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恋愛文明工程表

「ベル。私たち、恋人になりましたよね。」


 朝食を済ませ、今日の予定確認を終えたところで、小雪は唐突にそう切り出した。


 向かい側では、ベルが発電機の設計図へ赤い線を書き足している。来月から王都の工房で製作を始める予定の試作機であり、昨夜遅くまで考えていた冷却機構に、ようやく目途が立ったらしい。


 ベルの手がぎしりと止まった。


「お、おう。」


 琥珀色の目が、警戒するように小雪へ向けられる。


「何だ、急に。」


「もう恋人になって三か月です。」


「……そうだな。」


 ベルは静かにペンを置き、姿勢を正して小雪を見詰めた。


「三日前に、交際三か月を祝いました。」


「ああ。お前が三か月を九十日と換算して、正確には暦に合わせてやっぱり九十二日かもしれないと言い始めたから、少し遅れたけどな。」


「誤差の範囲です。」


「記念日に誤差を持ち込むな。」


 ベルは少し焦ったように机上に顔を向け、再び設計図へ目を落とそうとした。


 小雪は、逃がさないように即座に身を乗り出す。


「私たちは、この三か月で何をしたでしょうか。」


「何って。」


 ベルはぎこちなく首を傾げた。


「……モーターの試作品が完成した。」


「はい。」


「今は発電機の製作計画を進めている。」


「そうですね。」


「山の水車も一基増やした。」


「科学文明は、大きく前進しました。」


「そうだな。」


 ベルはそこでようやく安心したように頷いた。


「しかし。」


 小雪は両手を卓上へ置いた。


「我々の恋愛文明は、むしろ後退の一途を辿っています。」


 琥珀色の瞳が揺れ、さっと逸らされる。


「な、何だ、急に。」


「交際を始めた日に、確かにちゅーをしました。」


「ちゅ……。」


 ベルの頬が、分かりやすく赤くなる。


「あ、ああ。」


「それ以降、手すら繋いでいません。」


「王都での仕事もあったし、発電機の準備も忙しかっただろ。」


「言い訳は必要ありません。」


「言い訳じゃねぇ。」


 青年は小さく咳払いして、小雪に向き直ることなく、目線を窓の方へ移した。


「我々は、初めてお付き合いをする中学生ですか。」


「中学生?」


「私の世界で、十二歳から十五歳程度の学生です。」


「何で十二歳と比較されてるんだよ。」


「我々は二人とも二十歳を超えています。」


「知ってる。」


「それなのに、一切恋人らしさがありません。」


 小雪は、じっとベルを見つめた。


「むしろ、以前よりベルが逃げている気さえします。」


「そんなことはない。」


「では、これから我々の恋愛文明は、どのように発展していくのでしょうか。」


 ベルは視線を彷徨わせた。


「そうだな……。」


 その声には、明らかに迷いがあった。


 やがてベルは、何かを思い出したように顔を上げる。


「まずは、文通からか?」


「……。」


「手紙で、お互いの得意なことや、日々考えていることを教え合う。それから庭園を散策して、草木の話をしたり――」


 ぶ。

 ん。

 つ。

 う。


 小雪は、目の前の男を凝視した。


 一つ屋根の下に住んでいる。

 すでに一年以上、一緒に暮らしている。


 食事を共にし、同じ家へ帰り、時には同じ寝台で目を覚ました。


 恋人となった現在、それはもう、ベルが最初に勘違いした同棲と呼んでも差し支えない状態だった。


 それなのに、今さら文を送り合うという。


 文で伝えるくらいなら、口で言えばよい。

 口で言いにくいなら、態度でもよい。


 むしろ身体でもよい。


 いや。

 さすがに冗談だろうか。

 冗談であってほしい。


 しかし、この乙女チワワである。


 考えたくはない。

 考えたくはないが、本気で言っている可能性が非常に高い。


「何だ、その顔。」


「ベル。」


「おう。」


「なぜ、文通なのですか。」


「順番としては、そこからだろ。」


「どの順番ですか。」


「ちょっと待ってろ。」


 ベルは席を立つと、部屋の隅に置かれた古い書棚へ向かった。

 下段の奥を探り、革紐で綴じられた一冊の紙束を取り出す。


 かなり古い。

 表紙の端は擦れ、紙も少しだけ黄ばんでいた。


「何ですか、それは。」


「昔、作った計画書だ。」


「計画書。」


 ベルは、少し恥ずかしそうに眉を寄せながら、紙束を食卓へ置いた。


 表紙には几帳面な字で、


『将来的な婚姻関係の円滑な構築に向けた長期能力向上計画・第七版』


 と書かれていた。


「第七版。」


「改訂を重ねた。」


「何歳の時に作ったのですか。」


「十七。」


「三年間、大切に保管していたのですか。」


「悪いか。」


「いえ。」


 小雪は紙束を開いた。


 最初の頁には、目的、前提条件、制約事項などが並んでいる。


 その次には、将来の伴侶へ好意を持ってもらうために必要と思われる技能が、項目別に細かく記されていた。


 料理、家事、馬術、野営、護衛、応急処置、髪の手入れ、雨天時の代替計画、庭園散策中に遭難した場合の対応ーー。


「庭園散策中に遭難することは、ほとんどないと思います。」


「万が一に備えた。」


「火打ち石と非常食も持参する予定だったのですか。」


「できる男だと思われるだろ。」


「令嬢からは、庭園を信用していない男だと思われる可能性があります。」


「……備えあれば憂いなしだ。」


 さらに頁をめくる。


 交流の進展に関する工程が記載されていた。

 

 一、顔合わせ。

 二、文通。

 三、庭園散策。

 四、馬での遠乗り。

 五、小旅行。

 六、将来計画の打合せーー


「……。」


「何だ。」


「これは旧式です。」


「俺の青春を旧式扱いするな!」


「そもそも、我々は工程を大幅に逸脱しています。」


 小雪は紙面を指でなぞった。


「文通をしていません。」


「同じ家にいたからな。」


「庭園散策もしていません。」


「森や川へは毎日歩いてるがな。」


「馬での遠乗りもしていません。」


「馬車では何度も出かけたけどな。」


「小旅行どころか、世界の裂け目まで行きました。」


「どう考えても規模が大きすぎたな。」


「そもそも現在同棲しています。」


「……。」


「同じ寝台でも眠りました。」


「思い出させるな!」


「そして、交際開始日に口づけまで済ませました。」


「それはそうだけど!」


 ベルは古い計画書を取り上げようとしたが、小雪が先に押さえた。


「……だから、順番を飛ばしたから、何をしていいか分からなくなってるんだろ。」


「だからといって、わざわざ文通へ戻るのですか。」


「一度、基本に戻るべきかと。」


「恋人と同じ食卓に座った状態で、手紙を書いて渡すのですか。」


「そうなるな。」


「そして、その場で読むのですか。」


「……そうなるな。」


「口で言え。」


「お前が聞いたから考えたんだろ!」


 小雪は古い手順書を閉じた。


「ベル。私は重大な欠陥を発見しました。」


「今度は何だ。」


「これは恋愛文明の危機です。もはや滅亡の危機と言っても差し支えありません。」


「世界の滅亡は防いだだろ。」


「ベルが乙女なのは分かっていました。」


「待て。」


「それはもう、十分に、十二分に理解していました。」


「いや、理解するな。」


「しかし、想定以上です。あまりにも酷いです。中学生ですらドン引きです。」


 ベルは一瞬たじろぐように口を閉ざした。目線がまた泳ぐ。


「……何だよ、その言い方。」


「そもそも、裏若い男女が一年以上同じ屋根の下へ住んでいたのに、一切何も起こらなかった時点で、異常を察知すべきでした。」


「何も起こらないのが普通だろ!」


「ベル。」


「何だ。」


「もう、あなたが童貞なのは分かっています。」


「ちょっと待て!」


 ベルが勢いよく声を上げる。しかし耳が赤いため、いつも通り一切の迫力がない。


「お前、そんなことを平然と言っていい人間だったか!?」


「私も一切経験がありません。この双方の状態で、私は一体、いつまで手を出されるのを待たなければならないのでしょうか。」


「ちょっと待て!先走りすぎだ!」


「一体、あなたにとって私はどのように見えているのですか。」


 ベルは口を開きかけ、閉じた。


 顎に手を当て少し考える。


「……一刻も早く、人間らしい生活へ戻すべき存在……?」


 小雪は黙った。


 ベルは、しまったという顔をした。


「そうですか。」


「いや、違う。今のはそういう意味じゃなくてだな。」


「人間として見られていない可能性は、排除していました。」


「排除しなくていい。普通に人間に見えてる。」


「では、なぜ何もしないのですか。」


「いや、その。……お前は、自分の気持ちが分からない時があるだろ。」


 ベルは困ったように髪を掻いた。


「俺から勝手に進めて、後からお前に『本当は嫌だったかも』なんて言われたら、俺が死ぬ。」


「死ぬのですか。」


「精神的にも社会的にも死ぬ。」


「では、嫌ではありません。」


「……。」


「手を出してほしいです。」


「いや、でも、その、色々順番とか……。」


「分かりました。」


 小雪は机の端へ置かれていた白紙を一枚取り、正面へ引き寄せた。


「もう、私が順番を作ります。」


「嫌な予感しかしねぇ。」


 小雪は紙の上部へ大きく書いた。


『恋愛文明工程表・第一版』


「なんだろう、本当に心の底から嫌な予感しかしない……。」


「黙れ童貞。」


 小雪は、順に項目を書き加えていく。


 一、手を繋ぐ。

 二、口づけ。

 三、上腕二頭筋。

 四、広背筋。

 五、腹直筋。

 六、大胸筋。

 七、大臀筋。

 八、接合。


 書き連ねるにつれ、部屋の空気が少しずつ重くなっていった。


 ベルも、小雪の肩越しに紙を覗き込んでいる。


 最後の項目が書き終わったところで、長い沈黙が落ちた。


「……小雪さん。」


「何でしょうか。」


「これは、何ですか。」


「接合までの工程です。」


「接っ……。」


 ベルの喉が、不自然に鳴った。


「というか、何で途中が筋肉で埋まってるんだよ! お前、筋肉へ触りたいだけだろ!」


「そんなことはありません。」


「じゃあ、上腕二頭筋を消せ。」


「嫌です。」


「即答じゃねぇか!」


「必要な工程です。」


「……何に。」


「ベルをその気にして、接合まで進むために。」


 ベルは、工程表をもう一度じっと見詰めた。眉間にぐっと深い皺が寄る。


「……これ、俺側の動きが一切書かれてないんだけど。」


「ベルは、まな板の鯉の予定です。」


「ま、まな板……?」


「問題ありません。私はあなたより四歳も年上です。」


「年齢差をここで持ち出すな。」


「完璧に主導し、あなたをメロメロにする予定です。」


「言い方がとてつもなく古い上に、不安しかない。」


 ベルは紙を指差した。


「そもそも、俺の意思確認さえ入ってない。」


「それは工程外です。」


「一番必要な工程だろ!」


「分かりました。」


 小雪は一番上へ、新たな項目を書き加えた。


 零、ベルの同意を取得する。


「これで完了です。」


「書いて終わり!?まだ取得してないだろ!」


「では同意してください。」


「……そういう圧で取るものじゃない。」


「従わない場合は、やや強引な手を取らざるを得ません。」


「それは同意とは呼ばねぇだろ!」


 小雪は筆を置いた。


「では、本当に嫌なら、嫌と言ってください。すぐに止めます。」


「……。」


「それであれば、問題ありませんか。」


 ベルは明らかに迷っていた。

 視線を逸らし、口元を手で覆う。


 やがて、観念したように息を吐いた。


「……分かった、それならいい。」


 若干目元を赤くしながら目線を下げる。


「でも、お前も嫌になったら止めろよ。」


「了解です。」


「あと、最後までは行かねぇからな。」


「なぜですか。」


「急すぎるだろ!」


「きちんと段階を踏んだ工程表ですが。」


「どの段階だよ!ほぼ筋肉だろ!最後は消せ!」


 小雪は少し考え、接合の横へ、


『実施時期は別途協議』


 と書き足した。


「これでよいですか。」


「不安は何一つ消えてない。」


「では、始めます。ベル、大人しく座ってください。」


 小雪は椅子をベルの方へ向けて促した。

 青年は何度か椅子と小雪の間で目線を彷徨わせた後、諦めたように椅子へ腰掛けた。


「姿勢を正して。」


「……俺は一体今から何をされるんだ。」


「めちゃくちゃ触られます。」


「……なんということだ。今なら死地へ送られる兵士の気持ちが分かる。」


「死にません。大丈夫です。」


「全然大丈夫な気がしない。」


「頑張ってください。」


「何を。」


 ベルは椅子へ座り直した。

 顔色が僅かに青い。


 これから恋人と触れ合う男というより、処刑台へ連れていかれる囚人のようだった。


 小雪はベルの前へ立つ。


 それから青年の右脚の太腿へ、どしりと腰を下ろした。

 ベルの全身がびくりと強張った。


「……なぜ、そこへ座る。」


「高さを調整しました。」


「向かいの椅子じゃ駄目なのか。」


「距離があります。」


「急に近いんだよ!」


「ベル、お手。」


 小雪は片手を差し出した。

 ベルは、恐る恐る自分の手を重ねる。


 大きな手だった。

 指も長く、掌には剣や工具を扱うことでできた硬い部分がある。


 小雪は、その指の間へ自分の指を差し入れた。

 そのままゆっくりと絡める。

 いわゆる恋人繋ぎである。


 ベルの顔が、一気に赤くなった。


 目線は小雪にも繋いだ手にも向かず、斜め下へ逸らされている。

 口元は強く引き結ばれ、背中は不自然なほどしっかりと伸びていた。


「ベル。」


「……何だ。」


「状態はどうですか。」


「……何の。」


「恋人繋ぎによる心身への影響です。」


「……心拍数が、上がってます。」


「よい兆候です。」


「……。」


 小雪は、繋いだ手を少し動かした。

 指の間へ、青年の体温が伝わる。


 温かい。

 小雪の手を包み込むほど大きいのに、動きは妙に慎重だった。


 やはり乙女である。


 三下であり、オカンであり、チワワであり、立派な乙女男子である。


 いつも通り字面は酷いが、事実だった。


「次へ進みます。」


「もうか。」


 小雪は手を解き、両手でぐっとベルの頬を挟んだ。


「待っ――」


 顔を引き寄せ、そのまま唇を重ねた。

 むに、と柔らかな感触が触れる。


 少し乾いていて、それでも温かい。

 小雪は、その感触を確かめるように、何度か軽く唇を啄んだ。


 ベルの身体は、石のように固まっていた。


 身じろぎ一つしない。

 息さえ止めているらしい。

 目も、ぎゅっと強く閉じられている。


 小雪は一度だけ唇を離した。


「息をしてください。」


「……無茶、言うな。」


「呼吸は生命維持に必要です。」


「誰のせいで止まってると思ってる。」


 小雪は、もう一度唇を重ねた。

 今度は少し長く。


 口元へ意識を集中させていると、甘そうに見えたベルの唇が、本当にどのような味なのか気になった。

 小雪は、ぺろりとその表面を舐めた。


「っ!」


 ベルの口が僅かに開く。


 琥珀色の目が、大きく見開かれた。

 蜂蜜を煮詰めたような瞳。


 少し吊り上がった切れ長の目は、形だけを見れば犬よりも猫科に近い。


 性格は犬だが、目だけは大型の肉食獣のようでもある。


 そこまで考えたところで、温かな掌が小雪の口元を塞いだ。


「止まれ。」


 ベルは真っ赤な顔で、小雪を睨んでいた。


「……何で舐めた。」


「美味しそうだったので。」


「お前……何か、嫌な言い方だな。」


「嫌ではなく、いやらしいのではありませんか。」


「今日のお前、いつもと人が違わないか?」


「たぎっていますから。」


「そうですか……。」


 ベルはどこか遠い目をした。


「では、次に上腕二頭筋です。」


「……本当に続けるのか。」


「工程ですので。」


「途中から完全に趣味だろ。」


 小雪は白いシャツの上から、ベルの腕へ手を置いた。


 指先で撫でる。


 硬い。

 鍛えられた筋肉が、布越しにも分かる。


 ベルの腕が、ぴくりと動いた。


「腕を曲げてみてください。」


「……何で。」


「上腕二頭筋の発達具合を確認します。」


「……確認してどうする。」


「もちろん触ります。」


「もう触ってるだろ!」


「力を入れた状態も必要です。」


 ベルは諦めたように腕を曲げた。

 ぐっと力が入り、上腕が膨らむ。


「おお。」


 小雪は目を輝かせた。


「素晴らしい隆起です。」


「恋人に向ける感想じゃねぇ。」


 小雪は、指先で隆起した部分を何度も押した。

 むにむに。

 実際には、むに、というより、ほとんど沈まない。


「ベル。」


「何だ。」


「鍛えすぎではありませんか。」


「お前がしょっちゅう無茶をするから、抱えて運べるようにしてる。」


「実用筋肉です。」


「今褒めるな。」


 ベルの声が、少し低くなっていた。


「満足しました。」


「……そうか。」


「次は広背筋です。」


「早く終わってくれ……。」


 小雪はベルの首へ腕を回し、抱きつくように身体を寄せた。


 ベルの全身が、大袈裟なほどびくりと震える。

 肩がすくみ、息が詰まった音が聞こえた。


 構わず、背中へ両手を回す。


 広い。

 そして、硬い。


 肩甲骨の辺りから腰に向かって、ゆっくりと掌を滑らせていく。


「……小雪。」


「何でしょうか。」


「本当に、そろそろやめないか。」


「嫌ですか。」


「い、嫌というか……。」


「では続けます。」


「最後まで聞け!」


 ベルは片手で目元を覆っていた。

 耳も頬も真っ赤である。


 小雪が身体を密着させたまま、背中から脇腹へ手を滑らせる。


「ひいっ!」


 高い声が漏れた。思わず目の前の青年を見詰める。


「見るな。」


「今、とても可愛らしい声が出ました。」


「忘れろ。」


「長期記憶に保存しました。」


「消せ!」


 小雪はもう一度、脇腹を軽く撫でた。

 ベルの肩が跳ねる。


「弱点を発見しました。」


「ちがう。」


「今後、反抗した場合に使用できますね。」


「恋人の弱点を脅迫材料にするな!」


 小雪は脇腹から手を回し、腹部へ移動させた。

 引き締まった腹を、シャツの上からゆっくり撫でる。


 ベルは奥歯を噛み締め、声を出さないよう耐えているらしい。


「……お前、遊んでるだろ。」


「気持ちいいですか?」


「……こそばゆいだけだ。」


「目が潤んでいますが。」


「誰のせいだよ!」


 琥珀色の瞳が、薄く水分を帯びていた。


 熱を持った頬。

 乱れ始めた呼吸。

 普段より少し低い声。


 小雪の胸の奥でも、何かが落ち着かなくなってきた。


 これは、俗に言うよい雰囲気というものではないだろうか。


 素晴らしい。おそらく、恋愛文明は正しい方向へ発展している。

 うむ。このまま押していこう。


 小雪は腹部へ置いていた手を、そっと胸元へ滑らせた。


 硬く、熱い胸。

 掌の下から、速い心音が伝わってくる。


「ベルの心臓が壊れそうです。」


「分かるなら、俺のためだと思って終わりにしてくれ。」


「それは嫌です。」


「即答するな。」


 小雪は両手で、大胸筋の感触を確かめた。


 時折、筋肉が小さく動くのが面白い。


「ベルの筋肉は、本当に素晴らしいです。」


「よし、もう満足したな。」


「いいえ。」


「もう胸まで触っただろ。」


「大臀筋が残っています。」


 ベルの顔から、表情が消えた。


「……本気か。」


「工程ですので。」


「もう勘弁してくれ。」


 弱々しい訴えを聞き流し、小雪は再び身体を寄せた。


 ベルの腰へ腕を回す。

 そして、尻の辺りへ手を置いた。


 硬い。


「……。」


 小雪は少し首を傾げた。


 尻とは、もう少し柔らかいものではないのだろうか。

 力が入っているせいかもしれない。


 確かめるため、むぎゅ、と掴んだ。

 青年の身体が震えた。


 もう一度。

 むぎゅ。


「小雪。」


 声が、先ほどまでとは明らかに違った。

 低い。


 ベルは椅子の端を強く掴んでいる。

 指の関節が白くなっていた。


「何でしょうか。」


「俺はもう、十分褒められるくらい我慢したと思うんだが。」


「はい。とても立派でした。」


「もう、まな板の鯉はやめていいか。」


「それで恋愛文明が進展するのであれば。」


 小雪は頷いた。


「では、もう遠慮しない。」


 ベルの片手が、小雪の腰へ回った。


「え。」


 一瞬で身体を持ち上げられる。


 体勢を整える暇もなく、椅子へ座ったベルの膝を跨ぐ形になった。


 もう片方の手が顎へ添えられ、顔を上向かされる。


 先ほどまで真っ赤になって耐えていた乙女チワワは、どこにもいなかった。


 琥珀色の目が、至近距離から小雪を見つめている。


「待っ――」


 唇を塞がれた。


 それは、小雪が工程表へ記載した「口づけ」とは、まるで異なるものだった。


 噛みつくように深く唇を重ねられ、腰を強く引き寄せられる。


 呼吸を探す間もなく、口内へ熱が入り込んだ。


 舌を絡め取られ、吸われる。

 背筋を、ぞくぞくと甘い痺れが駆け上がった。


 何だ、これは。


 工程表にない。

 想定していない。


 自分が主導する予定だった。

 ベルは、まな板の鯉だったはずである。


 小雪は必死に目を開けた。

 伏せられていたベルの瞼が上がる。


 肉食獣が獲物を逃がさないような、鋭い目がこちらへ向けられていた。


 やはり犬ではない。

 目だけは完全に猫科である。


 いや、今は分類している場合ではない。


 息の合間に、僅かに唇が離れた。

 銀色の糸が、二人の間を細く繋ぐ。


 頭が真っ白だった。


「捕縛。」


 ほとんど反射だった。


「なっ!」


 透明な光の線が現れ、ベルの腕と胴体を椅子へ固定した。


 ベルの動きが、完全に止まる。


「……。」


「……。」


 荒い呼吸だけが、部屋へ響いた。


 小雪はベルの膝を跨いだまま、どうにか姿勢を整えた。


 髪が少し乱れている。

 唇も熱い。


 心臓が、先ほど触れたベルのものと同じくらい速く動いていた。


「……小雪。」


「何でしょうか。」


「これはずるくないか。」


「安全上必要と思われました。」


「進めたいって言ったのはお前だろ。」


 そう言った青年の唇がまだ艶めいて見えて小雪は思わず口を噤んだ。


「……ベル犬。おすわり。」


「おすわりも何も、指一本動かせないんだが。」


「暴走を確認しました。」


「暴走させたのはお前だろ!」


「想定を超える出力でした。」


「発電機みたいに言うな!」


 ベルは椅子へ拘束されたまま、小雪を睨んだ。


 耳も頬も赤い。

 唇も濡れ、目も潤んでいる。


 それでも、先ほどの鋭さはすでに薄れ、いつもの怒ったチワワへ戻りつつあった。


 小雪は、ようやく落ち着いてきた自身の心音を確認して、青年の口元へ軽く口づけた。


「よし。」


「……何が、よし、だ。」


「今日は、かなり進展しましたね。」


「……お前の中では、これが成功なのか。」


「はい。」


「俺は途中から災害扱いされたんだぞ。」


「安全性の追加検証が必要です。」


「お前から触ったんだろ!」


 小雪は捕縛を解除した。


 ベルは椅子の背へ身体を預け、大きく息を吐く。


「何だろうな。……俺、もしかして、お前に躾けられてるのか?」


「パブロフの犬ですか。」


「何だ、そりゃ。」


「特定の刺激に対して、条件反射を示す犬です。」


「じゃあ俺は今、何に反応するように調教されてるんだ?」


「筋肉を触られることですかね。」


「さ、い、あ、く、だ。」


「しかし思わぬ反撃が確認されました。これは工程表の改訂が必要です。」


「……ちょっと待て。俺は敵認定されてるのか?」


 小雪は机へ戻り、新しい紙を取り出した。


『恋愛文明工程表・第二版』


 一、ベルの同意を取得する。

 二、捕縛する。

 三、筋肉を確認する。

 四、筋肉を愛でる。

 五、接合。


 ベルが横から覗き込む。


「……おい。」


「何でしょうか。」


「これは絶対におかしい。」


「大丈夫です。任せてください。」


「いや、本当にやめてください。」


 小雪は返さずにそっとベルの手を取った。

 先ほどと同じように指を絡める。


「私は最強の勇者です。三下の調教など朝飯前です。」


 たぶん。


 青年の顔からは赤身が完全に消え、むしろ若干青ざめている。


「いやいやいや!勘弁してくれ!」


 ベルは目を剥いて慌てて小雪から距離を取った。


 小雪は工程表を手に取ると、静かに顎に手を当て首を傾げる。


「仕方ありません、二人で工程表を作り直しますか。」


「当たり前だ!最初からそうしろ!」


 山の家に今日一番の大声が響いた。


 二人の初めての夜が訪れたのは、結局それからさらに数か月後のことである。

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