5-6
交代で何度かうつらうつらしただけで、自然と休憩は終わった。
警戒のために、辺りに張り巡らせていた黒曜の網を消し去り、二人は出発した。
とはいえ、闇雲に動き回ってもどうにもならないのは、分かり切っている。出発点に目印を立てて、壁沿いに歩いてゆく。
いくらも行かないうちに、足は止まった。
水だ。波のない、こわいほど平坦な水面が、二人の前に広がった。
果てのうかがえない、巨大な地底湖だ。
「まさか、ここをもぐっていくのか」
イスリスは水に手を浸した。
ただの水だ。だが、骨の髄まで痺れるほど冷たかった。こんな水に浸かれば、すぐに凍え死んでしまう。
アーリィが右手に黒曜の櫂を生み出して、水の中に突っ込んだ。
中をかき回して探りを入れているらしい。
「しばらくは、腰の深さまでの浅瀬が続いていますが、急に深くなるようです。その先は底が知れません。水に流れはありません。動くものも、いません」
「広さは分かる?」
「いえ、正確には。ですが、かなりのものかと」
アーリィは櫂を消し、代わりに水面を覆うように黒曜の網を張り巡らせた。かなり広範囲にまで広がってゆく。
水に溶けてしまいそうな薄い網。
しかし闇の向こうを大雑把に調べるだけなら、それで十分だ。
「何かあるようです」
しばらくたって、アーリィは言った。
そして、かっと目を見開いた。水面を覆っていた黒曜が一気に黒い靄となって、彼女の右手に吸い込まれていった。
「湖の途中に島が。そこにいた何かに察知されました。こちらに来ます。数秒以内。魔獣ではない。これは」
イスリスが、アーリィが指さした方に渾身の電撃を放った。
闇を切り裂いた閃光は、しかし途中であえなく霧散して消えた。
「な、なんで」
防がれたのではない。かわされたのでもなかった。
闇の向こうで、何か巨大なものがうごめく気配がした。
低い音が聞こえた。それが徐々に大きくなってゆく。
何か黒いものが、猛烈な速さで押し寄せてきていた。闇より黒く、雷の一撃をものともしないほど巨大な何か。
アーリィが、掲げ持っていた明かりを投げた。
水に落ちる。火は消えなかった。
乾いた音とともに、落ちたところから無数の火の粉が四方八方に飛び散って、飛び散った先で一気に燃え上がった。
燃えるものもなく、空中に留まり続ける巨大な炎。
広大な空間が照らされ、浮かび上がった。
黒い霧が空間を侵食していた。
渦を巻く黒いうねりが、恐ろしい勢いで広がってゆく。湖を食らい、岩壁を食らい、炎を食らった。
地響きが迫ってくる。
先触れのように、透明な暴風が二人の体を揺らした。体を傾け、耐える。
重い土が舞い上がり、湖面が大きく波打った。
黒霧の中央で、巨大な赤い花が開いた。
視線を感じた。
赤い目。見られている。瞬間、開いた紅点が、黒い霧の中から飛び出してきた。
速い。そして、巨大だった。
とっさに、イスリスはアーリィを突き飛ばし、その反動で自分も地に伏せた。
二人の立っていたところに、巨大な紅のかたまりが突き刺さった。
恐ろしい破壊が、まき散らされた。
底が抜けたように地面が陥没し、めくり上げられ、打ち上げられた。人間の体など、ひとたまりもなく宙を舞う。
上も下もない、ただゴミのように翻弄される中、空中でイスリスは身をひねった。
黒霧が、獣のあぎととなって襲いかかってくるのが、回転する視界の端にかかったのだ。
脇腹を、何かがかすめた。
痛みはない。ただゾッとするような寒気が走った。ふわっと気が遠くなった。体の末端から痺れ、感覚がなくなる。現実から遊離してゆく。
まずい。大量に出血して、徐々に死に近づいていく時のあれだ。
声を発した。
大声を上げたつもりが、ほんのうめきにしかならなかった。そのうえ舌を噛んだ。
その痛みすら、遠い世界のことのように思える。
全身に強い衝撃が走った。肺から空気が絞り出された。息ができない。
何が起きた?
背中に冷たい感触があった。地面だ。仰向けに倒れているようだった。
地面に墜落したのか。だが今はありがたい。
おかげで意識を取り戻した。
無意識に受け身を取っていたようで、動けなくなるような怪我はなかった。短槍も手放していない。痛いほどに握りしめていた。
イスリスは立ち上がった。
眩暈がしてふらついたが、それだけだ。
脇腹に手をやる。大丈夫。少し肉がえぐれただけだ。戦いに支障はない。
我が肉体ながら、よく耐えてくれた。
周囲は様変わりしていた。
衝突で打ち上げられた水と黒い土が、豪雨のように一帯に降り注いでいる。全身が、あっという間にドロドロになった。
地面には巨大なクレーターが穿たれており、そこに湖の水が怒涛となって流れ込んでいる。
「アーリィ!」
彼女は無事なのか。姿が見当たらなかった。
まさか波に飲まれたのか? いや、あの破壊の範囲外には押し出したはずだ。
どちらにせよ、探している余裕はないようだった。
クレーターの中心から、紅点が浮かび上がってきた。
球体のそれは、空中でぐねぐねと形を変えて、やがて人型を取った。そこから目鼻のある人間への変化は、一瞬だった。
気づいた時には、そこに一人の神官がいた。
キリム・シャタール。
リンネ神殿の大神官。大戦の英雄。
しかしその目は、血のような赤だった。
魔族だ。
大戦の終結からおよそ八年。人間は地の底で再び天敵と遭遇したのだった。
イスリスは恐怖と焦燥で息を荒げて、魔族をにらみつけた。
「お、お前、いつから」
いつから、人として人間の社会に溶け込んでいたのか。
大戦後、三大神の目からどうやって逃れてきたのか。
他に仲間はいるのか。
魔族は答えなかった。
「ここにいてもいいのか?」
人の言葉。キリムの声そのままで、魔族は言った。
これまでキリムに化けていたのだから当然なのだが、実際に目の前で話されると、それはやはり大きな衝撃だった。
「今ごろ、地上は火の海になっているぞ」
「何だ、何のことだ」
「ちょうど今、我が同胞が地上を席巻しているころだろう。我が神も、すでに地上に出て東へ向かわれた」
槍を強く握りしめた。
本当なのか。真実なら。どうなる。
防げるのか。ランセット市にいる人間だけで。
防げなければ。
本当に火の海に? 皆死んでしまうのか?
魔族の顔が、大きくゆがんだ。顔のパーツが崩れてぐちゃぐちゃな配置になった。どうやら笑ったようだった。
「安心しなさい。お前に興味はない。去れば追わない。今すぐに地上に戻れば、もしかしたらお前の大切な人間の危機を救えるかもしれんぞ。どうする? お前にとって、何が最も大切なものなのか、よく考えて決断することだ」
ざらついた、やけに耳の奥底に残る声だった。
「だ、だまれ……」
「おびえることはない。自分の心に正直になりなさい」
「黙れ!」
イスリスは短槍を渾身の力で投擲した。
風を噴射して一直線に突き進む切っ先が、魔族に襲いかかり、そして不可視のフィールドに弾かれた。
しかし、その時すでに、イスリスは魔族に肉薄している。投擲と同時に突進していた。
「がぁッ!」
全身にまとった雷光を右腕に収束させ、胴体の中心に叩き込む。
貫いた。霧を突いたような手ごたえ。
当たってない。悪寒がした。
イスリスは、後ろに思いきり跳躍した。
離れない。彼女の動きにまとわりつくように魔族がついてくる。
ゆがんだ笑みがすぐ目の前に広がる。
攻撃が来る。防げない。
ブレスレッドに結わえられた鋼線を思いきり引く。弾かれて空中にある短槍をたぐり寄せる。
キリムの体が割れ、巨大な口腔となった。短剣のような牙が不規則に並んでいるのが、やけにはっきりと見えた。
槍は。間に合わない。駄目だ。
その時、二人の足もとから、ものすごい勢いで黒曜の杭が飛び出してきた。それは魔族の肉体を股間から頭頂まで一気に貫き、地面に縫い止めた。
魔族の動きが初めて止まった。
短槍は、すでにイスリスの手の中だ。再び、敵の肉体の中心に突き込んだ。
今度はきっちり肉を裂いて貫き通した。
ありったけの電撃をぶち込む。魔族の肉体が明滅し、痙攣する。得体の知れない体液が飛び散り、それもすぐに蒸発してゆく。
それでも魔族は動こうとした。自分の肉体に刺さった槍をつかみ、体をよじった。
ほとんど崩れ切っていたキリムの顔が、再びまともな形になって、イスリスに微笑みかけた。
「その顔を、お前が、やめろ!」
意地でもここは引かない。電撃の放射は止めない。槍も離さない。
魔族が手を上げた。何かしようとした。
その前に、貫通していた黒曜の杭が、魔族の体内で無数の棘を生やした。魔族の全身から、するどい切っ先が大量に飛び出す。
それは続けて、猛烈なスピードで回転し始めた。
魔族の肉体が、ミンチになって辺りに飛び散った。
血肉ではない。黒っぽい土のかたまりとなって地面と混ざり、消えた。
イスリスは荒い息をついて、ようやく放電を止めた。
やった。のか?
辺りを見回す。何もいない。倒したのか? 魔族を。本当に?
「アーリィ!」
応えるように、クレーターのそばで地面がぼこっと盛り上がった。黒い地面から白いものがのぞいていた。
アーリィだ。
彼女は地表に顔を出すと、一度大きく息をついた。立ち上がろうとして、髪にへばりついた泥の重みのせいか、少しふらついた。
イスリスは駆け寄る。
アーリィは頭上を振り仰いでいる。
黒霧が拡大をやめて、風もないのに動き回っている。ある一点を中心に、収束しているようだった。
「まだ、生きてるのか……」
「先ほどのものは、あの魔族が人に擬態するため、シャタール様の肉体を利用して作り出した傀儡にすぎません。あの黒い霧こそが、正体です」
イスリスはため息をつきたくなった。
あの一瞬で何度死ぬかと思ったことか。それが、ただの傀儡だったとは。
「きつい戦いになりそうだね」
「はい。ですが、引くわけにはいきません」
アーリィは断言した。
イスリスはかすかに逡巡した。
先ほど魔族に聞かされた話が、胸の奥に小さな針となって刺さっていた。
メドヴェがすでに地上に出た。
真実かどうかも分からない話だ。アーリィに伝えるべきだろうか。
しかし、戦いの前に、彼女に余計な迷いを与えることになるかもしれない。その迷いが彼女を殺すなら、伝えるべきではないだろう。
しかし、もし真実なら……。
「地上のことが、心配ですか?」
イスリスは、はっとして現実に戻った。
アーリィは先ほどまでと全く同じ姿勢で、上空でうごめく魔族をじっと見つめている。
広大な空間をほとんど満たしていた黒霧は、今やその全てを一点に集中させ、もはや霧とは呼べない黒いかたまりとなっていた。
それはまるで卵のようだった。
「話、聞いてたのか」
アーリィは小さくうなずいた。
「地上のことならば、何の心配もいりません」
「あれは、適当な嘘だってこと? だけど赤い目のメドヴェは、ここにいないみたいだ。ここより深くにもぐったのか?」
「いえ、それはないでしょう。おそらく」
迷宮をあまり深くまでもぐるのは、魔族にとっても危険なのだと、アーリィは語った。
彼らの本当の居場所は深淵だ。そこに近づきすぎると、引き寄せられて、二度と再び地上に出てこられなくなる。
「力を取り戻したならともかく、現状では、ここよりも深くにはもぐれないはず。メドヴェが地上に出て、東部に向かったというのは事実なのでしょう」
「なら、やっぱり」
「いいえ、それでもやはり、心配は無用なのです。魔族が、どれほど大挙して地上に押し寄せようと、それがどれほど強大な存在であろうと、無意味なのです。ランセット市には今、世界最高の神格が、顕現しておいでですから」
アーリィの言葉は、正体不明の自信に満ちている。
イスリスには全く意味が分からなかったが、彼女はそれ以上悩むのをやめた。
全ては、終わった後に考えればいいのだ。余計なことを考えながら戦える相手じゃないことだけは、確かだった。




