高鳴っていた。
施術中、田中は普段よりも多く話した。仕事の話、家族の話、そして最近の些細な出来事。陽菜はいつものように手を動かしながら、彼の言葉に耳を傾けた。
「陽菜さんって、不思議だよね。こうして話してると、なんだか安心するんだ。」
「そうですか? それなら嬉しいです。」
陽菜が笑顔を見せると、田中は少し恥ずかしそうに目をそらした。
「実はね、今日ここに来たの、本当は肩が痛いからじゃないんだ。」
「え?」
陽菜の手が止まった。田中は少しだけ間を置いてから、静かに続けた。
「なんだろう……陽菜さんに会いたくなっただけなのかもしれない。」
その言葉に、陽菜の胸は一気に熱くなった。
「田中さん……。」
「ごめん、変なこと言っちゃったね。でも、ここに来ると、本当に気持ちが軽くなるんだ。」
陽菜は一瞬迷ったが、勇気を出して言った。
「変じゃないですよ。私も……田中さんが来てくれると、すごく嬉しいです。」
二人の間に、静かな時間が流れた。施術室の小さな空間に漂う温かな空気。その瞬間、陽菜は自分の中で何かが動き始めたのを感じた。
田中を見送った後、陽菜は玄関の外に立ち、夜空を見上げた。
「田中さん……この気持ち、どうしたらいいんだろう。」
玲子の勇気を見た陽菜は、自分も一歩踏み出すべきなのかもしれないと考え始めていた。




