第六話「愛こそ全てです」
*ヴィルは死んだ訳ではありません。
目の前に広がる幻想的な光景に、ヴィルヘルムは束の間見惚れた。
「……………」
赤、白、黄、紫、桃色……色とりどりの美しい花が一面に咲き乱れ、柔らかな太陽の光が降り注ぐ。まるで花の絨毯を敷き詰めたかのような花畑の真ん中にヴィルヘルムは一人立っていた。
時折吹く穏やかな風が、彼のもとに花の甘く優しい香りを運んでくる。
「ここは……」
「ヴィル様!」
見覚えのない景色に呆然と辺りを見回していると、後ろから声を掛けられた。この鈴を転がすような可愛らしい声は彼の婚約者のものだろう。
「レティ?」
振り返ると、予想通りレティシアが立っていた。
彼女の蜂蜜を溶かし込んだかのような金の髪が、日の光に反射しキラキラと輝いている。鮮やかな彩りの花々に囲まれた姿は息を呑む程美しい。
「……………」
心を奪われたように立ち尽くすヴィルヘルムに、レティシアはニッコリと笑い掛けてくる。周りの花々にも負けないその可愛らしい笑顔に、ヴィルヘルムは無意識に彼女の方へと手を伸ばした。
「大好きですわ、ヴィル様!」
伸ばした手がレティシアに触れる前に彼女の方から抱き着いてくる。その身体を優しく受け止め、ヴィルヘルムは腕の中の婚約者に囁いた。
「レティ……掴まえた」
込み上げる愛おしさのままに彼女へと口付けようと顔を近付ける。
「あら、掴まっているのはヴィル様の方ですわ」
「…………は?」
レティシアの言葉に閉じようとしていた目を開けると、彼の婚約者は巨大なナメクジへと姿を変えていた。ヴィルヘルムを飲み込む程大きなソレはヌメヌメと身体を蠢かせると、離さないとばかりにヌチャっと身体にへばり付いてくる。
「~~~~~っ!?」
触角の間に開いたおぞましい穴が目の前に迫って―――――。
◇◇◇
ヴィルヘルムは寝台から飛び起きた。
「……っ、はぁはぁはぁ……っ」
全力疾走したあとのように呼吸が乱れている。
……っ、良かった、夢か。
ヴィルヘルムは未だ治まらない動悸を落ち着けようと大きく息を吐いた。冷や汗を拭う微かに震えた手が、彼の感じた恐怖の度合いを物語っている。
「大丈夫ですか?」
横合いから突然掛けられた声に身体がビクリと跳ねた。
いつもなら聞くだけで思わず微笑んでしまうその可愛らしい声も、先程の悪夢のあとでは恐怖の象徴のように感じられる。
ヴィルヘルムは再び激しくなる動悸を抑えるように拳を握り締め、そーっと声がした方へと強張った顔を向けた。
「……レティ?」
寝台のすぐ横に置かれた椅子に座り、こちらを心配そうに見つめているのはレティシアだった。
「大丈夫ですか? ヴィル様、酷くうなされておいででしたわ」
“お水を飲まれますか?”と問い掛けてくるのは、間違いなくヴィルヘルムの“理想の天使”である。金の髪もエメラルドグリーンの瞳も白い肌も、彼の愛した姿そのままだ。
自分を凝視するヴィルヘルムに戸惑いの表情を浮かべる彼女に、ナメクジを連想させるものなど何一つなかった。
「……ヴィル様?」
レティシアは、なんの言葉も返さない婚約者の名前を頼りなさげに呟く。その弱々しい声音に庇護欲を掻き立てられ、ヴィルヘルムは夢の内容をアッサリ忘れ去った。……現金な男だ。
「私なら大丈夫だ。何せ、レティが傍にいてくれるのだから」
「まあ、ヴィル様ったら。……でも、本当に心配しましたのよ。突然倒れてしまわれるから……」
「ん? 倒れた?」
ヴィルヘルムは一体何のことだと首を捻る。
どうやら、彼は自分の身に起こった出来事を覚えていないらしい。夢に見る程のトラウマになっているというのに。心の防衛本能だろうか。
「はい……その、わたくしがヴィル様に口付けしたあとに」
「…………っ!」
レティシアの“口付け”という言葉で、気を失う前の情景がまざまざと思い出された。ヌメリを帯びたナメクジの身体と触角の間に蠢くおぞましい口が。
~~~~~っ!!
ヴィルヘルムは叫びだしそうな恐怖に唇を噛み締めて耐える。
本当なら今すぐにでも手洗い場へと走り、口を洗いたかった。むしろ、引き千切って新しい物と交換したい。
しかし、さすがの彼も口付けした相手の前でソレをすることはできなかった。……レティシアがナメクジの姿のままなら塩の一掴みでも投げ付けたかもしれないが。
「……そ、それで、レティは無事に元の姿に戻れたんだな」
「はい。ヴィル様の愛の力ですわ!」
「……………」
満面の笑みを浮かべるレティシアに複雑な気持ちが湧く。
……魔法で呪いが解けるんじゃなかったのか。
なぜ、私が口付けすることになったんだ。
アレクサンダーは“魔法で解呪できる”と言っていたはずだ。
実際、レティシアは一度は人間の姿に戻っていた。にも関わらず、なぜ自分がナメクジに口付けすることになったのかとヴィルヘルムは訝しむ。
「……レティの呪いは、魔法で解けたのではなかったのか?」
その質問に、レティシアは少し申し訳なさそうな顔になった。
「それが……アレク様が“愛し合う二人には魔法なんて必要ない”と仰って。
魔法で呪いを解くのではなく人間の姿に見えるように幻術をかけて、ヴィルヘルム様に口付けして頂こうという作戦だったんですわ」
“騙すような形になってしまって、ごめんなさい”という彼女の言葉は、もうヴィルヘルムには聞こえていない。彼の心はアレクサンダーへの罵りの言葉でいっぱいだ。
……あの、ハイディングスフェルトの悪魔がっ!
“イェーイ”とVサインを作り、楽しげに笑うアレクサンダーの姿が思い浮かび、殺意が湧く。
協力者として自らが呼んだ友人に完全に裏切られていたらしい。道理でやたらと嫌な予感がした訳だ。
「……それで、アレクは今どこに?」
その顔に抑えきれない怒りを滲ませたヴィルヘルムの言葉に、レティシアは困ったように首を傾げた。
「アレク様はもう帰ってしまいましたの」
「……帰った?」
「はい。……ふふっ、“自分も婚約者に会いたくなった”と仰っていましたわ」
「……………」
どうやら、ややこしいことになる前に逃げたようだ。
遣り場のない怒りに肩を震わせるヴィルヘルムに気付くことなく、レティシアは婚約者思いのアレクサンダーの行動に“素敵ですね”と微笑んでいる。
……っ、破局してしまえっ!!
ヴィルヘルムには怨念を送ることしかできなかった。
◇◇◇
夏至祭では男性は胸に一輪の花を挿し、女性は同じ花で冠を作る。
祭りで使われるのはフェルディーン王国でしか栽培することができない“ペルル”と呼ばれる花だ。白く光沢のある七枚の花弁が特徴で、花言葉が“不変の誓い”であることから夏至祭は恋人達の祭りでもあった。
レティシアの呪いが――ヴィルヘルムにとっては不本意な形で――解かれてから一週間が過ぎた。
もちろん、夏至祭での王太子の婚約発表は当初の予定通り行われることになっている。レティシアがナメクジであったため、ドレスなどの諸々の準備が何一つできていない状況はかなり日程的に厳しいものがあったが、最終的には何とか間に合ったらしい。
しかし、折角レティシアが“理想の天使”な姿に戻ったというのに、ヴィルヘルムはこの一週間マトモに彼女と会うことができなかった。
「ああ……私のレティ」
「もうすぐ会えるんですから、黙ってもらえませんか」
愁いを帯びた顔で婚約者の名前を呟くヴィルヘルムに、ノアは辛辣なまでにピシャリと言った。毎日のようにこんな態度をとられているので、そろそろ我慢の限界なのだろう。
夏至祭に合わせて王太子の正装に身を包んでいるヴィルヘルムは生来の整った容姿と相俟って、とても様になっている。……中身を知っている者からすると、ただの変態にしか見えないから不思議だ。
「レティの準備はそろそろ終わったか?」
「……もう、行ったら良いんじゃないですか」
すでに何十回と繰り返された質問に、ノアは投げやりな答えを返した。その顔には“勝手にしろ”と書いてある。
答えを聞くと同時に婚約者の部屋へと走り出したヴィルヘルムの背中を見ながら、ノアは盛大な溜め息を吐いた。
夏至祭での婚約発表のために作ったドレスを身に纏ったヴィルヘルムの婚約者は、夢のように美しかった。
腰から下の部分がたっぷり膨らんだ愛らしいプリンセスラインのドレスはレティシアの可愛らしさを最大限に引き出している。……間違いなく、ヴィルヘルムの好みだろう。
色は淡い桃色で、裾に近付くにつれ濃くなっている。スカートの部分にはペルルの花をあしらった刺繍がいくつも施され、まさに夏至祭の主役に相応しい装いだった。
彼女の頭にはヴィルヘルムが自ら作ったペルルの花冠がある。
「ヴィル様」
ヴィルヘルムが部屋に入って来たことに気付いたレティシアは彼を見て柔らかく微笑んだ。
「レティ……ああっ、なんて可愛らしいんだ!」
「ふふっ、ありがとうございます。ヴィル様もとっても素敵ですわ」
笑い掛けられたヴィルヘルムは、常人ならば眉を顰めそうな笑顔を浮かべて彼女のもとへ近付いて行く。……ノアあたりが見たら容赦なく通報しそうだ。
しかし、レティシアはそんな婚約者の笑顔に動じることなく、彼から差し伸べられた手を取った。
「では、行こうか」
「はい。……何だか緊張しますね」
その言葉とは裏腹に、彼女からはどこか嬉しそうな気配が伝わってくる。これから二人が向かうバルコニーを見つめるその瞳は抑えきれない期待にキラキラと輝いていた。
レティシアをエスコートしながらバルコニーへと出ると、階下から歓声が聞こえてくる。
広場には大勢の民達が集まっていた。
自国の王太子の婚約発表である。集まった誰もが、今日の主役であるヴィルヘルムとレティシアに祝福の言葉を投げ掛けていた。
「すごい人ですね!」
バルコニーから広場に集まっている民の姿を見て、レティシアがはしゃいだような声を上げる。
尤も、はしゃいでいたのは声だけで、実際は見事なまでに王族然とした態度で民達に微笑み掛けていたが。
ヴィルヘルムはそんなレティシアの様子に目を細める。
レティ……まるで花の妖精のようだ。
心を奪われたかのようにウットリとレティシアを見つめ、ヴィルヘルムは階下からの歓呼に手を振って応える彼女の白く滑らかな手を取るとその場に跪いた。
「……愛しいレティシア。世界中の誰よりも幸せにすることをペルルの花に誓う。どうか、私の妻になってくれ」
真摯な求婚の言葉に、レティシアの頬が赤く染まる。
彼女はその小さな両手でヴィルヘルムの手を包むと、はにかみながら答えた。
「はい。……でも、わたくしはもう幸せですわ。だって、ヴィル様に愛して頂けたんのですもの」
「レティ……ああ、私も幸せだ」
立ち上がり、レティシアの柔らかな頬をゆっくりと撫でる。
込み上げる愛おしさのままに彼女へと口付けようとすると……アノ感触が脳裏に甦ってきた。生理的嫌悪感を掻き立てるヌメッとした感触が。
「……………」
悪夢の記憶――人はそれをトラウマと呼ぶ――にヴィルヘルムは思わず固まった。どうやら、誓いの口付けには遠いようだ。
「……ヴィル様?」
突然顔を蒼褪めさせ動かなくなった彼に、レティシアは心配そうに声を掛ける。その姿は“理想の天使”そのものであるはずなのに、なぜか悪寒が止まらなかった。
ヴィルヘルムは遠退きそうになる意識を必死で繋ぎ留め、心の中で悪夢を忘れ去ろうと祈りの言葉を呟く。
「……わたくしのことがお嫌いですか?」
「まさか! そんなことある訳がない!!」
悲しげな声にほとんど反射で返事をしていた。
しかし、ヴィルヘルムの言葉は嘘ではない。元の姿へと戻ったレティシアを嫌うことなどありえないのだから。
ホッとしたように“よかった”と呟き、レティシアはそっと目を伏せる。
「……………」
愛しい婚約者を前に、ヴィルヘルムは口付けを躊躇うように視線を彷徨わせた。頭からおぞましい感触が消えてくれない。
ダラダラと冷や汗を流し葛藤する彼の心情が伝わったのか、レティシアは身長差を埋めるため背伸びをし自ら唇を寄せる。
……ちゅ。
触れるだけの口付けは可愛らしい音と共に終わった。
階下から民達の“わあっ”という歓声が上がる。
「たとえ、ヴィル様が口付けできなくても……わたくしからすれば良いのですわ」
驚きに目を見開くヴィルヘルムに、レティシアはニッコリと微笑み掛けた。
◇◇◇
呪いで醜い化け物へと変えられてしまったお姫様は、愛しい王子様へと自ら口付け、無事に元の姿に戻ることができました。
めでたし、めでたし。
―――――終わり良ければ、全て良し。
こんなヌメヌメした話を読んでくださって、本当にありがとうございました。
なんか、相方からは“ヴィルが幸せ過ぎて腹立つ”と文句を言われましたが、皆さんはどうでしたか?
“完結オメ!!”っていう温かい感想をお待ちしているゾ☆
あっ、そうだ。
実は、とある読者の方から“アッシー・グレイ・スラッグ”というモンスターの存在を教えて頂きまして……。アレはないと思いました ((;゜Д゜)ガクガクブルブル
コレを見たあとだと“バナナスラッグ”が可愛く感じたよ。 ←言い過ぎ。
皆さんは、絶対に検索しないでくださいね。