子爵家
「カイン、大丈夫。怖くないわ」
ブレアはそよ風のような優しい声で、怯えるカインをなだめた。
威嚇するように唸り、こちらを覗うカインの目は、前と同じだった。
「あなたの言う通り、大麻だと思うわ。でもそれだけじゃない。あれは短期記憶に作用するのだけれど、名前や言葉自体を忘れてしまうものではないわ」
「じゃぁ、何だ?」
「自己防衛ね。精神を保つための」
「どういう意味だ?」
私はブレアの言っていることが分からなかった。
「無かったことにするの、全部。生きていけないほどに辛い記憶は、消してしまうのよ。普通は部分的に欠落するのだけれど、大麻の影響かもしれないわね」
「治せるのか?」
「治療は出来るけど、治るかどうかの保証は無いわ」
「カインの父親は戦争で死んだんだ。父親の思い出を失ってしまうなんて不憫じゃないか」
そう訴えた私に「それでも、封印した記憶が蘇るよりマシかもしれないわ」と、言ったブレアの横顔はゾッとするほど冷たく見えた。
「カイン、少し眠りましょう」
ブレアがカインの頭に手をかざすと、瞼が綴じるより先に充血した白目が見えた。そして糸が切れたように崩れると、その頭をブレアは素早く支えた。
私たちの後ろで心配そうに覗くエバに「しばらく預かるが、心配しなくていい」と告げると、夜を待ってカインを運んだ。
ワイン樽にカインを入れて背負子で背負った。この年頃にしては随分軽く思えた。
そのまま馬車道まで出ると、待たせていたロバ車に詰んで、御者台のブレアに声を掛けた。
「大丈夫だ、見られてない」
「分かった、出すわよ」
ブレアはそう言うと、ロバに軽く鞭を打った。
小さなロバは私たちを乗せて、ゆっくりと歩き始めた。
揺れる荷台から御者台ににじり寄って「やっぱりロバだと遅いな」とブレアに話し掛けた。
「馬は管理されているから、使ったことが筒抜けになるのよ。カインの治療をしていることは公にならない方がいいでしょ」
「軍備に直結するからな、馬は」
戦争にも叛乱にも馬は不可欠だ。戦下手と評される当代ではなく、先代ランス伯辺りが始めたのだろう。
「農家に交渉して牛を借りれば噂にもなるだろうし」
「ロバが適任って訳か」
そう思えば左右に揺れる尻尾も可愛く見えてきた。
ロバ車は中央公園からランス伯の城へ続く馬車道に入った。この通りは貴族や騎士、富裕層の商人が居を構える道だ。基本的に、奥へ行くほど地位が高くなる。
「お前、こっち側の——いや、あっち側の人間だったのか」
「父は先代に仕えた子爵だったけど、当代になって返上したの。だから今の身分は平民よ」
少しずつ、魔術師ギルドでの連中の反応の意味が分かって来た気がした。
「あの角を曲がればもう少しよ」
ブレアがそう言った矢先だった。
ガチャガチャと金属がぶつかり合う音が聞こえ「止まれ」と声が掛かった。
ロバ車の前に、ランス伯の私兵が三人現れると一人が荷台へと回った。
全員プレートメイルを着込んだ正式な騎士だ。胸にはランス家の紋章の双頭の蛇が刻まれていた。
「こんな時間に、この道を通る理由は何だ?」
「自宅に帰りますの」
ブレアは被っていたローブのフードを下ろして荷台を振り向いた。
「バーリントン子爵の!」
「もう子爵家ではないわ。通ってもいいかしら?」
ブレアはそう言って訂正して微笑むと、手網を握った。
「待ってください。これはワイン樽ですね。何故このような時間に?」
「それは......」
ブレアは言い淀んでから口許に手をやると顔を赤らめた。
「貴族の特権を失って、初めてランス伯に庇護されていたと思い知らされています。ワイン樽を運ぶ人夫を雇うお金が相場よりも低くて、こんな時間まで見つからなかったのです。おまけに、この人夫はロバ車を扱うことも出来ずに、私がこうして御者の真似事まで——」
「もう、大丈夫です。分かりましたから通ってください。昨今はハルドゥの悪魔などが囁かれています。どうかお気を付け下さい」
騎士たちはそう言うと、道を開けて私たちを見送った。
通りを曲がり邸宅に続く道に入ってようやく人心地ついた
「おい、人夫ってなんだよ」
「上手く切り抜けられたじゃない」
そう言われた私は、返す言葉もなくて口ごもるばかりだった。




