第20話「信次の告白」
朝の静けさがまだ残る「ほぐし庵」。桜井陽菜は開店準備を終え、コーヒーを片手にカウンターで一息ついていた。窓の外を眺めていると、どこか懐かしい足音が聞こえる。
「やあ、おはよう。」
入り口に立っていたのは、常連患者の佐藤信次だった。小さなバッグを肩にかけ、少し気難しそうな表情が陽菜にはすっかり馴染み深い。
「信次さん、おはようございます! 今日はどうされました?」
「腰がまた少し痛むんだ。それに、ちょっと話したいことがあってな。」
陽菜は微笑みながら施術室へ信次を案内した。
施術台に横になった信次の腰に手を置いた陽菜は、指先に伝わる硬さを感じ取った。
「うーん、やっぱりかなり張ってますね。最近、何か重いものを持ったりしました?」
「いや、特にそんなことはない。ただ……少し考えすぎてしまってな。」
「考えすぎ?」
信次は深いため息をついた。
「この歳になっても、昔のことを引きずるなんて情けない話だが……まあ聞いてくれ。」
陽菜は手を動かしながら、耳を傾けた。信次がこうして話をするのは珍しいことだった。
「私にはな、昔ひとりだけ特別に目をかけていた教え子がいた。いつも明るくて、頭もよくて……だが、ある時その生徒と衝突してしまったんだ。」
信次の声は少し震えていた。
「彼の夢を否定するようなことを言ってしまってな。それがきっかけで、彼は私のもとを去った。それ以来、私はそのことを後悔し続けている。」
陽菜は指の圧を少し強めながら、信次に声をかけた。
「その教え子さん、信次さんがそんなふうに思っているなんて知らないかもしれませんね。」
「だろうな。私もあれから何も言えずに逃げてきたんだから。」
「でも、信次さんが今こうやって気にしているのって、その教え子さんを大切に思っていたからですよね?」
信次は黙って天井を見つめた。
「……そうだな。だが、それを伝える術もない。歳を取ると、自分の言葉がどれだけ相手に届くか、分からなくなるもんだよ。」
陽菜はしばらく考えた後、優しく微笑んだ。
「でも、今からでも遅くないと思います。信次さんがその気持ちを伝えれば、きっと教え子さんも何か感じてくれるんじゃないでしょうか。」
信次は目を閉じたまま、小さくうなずいた。
施術が終わり、信次はゆっくりと体を起こした。背筋が少し軽くなったように感じたのか、口元にわずかな笑みが浮かんでいる。
「桜井さん、少し勇気が湧いてきたよ。教え子に連絡を取る方法を考えてみる。」
「それがいいと思います。きっと信次さんの気持ち、伝わりますよ。」
信次は少し照れくさそうに頷いた。
「ありがとう。君のところに来ると、不思議といろいろ考えが整理されるんだ。」
「私なんて、ただ聞いているだけですよ。でも、それでお役に立てるなら嬉しいです。」
信次は帽子を被り直し、背筋を伸ばして「ほぐし庵」を後にした。
数日後、信次が再び訪れた時、彼の表情はどこか晴れやかだった。
「桜井さん、例の教え子と連絡を取れたよ。」
「本当ですか! よかったですね!」
「思ったよりも簡単だった。昔の同僚が彼の連絡先を知っていてな、それで直接電話してみた。」
「どんなお話をされたんです?」
信次は少し恥ずかしそうに笑った。
「謝ったよ。あの時、私が言ったことを後悔しているってな。すると、彼はこう言ったんだ。『先生、あの時の言葉があったから今の僕があります』って。」
陽菜は驚いた表情で信次を見つめた。
「すごい……その教え子さん、信次さんのことを本当に尊敬していたんですね。」
「そうらしいな。私には分からなかったが、彼なりに私の言葉を受け止めてくれていたようだ。」
信次の目には、かすかに涙が浮かんでいた。
信次が帰った後、陽菜は施術室を片付けながら、彼の言葉を思い返していた。
「どんな言葉も、伝える勇気があれば誰かの心に届くんだな。」
彼女の胸に、小さな希望の種が芽生える。自分もまた、誰かを癒し、支えることでその人の人生の一部になれるのだと。




