第21話「玲子の新しい風」
日差しが柔らかい午後、「ほぐし庵」の施術室に腰を下ろしたのは、常連の山本玲子だった。42歳の彼女は少し疲れた顔をしているが、どこか穏やかさも漂っている。
「こんにちは、玲子さん。腰の調子、どうですか?」
桜井陽菜が笑顔で声をかけると、玲子は「ああ、だいぶ楽になってきたわ」と微笑んだ。
しかしその表情には少し気になる影がある。
「でも、最近また忙しいのよ。子どもの学校のことや、家の片付け、それから……まあいろいろね。」
陽菜は玲子をベッドに促しながら、「いろいろって?」と優しく尋ねた。
玲子の背中に手を置くと、いつもより筋肉が硬いことに陽菜は気づいた。
「うーん、ここ、すごく張ってますね。何か特別大変なことがありました?」
「最近、夫がね、仕事で帰りが遅いの。家で一緒にいる時間が減ってきて、なんだか孤独を感じるのよ。」
玲子の声には微かな寂しさが滲んでいた。
「それで、家事や子どものことも全部自分ひとりでやらなきゃって思うと、どうしても疲れちゃうのよね。」
陽菜はゆっくりと力を込めながら施術を続けた。
「それはお辛いですね。玲子さん、ずっと頑張りすぎてませんか? 誰にも頼らずに全部自分でやろうとするのって、ものすごく大変ですよ。」
玲子は黙り込んだ。少し考えてからぽつりと話し始めた。
「でも……頼れる人なんていないもの。夫も疲れてるし、子どもには迷惑をかけたくないし。」
「頼ることって、迷惑をかけることじゃないと思いますよ。」
陽菜は穏やかに話を続けた。
「例えば、子どもに家事を少し手伝ってもらうのも、子どもにとっては大事な経験になると思います。それに、旦那さんに少し自分の気持ちを話してみるのも大事かもしれませんよ。」
陽菜の言葉を受けて、玲子は少し考え込んだ。
「そうね……でも、うちの夫はあまり聞き上手じゃないのよ。話しても『そんなことで悩むな』って言われそうで。」
陽菜は手を止めず、玲子の背中をほぐしながら言葉を選んだ。
「玲子さん、たぶん旦那さんも、自分が何をしたらいいのか分からないだけなんじゃないですか? 男性って意外と、相手が何を求めているのか察するのが苦手だったりしますよね。」
玲子はふっと笑った。
「確かにそうかも。言わないと分からないって、よく言われるわ。」
「そうですよね。だから、無理に大きなことを話すんじゃなくて、まずは小さなことからでもいいんじゃないでしょうか? 例えば、『今日こんなことがあってね』って日常の話をするだけでも、少しずつお互いの距離が縮まると思います。」
玲子はしばらく黙っていたが、やがて「そうね」と頷いた。
「私も、ちゃんと話してみるわ。ずっと心に溜め込んでるだけじゃ、何も変わらないものね。」
施術が終わり、玲子はリラックスした表情でベッドから降りた。
「陽菜さん、いつもありがとう。あなたと話すと、なんだか前向きになれるわ。」
「そんなことないですよ。私は玲子さんの気持ちを少しお手伝いしてるだけです。」
玲子は笑いながら、バッグから一冊の本を取り出した。
「実は、前に陽菜さんが勧めてくれた手芸を始めてみたの。それで、こんな本を買ってみたのよ。」
陽菜の目が輝いた。
「すごいですね! どんなものを作ってるんですか?」
「簡単なポーチとかコースターとかよ。でも、作っている間は集中できるし、なんだか気持ちが落ち着くの。」
玲子の表情が明るくなるのを見て、陽菜も嬉しくなった。
「いいですね。手芸って、自分の手で何かを作る喜びがあって癒されますよね。」
「ええ、私、少しずつだけど自分の時間を取り戻している気がするの。」
玲子の言葉に、陽菜は心からの拍手を送った。
「それは素晴らしいことですね! これからも応援してますよ。」
玲子が帰った後、陽菜は彼女の背中を思い浮かべていた。
「玲子さんも、少しずつ自分の人生に風を入れ始めているんだな。」
陽菜の心に、暖かい気持ちが広がる。「ほぐし庵」で過ごす一日一日が、誰かの心を軽くするきっかけになっていることに、改めて感謝を感じた。
その夜、玲子の家では、久しぶりに家族でテーブルを囲む時間が生まれていた。
「ねえ、これ作ってみたのよ。」
玲子が見せた手作りのポーチに、子どもたちは目を輝かせ、夫は少し照れくさそうに「お前、器用だな」とつぶやいた。
玲子の心に吹いた小さな風が、家庭全体を温かく包み込んでいくのを感じた。




