5-10
戦いの喧騒が、遠くに聞こえるようになったころ、先頭を行く兵士の目に、三名の騎士を先頭に、応援の兵士たちがやって来るのが見えた。
ようやくだった。撤退してきた兵士は、全身の力が抜けるのを感じた。気を失いそうだったが、それは何とかこらえた。
応援にやって来た騎士たち兵士たちの視線は、黒炎と化した魔族の神と、それに立ち向かう獣の神の戦いに固定されている。
「何だあれは」
応援部隊の指揮官らしい騎士が言った。
「ライナはどうした」
それは、初めに殺された騎士だった。
聞かれた兵士は無言で首を振った。答えを悟った騎士の顔が、怒りと悲しみでゆがんだ。
「あれは何だ。何があった」
「メドヴェ。あの黒炎の正体は、赤い目のメドヴェです」
騎士はいぶかしげに、兵士を見やった。
「馬鹿な。滅んだはずだ。十年前、クロンカーンの戦いで。アルデア神に」
「あの炎は、屍人を生みました」
騎士は黙り込んだ。
「あの獣は?」
「獣神レビアです」
騎士は不審を通り越して、正気を疑う目になった。
しかし答えた兵士は揺らがない。
確かにあの獣は、自分がそうだとは言ってないし、客観的な証拠も何もない。何より、獣神レビアははるか神代に死んで大陸の礎となった神である。
あの獣がレビアであるなら、今彼らが踏んでいる大地は何なのかという話になる。
しかし、絶望の淵から救われた兵士たちにとっては、そんな理屈は関係ない。彼らにとってあれは間違いなく、古き神の一柱、《獣神レビア》なのだった。
「少なくとも、あれが赤い目に対する存在であるのは、間違いないようです」
別の騎士が言った。
獣とメドヴェの戦いが、続いている。
獣の強さは、圧倒的だった。右肩を砕かれてもなお、その動きに陰りは見えない。足もとを気にせずともよくなった分、先ほどよりもむしろ動きにキレが出ていた。
獣が咆哮し、尾を振り、歯をむき出すたびに、メドヴェの黒い炎は散り散りになって裂けた。
獣が大地を踏む音が、地響きとなって伝わってくる。飛び散るがれきが、都市中に降り注いでいるようだった。
「下手な者があの場に行くのは、ただの自殺行為だな」
指揮官が、応援に来た兵士たちに、都市の混乱を静めるよう言い渡した。
撤退してきた兵士たちには、神殿に戻り詳細を報告するように伝える。
「場合によれば、首都に応援を頼むことにもなる。話を東部に収めるわけにはいかん。首都にも報告を入れよ。政争に夢中な上級神官どもを通す必要はない。これは武官の範疇。私の名でもって報告すればよい。責任は私が取る」
兵士は敬礼でもって答え、それぞれ自らの役目を果たすため、足早に散開した。
三人の騎士だけが、その場に残された。
「我々は、現場に向かい、獣とともに推定メドヴェを抹殺する。これは最優先だ。我々の命はもちろん、住民の安全よりもメドヴェの抹殺を優先せよ。何万人死ぬことになろうと、あれはここで殺さねばならない」
騎士たちは一斉に剣を抜いた。雷光をまとい、熱い息を吐く。
「行くぞ」
『来るな』
気勢を制する絶妙のタイミングで、彼らの頭に声が響いた。
騎士たちは二の足を踏み、それぞれ顔を見合わせた。
「今の声は。お前たちも聞いたのか」
うなずき合う。
「あの獣なのか?」
つぶやきに、答えが返ってきた。
『そうだ。聞いているぞ。助けなどは無用だ。一気に打ち倒す方法があるからな。お前たちに来られては使えない方法が』
「この声は、獣殿なのですか。本当に?」
『それ以外に何がある』
その答えには、あまり神らしくない、騎士たちの困惑を楽しむ遊び心のようなものが、ふくまれているようだった。
ますます声の正体が分からなくなる。
騎士たちの目に映る獣とメドヴェの戦いは、より一層激しさを増している。会話を楽しむ余裕があるとはとうてい思えない。
この声は、騎士たちに獣の助力をさせないように仕向ける、赤い目の罠かもしれない。
「我々がいては使えないというのは、私たちの命を慮ってのことですか。
そのご厚意は、ありがたく思います。
ですが、仮にも我々は、大リンネ神に力を与えられた騎士です。赤い目の宿敵がいて、それを遠巻きにしているだけでは、我らの名が折れます。
どうか戦わせていただきたい。敵を倒す手段があるなら、我々に構わずお使いください。我々なら、巻き添えになってどうなろうと構いませぬ」
騎士三人の命は安くはないが、赤い目の神を取り逃してしまう危険を考えれば、切り捨てるべき犠牲だ。そこに自分の命が入っていようと関係ない。
配下の騎士二人も、当然そんなことは分かっている。死を命じられようと、動揺はなかった。
『分からず屋どもめ』
ずっと動き回っていた獣が、足を止めた。
ひと際大きく咆哮する。
その衝撃は、メドヴェの体の中心に突き刺さり、内部をずたずたに引き裂いたようだった。
しかし、メドヴェはまるでひるまなかった。逆に、獣が足を止めたのを好機と見て、黒炎が空中で無数の蛇となって、獣の肉体に殺到した。
それを、天から降り注ぐ雷光が焼き尽くした。騎士たちが、すでにそこにいた。
風の吹く地上にいる限り、リンネの騎士の機動力は無限だ。
獣がメドヴェに踊りかかった。上から黒い炎に食いついて、全身の筋肉を稼働させて、音を置き去りにする勢いで、地面に叩きつける。
そのままゼロ距離で、これまでの咆哮がそよ風に思えるような、巨大な雄叫びを放った。
都市の全てが大きく鳴動した。
大地がたわみ、裂けた。破滅的なエネルギーがまき散らされ、人体ほどもあるような巨大な破片が放射状に、はるか遠くまで飛び散った。
岩石が豪雨となって次々降りかかり、都市が崩壊してゆく。
騎士たちは、その爆心地の最も近くにいた。神の力を持つとはいえ、彼らの肉体そのものは人間にすぎない。地に伏せてひたすら耐えるしかない。一人が、巨大な地面の破片にすりつぶされて、赤い染みとなった。
二人は無事だった。何とかやり過ごした。
メドヴェは。どうなった。
顔を上げようとした彼らに、影が差した。それが何かを確かめる間もなく、自分の体が何か大きなものに包まれ、どこかへ運ばれるのを自覚した。激しい振動に体が翻弄されたが、痛みはなかった。彼らを包むものは、柔らかく温かかった。
『暴れるな』
そこは、獣の口の中のようだった。彼らはぞんざいに吐き出されて、墜落した。
状況も理解できないまま、よろめきながら立ち上がる。
全身、ひどい熱を持っていた。血まみれで打撲は無数にあったし、骨もいくつか折れている。一人は右腕を失っていた。
しかし、生きている。
「何が、あった」
答えるものはいなかった。市街地に建てられた三階建ての建物の屋根の上に、彼らは二人でいた。一瞬で、かなり遠くまで移動したようだった。
獣はいない。忽然と姿を消していた。
なぜ? 運ばれたはずだ。あの獣に、ここまで。
あんな巨大な獣が、どうやって一瞬で消えた。あれは本当に古き神だったのか。
しかしそれなら、なぜいなくなった。
メドヴェは、まだ。
爆心地は、彼らのいる屋根の上から一望できた。巨大なクレーターが、そこにある。迷宮の外殻を覆っているグライン材の壁が、大きく露出していた。
底の方で、黒い炎がのたくっているのが分かる。
かなりのダメージを負っている。だが生きている。
ここで倒さねばならない。獣が消えてしまった以上、人が立ち向かう以外ない。
彼らは重い体を引きずり、再び悪夢の戦場へ向かおうとした。
瞬間、首筋に熱を感じた。
熱い。とても熱かった。
怪我の発熱ではない。何かが焼きついたような匂いが鼻につき、周囲の温度がさらに上昇している。肌が焼けていくようだった。
上に何かある。彼らは見上げた。
太陽。
ただし二つあった。一つはやけに巨大だった。
「何だ、それは……」
あり得ない。そう思ったが、現実の光景として、太陽はそこにあった。いや、見る間にどんどん大きくなってゆく。落ちてきている。
「夢か、これは」
「……」
「信じられん。こんな」
「これも、レビア神の御業なのでしょうか」
「分からん」
「……」
「神代にいた古き神とは、これほどの力を持つ存在だったのか」
正体不明の獣を、レビア神と呼んでいることに、騎士たちは気づいていなかった。
彼らは自然にひざまずき、拝んでいた。どうしてか涙があふれた。
まがい物の黒い炎を、真なる神の炎が押しつぶし、焼き尽くしてゆく。
美しい。それはまさに、神話の光景だった。
焼かれぬはずの魔神の肉体を苛んでいた慮外の炎が、前触れなくかき消えた。
うずくまって命を繋ごうと耐えていたメドヴェは、急激な温度変化による暴風に翻弄され、天高く巻き上げられ、墜落した。うめき声を上げる。
ぼこぼこと泡立つ大地の上に、ただじっと倒れ伏す。
迷宮にひそんでいた時の、十歳に満たない少女の姿に変わっていた。
しかし完全ではない。欠損していた。
すさまじい状態だった。下半身は腰から焼け落ち、左半身も肩口からごっそりとえぐり取られている。残った部分も、その大半が機能を停止している。
人であれば、間違いなく死んでいる状態だ。
メドヴェは、唯一残った右腕で力なく地面をかいた。
それだけだ。それ以上は、どうやっても動けそうになかった。
混乱していた。身を苛んでいた炎の熱に覚えがあった。
その前に現れた巨大な獣も、彼女は知っていた。だからこそ、余計に不可解だった。
どちらも、この場所にいるはずのない存在だ。
とうとう力つき、彼女は突っ伏した。煮えたぎった地面が、顔面を焼いた。
何かが近づいてくる気配を感じた。
何者か。人か。あの獣か。それとも……。
誰でもよかった。どのみち彼女は動けなかったし、これ以上は動く意味もなかった。突っ伏した格好のまま、彼女は待ち受けた。
焼けた地面を踏みしめる音は、彼女の頭上で止まった。
「おお、まだ生きてるんだな」
そのつぶやきと同時に、頭を剣で貫かれた。
いきなりすぎる。とどめを刺される前に、恨み言の一つでもぶつけてやろうと思っていた彼女は、さすがに鼻白んだ。
「なんてひどいやつなの」
メドヴェは頭を貫かれたまま、強引に顔を持ち上げた。頭部が縦に割ける。もはや人の形を保てなくなったが、今さら何の不都合もない。
黒髪、濃紫の瞳の男がいた。
思った通りだ。こんなふざけた炎を操る存在など、彼ら以外にいるわけがなかった。
「なぜ、ここにいるのかしら?」
男は、首を傾げた。
「言いたいことがあるなら、俺にも分かる言葉で話してくれないか?」
メドヴェは人の言葉を発そうとして、もはや人の声帯を模す力もないことを知った。
苦笑して首を振った。右腕を振り上げて、自分の胸の中心に突き入れる。弱々しく脈を打つ紅玉を握りしめ、引き抜いた。
「化け物め。お前の炎に殺されて、たまるか」
最後の力を振り絞り、宝玉を砕く。
意識が肉体を離れて、地下に吸い込まれてゆくのを感じた。




