尾行
石畳の馬車道を歩く少年を見つけたのは、彼の実母だった。
朝靄に煙る道の中央をゆらゆらと歩く姿は、まるで幽霊か魂の宿った人形のようだった。
「カイン!」絶叫にも似た母親の声に反応するでもなく、少年は朝靄を漂っていた。
当時の様子はマルシェの準備を進める人々の多くが目撃して、一様にそう語った。
「エバは相当まいっているからね。息子同様、話なんて出来やしないさ」
「あれなら見つからない方が、まだ希望を持てたかもしれないよ」
「言葉も名前も忘れちまってるんだ。赤ん坊のように泣きわめくか、獣のように唸るだけ。ありゃぁ間違いなく悪魔の仕業だよ」
井戸に集まる女たちに声を掛けると、そんな話がいくつも聞けた。
そうしてカインの話が一時の盛り上がりをみせると、話題は見つかった香油の瓶に移り、やがてランス伯への愚痴へと変わっていった。
そうして水と新たなお喋りのネタを手に入れた彼女達は、三々五々と自宅へ戻って行った。
「それでも会わない訳にはいかないな」そう自分に言い聞かせると、私はその憐れな母子の元へ向かった。
路は石畳から土へと変わり、建物も焼いたレンガから日乾レンガへと変わっていった。
吹く風にもツンとした臭いが混じり始めてきて、無意識に腰の剣に指先を這わせた。
こういった地区は、大抵が治安が良くない。もう既に二人、私の後を付けている気配がした。
「よし!」
私は深く息を吸ってそう言うと、地面を蹴って駆け出した。
そして数歩行った所で振り向くと、飛び出して来た男目掛けて一気に距離を詰めた。喉元を目掛けて、鋭く突き出したショートソードが空を切った。
——躱された!
初歩的な尾行も出来ない男が、こんなにも手練れだったとは見誤った。
そう思った刹那、私は足元を掬われてしまった。転倒こそ免れたが、大きく体勢を崩されてしまった。留まった左脚を軸に、ショートソードを思い切り振り抜いて真後ろに向き直った。
私の視線の先には、もんどりうって倒れている男が居た。
突きに腰を抜かして倒れた男の溝落ちを、私が踏んだらしい。
「どうして尾けた?」
「女が......スラ......ムに入って、行くの、見えたから......だ」
男は仰向けのまま、喘ぐように答えた。
「お前は女がスラムに入る度に尾けるのか?」
私がそう言うと、男の手が胸元に伸びた。私は切っ先を向けると「動くな!」と短く怒鳴りつけた。
「自警団、だ。襟......章、見せる」
「分かった。ゆっくり動かせ」
私の命令に、男は上着を引いて自警団の襟章を見せた。そこには、交差する剣に羊の意匠が描かれていた。
——どこかで?
見た記憶は無かったが、頭の後ろの方に疑問が居座った。
「そうか。アンタがマスターの雇った——」ようやく息が整った男がそこまで言うと、私も全てが腑に落ちた。
「剣と羊亭か」私は酒場の名前を口にした。
個人的な依頼にしては気前が良いはずだった。
「ところで、もう一人の尾行はどうした?」一向に姿を見せないもう一人について尋ねると「知らない。たまたま見掛けて一人で尾けたんだ」と首を振った。
この男に嘘をつく理由は無いだろう。
「ハルドゥの影」
私の呟きに男は身を縮ませて「怖いこと言わないでくれ」と震えた。
私は男を解放したが、男はエバの家への案内を買って出てくれた。
「ゼンだ。普段はパン屋をやってる」
そう言うと、彼は私の前を歩き始めた。




