ゼンメル
「おはようございます。どうしたんですか、こんなに早くに」
小麦粉で白くなった前掛けを巻いたゼンが、店の奥から出て来た。
「おはよう、ゼン。昨日の話だと、ランス伯はこの店のパンを食べているんだよな」
「ええ、もちろんです。当店をご贔屓にしてくださっていますよ」
ゼンは誇らしげに少し胸を逸らした。
「納品に行くのか?」
「いいえ、遣いの方が引き取りに来るんです」そう言うと「そろそろ来る頃ですね」と、大きなガラス窓の外を見た。
釣られて外に目を向けると、キッシャーが荷車を停めるところだった。
マルシェで仕入れたのだろう、多くの食材が荷台の上に載せられていた。
「おはようございます。伯爵様のパンを受け取りに来ました」
キッシャーの声は、先日よりずっとやつれて聞こえた。
「おはよう、キッシャー。こんな仕事までしているなんて大変だな」
私がそう声を掛けると「妻の仕事だったのですが、戻るまでは私が代わりに」とキッシャーは答えた。
戻るまでは——
私はそんなキッシャーに掛ける言葉を持ち合わせていなかった。
ゼンもそうだったのだろう。
「ささ、たった今焼き上がったパンですよ」一度厨房に戻ると、両手に抱えるようにトレーを持って現れた。その声は努めて明るく「お二人とも、ぜひ試食してくださいな」とニスを塗ったように艶やかで、小さなパンを差し出した。
「ゼンメルに似てるな」
千切ってみると、湯気と共にバターの香りが鼻腔を満たした。
「ランス伯はこんなに美味いパンを、毎日食べているのか!」
ひと口含むとバターだけではなく、ミルクとタマゴの風味が舌に沁みるように広がっていった。
私が普段口にしている、スープに浸さなければ歯が折れそうな石パンとは随分な差だった。
キッシャーも「美味しいです」と頬を緩ませた。
(ああ、この男もこんな表情が出来るのか)その瞬間だけ、年相応の瑞々《みずみず》しさを感じた。
「マルシェにはエバは店を出していたか?」
「ええ。でも今は仕入れが難しいのか良い物が無いので、伯爵様用の品は買えませんでした。私用のリンゴをひとつだけ」
「そうか、キッシャーは優しいな」
確かにあれだけ金が無ければ、ロクな仕入れも出来ないだろう。
「いいえ、彼女の幸運にあやかりたかっただけです」
そう言ってポケットの丸い膨らみに手を遣った。
「あとは戻るだけか?」
「はい、戻って厨房に運びます」
「よし、私が荷車を押そう。引き止めたお詫びだ」
「そんな、ダメですよ。申し訳ない」
「気にするな。それにまた歩きながら話を聞かせてくれ」
私はそう言うと「ゼン、パンをありがとう」と手を挙げて店を出た。




