5-7
イスリスはアーリィと並び、見上げた。
漆黒の卵から羽化が始まった。
小さくひび割れて、どろりと濁った銀色の粘液がしたたり落ちる。ひびが大きく広がり、金属質な粘液があふれて出た。
やがて卵は、乾いた音を立てて破裂した。
殻は微細な粉末になって、宙に溶けるように消失する。
そして、何もない。卵の中は空だった。
消えたのか。
いや、違う。すでに生まれていた。
銀の粘液だ。
地上にしたたり落ちたそれは、いつの間にか一つに集まっていた。
小さくのたうち、急激に体積を増やし、いくつもの棘を生やした。それは大地を踏みしめ、足となる。
不気味に流動しながら、しかし決して崩れない銀色の粘体が、ぐいっと持ち上がった。
魔の証。真紅の光が二つ、そこに灯った。
アーリィが、つま先で地面を軽く叩いた。秘かに張り巡らせていた黒曜がそれを伝え、魔族の足もとで爆発する。
爆発は、巨大な黒曜の杭となって、下から魔族に突き刺さった。
あっけなく貫通し、銀の巨体が持ち上がる。
無意味だった。
するりと、何の痛痒も感じさせず、魔族の体は黒曜の杭をすり抜けた。
物理的な攻撃は、通用しないのか。ならば、攻撃手段は……
イスリスたちは目配せし合った。
無言で散開する。イスリスは前へ。アーリィは黒曜の櫂を浮かべて上空へ。
イスリスは、アーリィの存在を忘れた。一人で殺すつもりで戦えばいい。彼女のことだ。何も言わずとも最適な援護をくれるだろう。
私はただ、あの水銀の蜘蛛にありったけの電熱を浴びせることだけを考えるんだ。
ゆっくりした彼女の歩みが、徐々に早くなった。
走った。彼女の姿は大きくぶれて、やがてそれも消えた。疾風だ。音の壁を超える。
濁った破裂音をたなびかせて、雷をまとった短槍が一直線に突き進む。
魔族が変形した。それに要した時間は刹那だ。
十三の肢が融合して大きく伸ばされ、七本の巨大な鎌となって振り上げられた。
本体も、丸みを帯びた柔らかなフォルムから、一気に硬質化して、刺々しい攻撃的なものに変わる。そこに浮かんでいた二つの紅点が分裂して、無数の眼球となって散らばった。
死角が消えたということか。
接敵までの寸刻のうちで、魔族の赤い視線がいくつも束になって注がれるのを、イスリスは肌で感じた。
ごぼごぼっという音を聞いた気がした。水中で誰かが話しているような、異様な音だった。
魔族か。この音は、笑っているのか。
上等だ。正面からぶっ殺してやる。
突き進む雷光を迎え撃ったのは、四本の大鎌だ。くすんだ銀光が弧を描いて、それぞれ全く別の方向からイスリスに襲いかかる。
その全てを、イスリスの肌を這う微細な電気は感知している。
彼女は、吐息をついた。それは口外に吐き出されたとたん、何百万倍にも増幅されて突風となり、彼女の体に急制動をかけた。
全身でバランスを保つ。
前方で、鎌が地面に激突した。
それを見るなり再び突撃。次の瞬間には、地面に突き刺さって動きを止めた大鎌を、間合いの内に捉えている。
かすかな拮抗を経て、雷の槍が水銀の鎌に突き刺さった。
激しい明滅。身の丈ほどもある銀の鎌が、音を立てて痙攣し、波打った。雷光の輝きは触腕を通って、魔族本体にまで伝わってゆく。
だが、間一髪、到達する前に切り離された。そして切断面から傷一つない新たな大鎌が生み出される。
切り離された方は形を失い、地面にしみ込んで消えた。
ダメージがないのか?
いや、切り離したということは、電気が本体にかかるのを恐れたということだ。次は直接撃ち込んでやればいいのだ。やつが滅ぶまで、何度でも。
魔族の本体が動いた。
前触れなく弾かれたように急激に跳び上がり、イスリスの手の届かない高みでぴたりと静止した。
イスリスは舌打ちする。こちらの狙いは、把握しているということか。まずは、あれを叩き落さねばならない。
見上げて歯噛みするイスリスの視界が、次の瞬間、黒曜の輝きに満たされた。
蜘蛛の糸のように細く伸ばされた黒曜が、視界の限りに、一瞬で張り巡らされていた。空中にあった魔族の本体にも、無数の黒曜の糸が絡みついていた。
アーリィの意図を一瞬で理解したイスリスは、すぐ近くに垂れ下がった糸をつかみ、ブレスレッドに巻き付けると、即座にありったけの電撃を流した。
張り巡らされた黒曜が、青白い輝きを走らせて、それまで、局所局所で燃えていた炎とは比べ物にならない膨大な光が、空間を満たした。
激しい電撃に身を焼かれ、魔族は体をふるわせた。
巨大な鎌が縦横無尽に動き、黒曜の巣を破壊する。しかしそれは切られても切られてもすぐさま繋がり、魔族にまばゆい電熱を供給し続ける。
この状況を作り出したのはイスリスではない。アーリィだ。
魔族の赤い瞳がぐるぐる動いて、空中で隠れひそむアーリィを捉えた。
彼女は、魔族のさらに上空にいた。
その周囲、虚空から無数の鞭が一度に飛び出した。前後左右、上下、三百六十度、びっしりすき間なく包囲される。
迫りくる水銀の鞭に対して、アーリィができたことは急所をかばう動作だけだった。
ぱんっ、と赤い血煙が広がった。
アーリィの体が、人形のように打ちのめされた。
張り巡らされていた黒曜の巣が、幻であったように一斉に消えて、辺りが再び薄闇に覆われた。その中を、アーリィが落下してゆく。
「アーリィ!」
電撃を止めて、落下地点に急行しようとしたイスリスの行く手をさえぎったのは、上空より飛来した三本の水銀の大鎌だ。
「邪魔だ、この!」
雷光の槍撃が、それをなぎ払った。
しかし魔族の触腕は次々再生し、さらに枝分かれして彼女を翻弄する。
イスリスは焦燥にかられて、一度全力で電撃を放射した後、傷を負うのも構わず、防御を捨て、アーリィの落下地点に急激な上昇気流を生み出した。
だが、その恩恵を受けるより前に、アーリィの体は動きを止めた。魔族が、彼女の足首に水銀の鞭を絡めて、止めたのだった。
もちろん、彼女を落下死から救うために止めたのでないのは、明らかだった。
アーリィの体は、高々と吊り上げられた。
アーリィは、意識がないのかぴくりとも動かない。びりびりに裂けたマントが、肩から抜けて、はためきながら落下していった。
生白く輝くような、アーリィの肢体があらわになる。
全身が血にまみれ、だらりと垂れた腕の先から、鮮やかな赤色がしたたり落ちている。白と赤が混ざり合って、眩暈がするほど淫靡な光景だった。
水銀の大鎌が近づいてゆく。それは見る間にするどさを増し、槍となった。
アーリィは目を覚まさない。
その腹腔に、魔族の槍が深く刺し込まれた。血が噴出する。アーリィは、かっと目を見開いた。
目を覚ましたアーリィは、即座に状況を理解したらしかった。
魔族はその目の前だ。両者の視線が、絡み合った。
アーリィは赤い瞳をかすかに揺らめかせたが、それは刹那にも満たない一瞬のことだった。
心を決めたように、彼女は目を閉じ……それが、かすんだ。アーリィの体が空に溶け、黒い靄となって鞭の拘束から逃れる。
それに襲いかかるのは、水銀の獣だ。
魔族の本体から生まれ、完全に分離した獣たちは、得られた自由に喜び猛り、黒い靄に突撃し、食い荒らした。
悲鳴が上がった。
女の悲鳴。アーリィの声だ。
腹を貫かれてさえ、かすかな苦鳴ももらさなかった彼女が、子供のような叫び声を上げていた。
広がりかけていた黒い靄が、再び一つになり、力を失い落下してゆく。それは途中で人の形を取り戻した。
今度こそ、頭部から地面に叩きつけられそうになったアーリィの体を、しかし、その寸前で人の手がすくい上げた。イスリスだ。
水銀の触腕の妨害を、無理やりくぐり抜けてきた彼女は、全身傷だらけだった。
しかし間に合った。助けられたのだ。
「アーリィ! 生きてるか!」
アーリィは無言だ。しかし確かにうなずいた。
すさまじい状態だ。
白いスキンスーツは原形を留めないほどに引き裂かれ、彼女はほとんど全裸だった。自ら口を開いたような全身の傷から、泉のように血があふれている。水銀の槍に貫かれた腹には、黒い靄がわだかまっていた。
それが何を意味しているのか、イスリスには分からない。
人であれば、間違いなく死に至る攻撃だった。
リンネ神の騎士であるイスリスでさえ、腹部を貫通する攻撃を食らって、戦いを続けられる自信はない。
「大丈夫なのか」
アーリィは再び小さくうなずいた。
「命には、別状は……」
消え入りそうな声だ。だが今は、その言葉を信じるしかなかった。
イスリスは彼女に肩を貸して、油断なく槍を構えた。
どうしてか魔族は、この絶好の機会に攻撃しては来なかった。空中に留まり、無数の視線をアーリィに固定している。
魔族に特有の、鼓膜を直接引っかかれたような耳障りな声で、何かを言った。
ぐったりと下を向いていたアーリィが、勢いよく顔を上げた。
魔族がまた、何かを言う。
常に平静なアーリィが、怒りで顔をゆがめた。
「違う。軽々しく、よくもそんなこと……」
魔族が答えて何かを言った。
「黙れ。違う! 私は人だ。お前たちの仲間になど、誰が!」
アーリィには、魔族の言うことが分かるようだった。
イスリスには分からない。
仲間? 魔導士であるアーリィを、仲間に引き入れようとしているのか?
「アーリィ、耳を貸すな。動揺したら思うつぼだ」
「うるさい!」
アーリィは髪を振り乱した。声は、まるで泣いているようだった。
どんなことを言われれば彼女がここまで取り乱すのか。
イスリスは焦燥した。
その背中に触れるものがあった。それは微妙な動きで、イスリスの背をなぞった。
はっとして、意識を集中させる。
「熱」「弱点」「私」「炎」「風」「依頼」
伝言だ。こぼれそうになる笑みを、何とかこらえた。
やってくれる。
アーリィは取り乱してなどいなかった。
『この魔族は熱に弱い。私が炎をつけるから、風を使い燃やしつくせ』
炎を、アーリィがどうやってつけるのかは分からないが、彼女が言ったからには、必ずやりとげるだろう。私はそれを見逃さず、ついた炎を煽ればいい。
風であれば、この空間のどこへでも、存分に手が届く。安全地帯にいるつもりでいる敵に、必ずひと泡吹かせて、そのまま殺してやる。
「いいから、ちょっと落ち着け」
なおも、魔族に向かって感情的にわめきたてているアーリィの口を、イスリスは無理やりふさいで見せた。そして、眉間にある急所を突く。
もちろん実際には突かない。そう見せただけである。
その意図を理解したらしい。アーリィは、ぐったりと意識を失った。イスリスすらだまされてしまいそうな、見事な演技だった。
彼女の体をそっと横たえて、イスリスは滑るように移動した。
魔族は、アーリィを味方に引き入れようとしたのだ。ならば、すでに気を失って見える彼女より、まずは私を標的にするはずだ。
その予想は正しかった。それまで二人に向けられていた水銀の触腕が、イスリス一人に向けられる。
大鎌、鞭、槍。無数の銀光が、殺到する。
その全てが、切断されて宙を舞い、電撃で焼き尽くされた。
即座に再生して再び牙を剥いてくる水銀の包囲網を、イスリスは強引に突破する。
終わりがない。本体に手が届かない以上、決して報われることのない死に向かう戦いだ。
隙を見て、右手を魔族に向ける。空気の流れに干渉。魔族の上部と下部に、意図して空気圧差を作る。上を高く、下を低く。
強烈な風が、地上に吹き下した。風というより空気のかたまりというような、破壊力のある突風だ。
しかし魔族は、それをひらりと避ける。目に見えない風をどう感知したのか。人には無い特殊な感覚器官でも備わっているのか。
構わない。風でお前を叩き落とすことが、私に残った最後の希望なのだと、そう思い上がっていろ。
そこに勝機が生まれる。
イスリスは、再び魔族に右手を向けた。その隙を突かれた。
巨大な水銀の触手が、地面を突き破っていきなり現れ、彼女の体を強く打ち据えた。息が止まる。ものすごい衝撃を胸に受け、彼女の体は高々と舞い、地面に叩きつけられた。
そこに無数の銀の獣が襲いかかる。アーリィを食いちぎった、あの獣たちだ。
イスリスは跳ね起きた。疾走しつつ、槍で獣を打ち払う。
彼女が進む軌道を、電撃の白光と飛び散る水銀のくすんだ輝きが彩った。水銀の鞭が、地面を這った。イスリスの動きを妨害しようと、足を捉えにかかる。
それは、彼女の影すら捕まえられない。一瞬たりとも同じ場所には留まらず、イスリスは全力で動き続けた。
分かっていた。動きを止めた時が、自分の死ぬ時だ。
いかなリンネの騎士とはいえ、その体力は無尽蔵ではない。
まだか。アーリィ。炎は。
振り仰いで確認したくなるのを、イスリスはぐっとこらえた。
炎が灯れば、空気の流れができる。自分にそれが察知できないわけがない。目で見る意味はない。
極力、あやしまれるような行動は避けるべきだった。
地中から、再び水銀の触手が突き出された。それは見た手だ。イスリスは余裕をもってそれをさばき、そしてそれが囮であることを知った。
虚空から、銀のワイヤーが召喚される。
それはイスリスの四肢に深く突き刺さり、彼女を拘束した。
動きの止まったイスリスに、魔族が全ての攻撃を繰り出す。くすんだ水銀の輝きが、視界を埋めつくした。
風が起きた。炎。灯った。
数瞬先の確実な死を、イスリスは忘れた。
傷が広がるのも構わず無理やりワイヤーを引きちぎり、両手を上空の魔族に掲げる。十指が、硬く握り込まれた。
魔族のいる空間が、大きくゆがんだ。周辺の空気がもろとも圧縮され、流れ込む。
水銀の表皮をなぞるだけだった小さな炎が、瞬間、巨大な緋のかたまりとなった。金属質な悲鳴が上がった。
無数の触手をばたつかせて、魔族は空中をのたうち回った。
大鎌が、炎に焼かれる表皮を削り取り、その猛威から逃れようとする。しかし無意味だ。削られたそばから、炎はますます勢いを増し、魔族の体を焼いてゆく。
魔族が、跳ねた。
向かう先は地底湖だ。
止める間もなく、炎のかたまりが水面に落下する。その瞬間、轟音とともに、すさまじい爆風と白煙が広がった。
超高温の物体に触れた水が一気に蒸発し、灼熱の水蒸気爆発を起こしたのだ。
巻き上げられる高温の水蒸気。そこから上空に跳び上がる影が一つ。
魔族だ。炎はすでに消えている。だが、体のあちこちがぼろぼろに崩れ、すでに原形を留めていなかった。
水蒸気の持つ熱から逃れようと、必死に触手を伸ばしていた。
そこに、空気の衝撃が叩きつけられる。
ひとたまりもなく魔族は再び落下し、待ち構えていた短槍にその身を深く刺し貫かれた。
ありったけの電撃が、そこから注ぎ込まれる。
魔族は身をよじり、弱々しい苦鳴をもらした。
ひび割れていた肉体が崩壊を始める。槍の刺さったところから二つに大きく裂け、散り散りになってゆく。それすらも、まばゆい雷撃に焼かれて、消滅していった。
魔族は最期に、一本の触腕を天に向かって伸ばしたが、それは空をかいただけで、力なく垂れ下がった。形を維持できなくなった水銀の肉体が、黒く重い土くれになって、ぼろぼろと湖面に落下して、沈んでいった。
次回から視点は地上に移ります。




