5-9
迷宮から出てきたのはシグ・トリニアただ一人だった。
何かあったのか。
トリニア・ギルドには、十二人の戦闘員がいる。その全てが、今回はキリムと一緒に迷宮に入っていたはずである。
何より、肝心のキリムもいない。
シグは迷宮を出たところから一歩も動かず、異様な雰囲気にどよめく兵士たちを、ぐるりと見回した。
「なかなか盛大な出迎えだな」
そして笑う。筋肉を無理やり動かして作ったような、異様な笑みだった。
場の指揮を取る神殿騎士が、前に出た。
「シャタール様はどこか」
「やつなら、まだ迷宮の中にいる」
騎士の顔が不審に染まり、次いで怒りで赤くなった。
「何を軽々と。お前たちは、あの方の迷宮調査の護衛としてついて行ったのではないのか。護衛対象を置いて、何をやっている」
「ああ、それは嘘なんだ」
「何?」
シグはうつむいた。肩を揺らして、笑ったようだった。
危うい気配を感じて、とっさに下がろうとした騎士の肩を、シグは間合いの外から強引につかんだ。
腕が長い。伸びていた。骨格の限界を越えている。
騎士はほんの一瞬だけ、体を強張らせた。その一瞬が、致命的だった。
ガバッと顔を上げたシグの口から、黒い杭のようなものが飛び出した。それは人の腕ほどの大きさがあり、先端は恐ろしくするどかった。
突き刺さる直前、騎士は身をひねった。
心臓に刺さるはずだった杭はわずかにそれて、右肺を粉砕して背中に抜ける。
騎士は地に沈み、血に溺れてのたうち回った。二本目の杭が突き刺さり、今度こそ心臓が破壊された。
騎士の動きが永遠に止まった。死んだ。
場は痛いほどに静まった。
シグは声を出さず、笑っている。その瞳は、血の色に変化していた。
異様な緊張に包まれ、静寂が破裂しそうになったその時、シグの肉体が異様な膨張を見せた。人の形を失い、ぼこぼこした肉のかたまりとなり、黒く変色してゆく。
地面に転がった騎士の体を飲み込んで、さらに膨張する。
兵士たちに影が差した。
三十人の兵士を一飲みにしそうな、巨大な黒い炎が立ち上がった。
「抜剣!」
騎士の副官が悲鳴のように叫び、兵士たちは一斉に動いた。
四人一組で編隊を組む。しかしそのまま固着して、目の前の化け物を見つめた。
どう動くべきなのか。そもそも、この化け物は一体何なのか。
「抗うつもりか?」
兵士たちはびくりと体をすくませた。
見上げるような黒い炎の表面に、人間の口が開いている。そこから、金属音の入り混じった異様な声がもれ出した。
「たったそれだけの力で、このメドヴェに抗うつもりか。いいだろう。いいだrおう。その魂を食rあい尽kうし、肉体を永遠nいmtえあsdtんdwmrう」
人間の口が中に埋もれて行き、消えた。
黒炎のいたるところに切れ込みが入り、ぱっくりと割れた。無数の赤い目が輝いた。
怒号が上がる。
若い、魔族との戦場を知らない兵士の一人が、こらえきれず隊を乱した。それを止めようとして、編隊の三人も崩れる。
メドヴェの赤い瞳から、何か黒い針のようなものが飛んだようだった。
四人が一度に燃え上がった。
光を吸い込む黒い炎。彼らは悲鳴を上げる間もなく、肉体の全てを焼き尽くされた。
あとに残ったのは、骨。だが、ただの人骨ではなかった。
命を失ったはずのそれが、明確な殺意を持って、周囲の兵士たちに襲いかかってくる。
「屍人だ!」
「メドヴェ、本物の、赤い目の!」
「距離を取れ!」
「伝令、騎士を呼べ!」
「落ち着け!」
恐慌に陥りかけた兵士たちを、副官の一括が静めた。
「まずは、周囲四隊十六人で屍人を止めろ! その他はメドヴェを注視!」
指示を受ければ、その通りに動くのは容易かった。
彼らとて、そのほとんどが歴戦の兵士である。魔族との戦いは今も記憶に新しい。屍人の対処法も頭に刻み込まれている。
骨だけの体のくせに、屍人は恐るべき膂力を持っている。
二人でなければ止められない。
二人なら止められる。四人編隊は、そのためにあった。
一人が剣を受け、一人が支え、屍人の動きを止めたところに、一人が一刀両断に、頭に剣を振り下ろす。剣は頭蓋骨を粉砕し、胸の半ばまで埋まった。
心臓の代わりに脈を打っていた紅玉を見事にかち割っていた。
「よし! 問題ない。訓練通りにやれ。被害を広げるな!」
希望をふくんだ副官の号令。それが黒い炎に包まれた。
副官だけではない。全くランダムに隊列のそこかしこで黒い炎が上がった。
「馬鹿な! やつは何も!」
赤い瞳から飛んでくるものには、常に気をつけていた。
何もなかったはずだ。それでも殺されるのか。ならば一体、どうやって立ち向かえというのだ。
驚愕の暇を、メドヴェはくれなかった。
屍人が無差別に襲いかかってくる。
メドヴェ本体もとうとう動いた。天に向かって細く長く伸びあがった。そして無数の奔流に枝分かれ、黒炎の滝が地上に降り注いだ。
屍人に対処しようとしていた編隊が三つ、十二人の屈強な兵士の肉体が、一瞬でメドヴェの黒炎に飲み込まれた。そして爆発し、黒炎が飛び散る。
広がった。すごい速さだった。乾いた山野を駆ける炎よりも速い。
昨日まで寝食を共にしてきた友が、目の前で焼かれ、意思のない化け物へと作り替えられてゆく。そしてその炎は、次の瞬間には自分をも焼いてゆく。
そこかしこで、悲鳴が上がった。
それは神の暴虐だ。天災が、人を人と認識して殺意を持って殺しに来るのだ。
抗うことなどできるはずがない。
「うろたえるな! ここを突破されれば、市街地にどれだけの被害が出るか」
「すぐに騎士たちが来るはずだ。それまで耐えろ!」
激を飛ばした者から、次々焼かれていった。
やがて兵士たちは無言になった。
鎖を鉄のかたまりに叩きつけたような、異様な音が流れた。
メドヴェの発する声だった。
そこにこめられた感情を、人が読み取ることはできない。しかし、笑っているのだと、その場の誰もが直感した。
怒りはわかなかった。ただ恐怖と絶望があった。
それを押し殺して、黙々とただ死に向かう兵士たちに、不意に影が差した。
「何だ!」
一人の兵士が、屍人の肩口に剣を叩きつけながら、言った。
メドヴェが動いたのか。上からまたあの黒炎が降り注ぐのか。
思いながら、目の前の敵をしのぐのに精いっぱいで、確かめられない。差し迫った死の予感から、逃れることができない。
降ってきたのは、とてつもなく巨大な何かだ。
石畳が粉砕され、飛び散った。兵士たちは、自分の体が浮き上がるのを感じた。
見上げた。
獣だ。
大きい。荒々しい鼻息が土煙を払う。
それは生きていた。あまりの巨体ゆえ、近くにいる兵士たちから全容はつかめなかったが、それは確かに獣だった。
家よりも、神殿よりも、なお巨大な獣だ。
全身灰色の毛並みで、四つ足。尾は三本。非常に長く、自在に動いた。それが振るわれるたび、体ごと持っていかれるような風が吹いた。
大木のような足が四本、きれいに屍人が密集していた場所を踏み抜いている。
残った屍人も、尾が振るわれるたびに二体、三体と木っ端みじんになって消滅した。
獣は、兵士たちには一瞥もくれない。立ち昇る黒い炎しか見てない。
メドヴェもまた、居並ぶ兵士たちにはもはや関心がないようだった。いや、その余裕がないのか。突然現れた慮外の獣に、動揺したように揺らめいている。
メドヴェと向かい合っている。
つまり味方なのか。人を助けるために、降臨した存在なのか。
何ものなのだ、一体。
「獣。獣神、レビア……?」
太古の昔、すでに死んでしまったはずの神の名を、誰かが唱えた。
それは、絶望の淵にいた兵士たちの耳に、雷鳴のように響いた。言葉は力を持ち、真実となった。
今、彼らにとってその獣は、レビア神に他ならなかった。
静寂からどよめきが生まれ、やがてそれは神を称え崇める歓声へと変わった。
『お前たちは去れ』
兵士たちの頭の中に、神の声が響き渡った。
その瞬間、戦いが始まった。
獣の巨体がぶれた。大質量が猛烈な速さで移動し、それにともなう暴風が、遅れて吹き荒れた。
近くにいた兵士たちの体が吹き飛ぶ。
その時には、獣がメドヴェに食いついていた。
破裂音が鳴る。それは、メドヴェの悲鳴のようだった。
黒い炎がのたうち、大きく広がろうとした。それを、獣の尾が切り裂く。一つ一つの攻防の余波が、周囲の地形を変え、人を血の染みに変えてゆく。
黒炎が地を這った。地上には兵士たちがいる。
獣がメドヴェから牙を抜き、その黒炎を踏みにじった。黒炎はあっけなく消え去った。
あっけなさ過ぎた。それは、明らかな誘いだった。
獣のあぎとから逃れ、天に伸びあがっていたメドヴェが、その身を無数の槍と変えて、獣の無防備な体に襲いかかった。
避けられるタイミングではない。
獣が天に咆哮する。空間がゆがむ。
ゆがみは黒い槍の群れとぶつかり、爆発した。
とんでもない衝撃が、地上に降りかかった。大地は陥没し、人は地面に叩きつけられた。
それでも、迎撃できた黒炎の槍は、全てではなかった。
生き残った何本かの槍が集まり一つの柱となって、獣の肩に突き刺さった。
肉が弾け、骨が砕けた。獣の分厚い肉体を突き通して、柱は大地に突き刺さった。
派手に血がしぶく。
地上でそれをまともに浴びた兵士が、溺れそうになった。
獣が、地面を睥睨する。
『まだいたのか』
再び、兵士たちの頭に声が響く。
男なのか女なのか、老人なのか子供なのか、分かりにくい深みのある声だった。
兵士たちはひざまずき、地上に顕現した神にうかがいを立てた。
「これは、……あなたは、レビア様なのですか!」
『何を言っている』
「わ、我々はどうすれば!」
『邪魔だ。去れ』
兵士たちは泣きたくなった。こんな天変地異の中、まともに動けるわけがない。
だがそんなことを言っている場合でないのも、明らかだった。
何より、これは神託だ。
「撤退、撤退する!」
「怪我人に手を貸し、一刻も早くこの場を離れる!」
メドヴェに背を向け、じりじり進み始める。
途中、メドヴェの黒炎が迫ってくるのを、何度も背中で感じたが、実際にそれが兵士たちに届くことはなかった。獣が全て防いだようだった。
地を這う人間には理解できない攻防が、何度も繰り返され、そのたびに獣の肉体に赤い染みが増えていった。




