第6話 外枠が欲しい
八着。
数字だけ見れば、惨敗だった。
勝ち馬からは大きく離された。掲示板にも載らない。馬券にも絡まない。
新聞の短評には、たぶんこう書かれる。
後方まま。
追走苦労。
見どころなし。
それで終わりだ。
けれど、俺の中では終わっていなかった。
「もう一度、見ますか?」
黒川先生が厩舎の事務所で映像を再生した。
小さなモニターに、ハルサメノツキのデビュー戦が映る。
ゲートが開く。出遅れではない。ただ、一完歩目が遅い。
すぐに前へ入られ、砂を被る。
首が上がる。リズムが崩れる。
追走だけで精一杯になり、三コーナーではもう勝負圏外。
普通なら、ここで見るのをやめる。
でも、俺が見たいのはそこじゃない。
「ここです」
俺は画面を指差した。
四コーナー。
浅倉騎手がハルサメノツキを外へ出す。
前の馬たちがばらけ、砂を被らない位置に出た瞬間、ハルサメノツキの首が下がった。
走りが変わる。
派手じゃない。
速くもない。
ただ、フォームが整う。
前だけでバタバタしていた馬が、後ろ脚で地面を押し始める。
「やっぱり、砂です」
俺は言った。
「砂を被っている間は、完全に嫌がってます。でも外に出したら、脚を使えてる。距離が短すぎて間に合ってないだけです」
黒川先生は腕を組んだまま、画面を見ていた。
「距離延長には賛成です」
「本当ですか?」
「ええ。一二〇〇は忙しすぎました。次は一六〇〇か一八〇〇を考えてもいい」
胸の奥が少しだけ軽くなる。
だが、黒川先生はすぐに続けた。
「ただし、問題があります」
「問題?」
「枠です」
分かっていた。
ハルサメノツキに必要なのは、距離だけじゃない。
外枠。
砂を被らない位置。
前半で無理に出していかず、自分のリズムで走れる形。
逆に言えば、それが崩れると簡単に負ける。
「内枠を引いたら?」
黒川先生が聞いた。
俺は少し黙った。
頭の奥に、嫌な映像が浮かぶ。
内で包まれる。
前から砂を浴びる。
首を上げる。
追走で脚を使い、直線では伸びない。
また、後方まま。
「勝負にならないと思います」
「でしょうね」
「でも、枠は選べません」
「ええ。だから競馬は難しいんです」
黒川先生の声は冷静だった。
そうだ。
スキルで適性が見えても、全部を選べるわけじゃない。
馬場も、枠も、相手も、展開も。
全部が都合よく揃うことなんてない。
俺が見えるのは、勝てる場所の輪郭だけだ。
そこへ連れていくには、現実の競馬を通らなきゃいけない。
「次の開催で、一六〇〇があります」
黒川先生が番組表を机に置いた。
大井ダート一六〇〇メートル。
右回り。
ハルサメノツキにとって、一二〇〇よりは明らかにいい。
「出しましょう」
俺は即答した。
黒川先生が目を細める。
「早いですね」
「距離は合います」
「枠は分かりません」
「それでも、一二〇〇をもう一度使うよりいいです」
「相手は前回より強くなるかもしれません」
「それでもです」
黒川先生は少しだけ黙った。
俺が焦っていると思われたのかもしれない。
実際、焦りがないと言えば嘘になる。
デビュー戦は八着。
周囲は笑っている。
掲示板でも、ハルサメノツキはもう弱い馬扱いされている。
だけど、それ以上に俺は見たいのだ。
この馬が、少しでも正しい条件に近づいた時、どれだけ走れるのか。
「三上さん」
「はい」
「勝ちたいですか?」
真正面から聞かれた。
俺は答えに詰まる。
勝ちたい。
当たり前だ。
馬主になって初めて買った馬だ。
笑われた馬だ。
誰にも期待されていない馬だ。
勝たせたいに決まっている。
でも、その言葉をそのまま出すのは違う気がした。
「勝たせたいです」
俺は言った。
「でも、無理に勝たせたいわけじゃありません」
「どう違います?」
「この馬が走れる形で、勝たせたいんです」
黒川先生は黙っていた。
「前走で分かりました。ハルサメノツキは、追走で急がせたらダメです。砂を被らせてもダメです。だから次は、少しでもこの馬が走れる形に近づけたい」
「その結果、また負けても?」
「負け方が前より良くなるなら、意味があります」
黒川先生は、机の上の番組表に視線を落とした。
「……馬主らしくないですね」
「悪い意味ですか?」
「半分は」
「残り半分は?」
「今は、悪くない意味です」
それはたぶん、かなり珍しい褒め言葉だった。
数日後。
ハルサメノツキの次走が決まった。
大井ダート一六〇〇メートル。
前走から四〇〇メートルの距離延長。
出走予定が出ると、掲示板はすぐに反応した。
『七番の八着馬、もう距離延長かよ』
『迷走してて草』
『一二〇〇で追走できない馬が一六〇〇で変わるか?』
『むしろもっと負けそう』
『馬主が変な理論こじらせてる説』
画面を見ながら、俺は苦笑した。
好きに言えばいい。
まだ誰も、最後の二〇〇メートルを見ていない。
いや、見ても気づいていない。
それでいい。
人気がない方が、ハルサメノツキらしい。
レース三日前。
追い切りを見るために、俺は早朝の厩舎へ向かった。
ハルサメノツキは、前走後より少しだけ落ち着いていた。
馬体が急に良くなったわけではない。
トモもまだ甘い。
けれど、走る時の首の位置が少し低くなっている。
浅倉騎手が調教に乗ってくれた。
単走。
無理に時計は出さない。
外をゆったり回って、終いだけ少し伸ばす。
ハルサメノツキは、最後の一ハロンでじわっと脚を使った。
速い時計ではない。
でも、止まらない。
「悪くないですね」
戻ってきた浅倉騎手が言った。
「前より、走る気をなくしてないです。砂を被らない形なら、ちゃんとハミを取ります」
黒川先生も頷いた。
「状態は上向きです。ただ、勝ち切るには条件が欲しい」
「外枠ですね」
俺が言うと、黒川先生は小さく笑った。
「祈りますか?」
「祈ります」
「馬主らしくなってきましたね」
その言葉に、俺も笑った。
そして、枠順発表の日。
俺は仕事の昼休みにスマホを開いた。
指が少し震えている。
出走表。
ハルサメノツキの名前を探す。
七枠九番。
外めの枠。
完璧ではない。
大外でもない。
けれど、内で包まれるよりずっといい。
胸の奥で、何かが鳴った。
「来た」
思わず声が出た。
隣の席の同僚が怪訝そうにこちらを見る。
「三上さん、どうしました?」
「いや、ちょっと……枠が」
「枠?」
「何でもないです」
俺はスマホを伏せた。
まず一つ、条件が揃った。
距離延長。
右回り。
外めの枠。
あとは、馬場。
天気予報を開く。
レース当日の午後。
降水確率、六十パーセント。
雨。
喉が鳴った。
もし降れば、ダートは少し湿る。
脚抜きが良くなる。
砂も乾いた時よりは嫌がりにくい。
条件が、近づいている。
その夜、黒川先生から電話が来た。
『枠、見ましたか?』
「見ました」
『七枠九番。悪くありません』
「雨も降りそうです」
『ええ。あなたが欲しがっていた条件に、少し近い』
電話の向こうで、黒川先生の声が少しだけ低くなった。
『ただし、勘違いしないでください』
「はい」
『条件が揃ったから勝てる、ではありません。ようやく、この仔が普通に走れるかもしれない。それだけです』
「分かっています」
本当に、分かっている。
それでも胸は高鳴っていた。
前走八着の馬。
二十万円の安馬。
誰にも期待されていない牝馬。
その馬が初めて、少しだけ自分の形で走れるかもしれない。
それだけで、十分だった。
『三上さん』
「はい」
『浅倉騎手には、前半は無理に出さないよう伝えます。外めでリズムを取って、三コーナーから動く。あなたの言っていた形です』
俺は息を呑んだ。
「ありがとうございます」
『礼はレース後にしてください』
黒川先生はそう言って、少し間を置いた。
『それと、三上さん』
「はい」
『次は、笑っている人たちにも分かる負け方か、勝ち方をしましょう』
電話が切れた。
俺はしばらくスマホを握ったまま動けなかった。
笑っている人たちにも分かる負け方か、勝ち方。
いい。
それでいい。
ハルサメノツキはまだ強い馬じゃない。
でも、弱いだけの馬でもない。
その証明をする日が来る。
レース前夜。
窓の外で、雨が降り始めた。
ぽつり、ぽつりと、アスファルトを濡らす音。
俺はカーテンを開け、暗い空を見上げた。
「来たな」
雨の大井。
濡れたダート。
外から伸びる鹿毛の馬体。
あの日見えた光景に、初めて現実が近づいていく。
俺は小さく息を吐いた。
「ハル。明日は、お前の走りたい場所に少しだけ近いぞ」
スマホの画面には、出走表が光っている。
ハルサメノツキ。
七枠九番。
単勝オッズ、三十八・六倍。
誰もまだ、気づいていない。
だからこそ、明日が楽しみだった。
読んでいただきありがとうございます。
第6話では、ハルサメノツキの次走条件が決まりました。
距離延長。
外めの枠。
そして雨。
少しずつ、三上透が見た“勝てる場所”に近づいていきます。
次話はいよいよ二戦目。




