第22話「田中さんの言葉」
朝の「ほぐし庵」は、いつもよりも慌ただしい空気に包まれていた。陽菜はカウンターで手帳をめくりながら、予約状況を確認している。
「今日は混みそうだなぁ……でも、田中さんの予約は最後だから、少しのんびり話せるかな。」
陽菜がそう呟いたのは、田中和也が訪れる日はなぜか特別な気持ちになるからだ。陽菜自身も、その理由を深く考えたことはなかったが、田中が見せる不器用ながら真剣な眼差しや、たまに見せる優しい笑顔に、心が温まるのを感じていた。
「ほぐし庵」の一日は忙しく進んでいった。次々と訪れる患者の体をほぐしながら、陽菜はいつものように笑顔で会話を重ねる。
夕方、陽菜が一息ついた頃、カウンターのベルが鳴った。
「こんばんは。」
少し低いが柔らかい声。陽菜が顔を上げると、そこには田中が立っていた。スーツ姿の彼はどこか疲れているように見えるが、いつもの控えめな笑顔が陽菜に向けられていた。
「こんばんは、田中さん。お仕事お疲れさまです。」
「いや、まだ終わってないんですけどね……今日はこの後、もう少しやらなきゃいけないことがあって。でも、ここに寄りたくて。」
そう言う田中の言葉に、陽菜の胸が少しだけ高鳴った。
「ありがとうございます。そんな忙しい中で来てくれるなんて嬉しいです。でも、無理はしないでくださいね。」
「陽菜さんの言うこと、いつも説得力あるなぁ。」
田中の小さな呟きに、陽菜は気づかないふりをして笑顔を見せた。
田中が施術台に横たわると、陽菜はいつものように肩から背中にかけて手を滑らせた。
「相変わらず肩がガチガチですね。最近また忙しかったんですか?」
「うん、ちょっとね。新しいプロジェクトに加わったんだけど、慣れなくて……いろいろと悩むことが多くて。」
陽菜は手を動かしながら、田中の言葉に耳を傾けた。
「慣れない環境って、ほんとに大変ですよね。でも、田中さんならきっと大丈夫ですよ。」
「そう思えたらいいんだけど……。」
田中の声には疲れが滲んでいた。陽菜は少し手を止め、優しい声で続けた。
「田中さんはいつも頑張り屋さんですから。でも、頑張りすぎると体が悲鳴を上げますよ。少し自分を甘やかしてもいいんじゃないですか?」
「甘やかす……ね。」
田中は小さく笑った。
「そういうの、どうやってやればいいのか、正直よくわからないな。」
「うーん、例えば……自分の好きなことをする時間を作るとか? それに、こうしてマッサージに来てリラックスするのも大事ですよ。」
「じゃあ、ここに来るのも甘やかしの一つってことか。」
田中はそう言いながら、どこか穏やかな表情を見せた。
施術が終わり、田中が上着を羽織っているとき、ふと陽菜が言った。
「そういえば、田中さんは好きなことって何かあるんですか?」
田中は少し考え込むような表情をしてから答えた。
「好きなこと……最近はあまり考えたことがないけど……ここに来ることは、好きな時間かもしれない。」
その言葉に、陽菜の胸は不意に熱くなった。
「そ、そう言ってもらえると、すごく嬉しいです。」
陽菜が笑顔を見せると、田中は少し照れたように目をそらした。
「本当のことを言っただけだよ。」
帰り際、田中は少しだけ立ち止まった。
「陽菜さん。」
「はい?」
「……いや、なんでもない。お疲れさまでした。また来週、予約してもいいかな?」
「もちろんです! お待ちしてますね。」
田中は軽く会釈して、ほぐし庵を後にした。陽菜は彼の背中を見送りながら、胸の鼓動が少し速くなっているのを感じた。
その夜、陽菜は小さな机に座り、手帳に今日の出来事を書き留めていた。
「田中さんが、ここに来ることが好きだって言ってくれた。……これって、私のことも少しは好きってことなのかな?」
自分でも何を考えているのかわからなくなり、陽菜は思わず顔を手で覆った。
「私、田中さんのこと……どう思ってるんだろう。」
窓の外には静かな夜景が広がっている。「ほぐし庵」を包むその静けさの中で、陽菜の心は少しずつ田中に惹かれていく自分に気づき始めていた。




