香油
キッシャーの元を訪ねたのは翌朝だった。キッシャーはランス伯の荘園の農夫をしていた。伯の馬に飼葉を与え、馬小屋の清掃を終えると、その糞や藁を荷車に乗せて畑に向かう。私はその道中で声を掛けることにした。
『ランス伯は厳しい方だから、作業の手を止めさせないように』
マスターから、そう忠告を受けていた。
「畑に着くまでに終えましょう」
そう言うとキッシャーは、やつれた表情に僅かに安堵を浮かべて「はい」と頷いた。
「ベスとは農閑期の冬に結婚をしました。丘の上の教会で、ささやかな式を挙げました」
キッシャーはポツポツと言葉を置くように、短い結婚生活の話を聞かせてくれた。
「ハルドゥの悪魔の最初の行方不明者と聞いたけど」
「はい。礼拝を欠かさない妻が何故こんな目に遭うのか......」
キッシャーは最後に「神様」と小さく呟くと、胸元に手を当てた。
「メダイは身に着けていないのか?」
何も無い胸元に当てた手に、違和感を覚えた。
「私たちには高価なものですから」
「ああ、済まなかった」
私は自身の軽率さに詫びるしか出来なかった。
「ですが、ベスの分は用意しました。信心深いベスのメダイだけは」
キッシャーはそう言うと、爪が食い込む程に拳を握って声を震わせた。
「ベスの普段の行動と、当日の行動は分かるか?」
「普段は私と農作業をしています。私が馬小屋で作業をしている間に鶏舎の清掃と朝食の準備をして、この荷車を押して畑に向かうんです。ああ、鶏舎では卵拾いもしています。朝夕の分、一人二個までは取っていいので、我が家へ持ち帰ります」
車輪の軋む音に、時折声をかき消されながら、キッシャーは繰り返しの日常を静かに語った。
「それが普段の行動か」
「はい。あとは帰りに街でパンや干し肉を買って帰ります」
「行方不明になった日はどうだ?」
私がそれを尋ねると、キッシャーは唇を噛んで嗚咽を堪えながら話し始めた。
「あの日は日曜礼拝に教会へ行きました。私は馬小屋の作業を終えると一人で畑へ行きました」
視線が小高い場所に見える、尖塔を備えた白い建物に向いた。
「ベスはどこで消えたか分かるか?」
「アデルの森に、妻が教会で買った香油が落ちていました」
「それはベスが買った香油なのか?」
私はそれを信じる根拠を、キッシャーに求めた。
「あの日、ベスは礼拝の帰りに香油を買うと言っていました」
「香油なんて、誰のものかなど分からないんじゃないのか?」
私がそう言うと「あの日、香油を買ったのはベスだけなのです」とキッシャーは答えた。
横たわるように広がるアデルの森のざわめきが、風に乗って運ばれてきた。




