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安馬しか買えない弱小馬主の俺、スキル《相馬眼》で“勝てる場所”を見抜く  作者: ペンは休み休みもて(ペンもて)
第一章 安馬を買った日

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第7話 単勝三十八・六倍

 レース当日の大井は、朝から雨だった。


 強い雨ではない。

 けれど、止む気配もない。


 細い雨粒が、競馬場の照明と灰色の空の間を斜めに落ちてくる。

 ダートはしっとりと湿り、昨日まで白っぽかった砂が、黒く締まって見えた。


 俺はスタンドから馬場を見下ろし、息を吐いた。


「稍重か……」


 馬場発表は、ダート稍重。


 重までいけばさらに理想に近かったかもしれない。

 でも、乾いた良馬場よりはずっといい。


 湿った砂。

 外めの枠。

 距離延長。


 少しずつ、ハルサメノツキの条件に近づいている。


 スマホを開く。


 大井第六レース。

 ダート一六〇〇メートル。

 三歳未勝利。


 七枠九番、ハルサメノツキ。


 単勝オッズは――。


「三十八・六倍」


 思わず声に出た。


 一番人気は二番、ミスティックフレア。

 単勝二・一倍。


 二番人気は五番、グランバレット。

 単勝四・四倍。


 三番人気は一番、サザンブレイド。

 単勝六・二倍。


 ハルサメノツキは九番人気。

 出走十二頭中、下から数えた方が早い。


 まあ、当然だ。


 前走は一二〇〇メートルで八着。

 しかも最後に少し伸びたとはいえ、着差だけ見れば完敗。


 新聞の印も薄い。


 △が一つ。

 あとは無印。


 短評には、こう書かれていた。


『距離延長で変わり身あれば』


 控えめすぎる期待。

 つまり、ほとんど期待されていない。


「三上さん」


 声をかけられて振り向くと、黒川先生が立っていた。

 雨に濡れないよう、帽子を深くかぶっている。


「馬場、見ましたか?」


「はい。稍重ですね」


「悪くありません」


「ですよね」


「ただし、前が止まらない可能性もあります」


 黒川先生はいつも通り冷静だった。


「脚抜きが良くなれば、前に行く馬も楽になります。外からじわじわ伸びるにしても、前との差が開きすぎると届きません」


「浅倉騎手には?」


「伝えてあります。出していかない。ただし、置かれすぎない。砂を被らない位置を取りながら、三コーナーから徐々に動く」


 簡単に言う。


 でも、それはとても難しい。


 前に行きすぎれば、ハルサメノツキは追走で脚を使う。

 下げすぎれば、届かない。

 内に入れば砂を被る。

 外を回しすぎれば距離ロスになる。


 勝てる場所を見つけるだけじゃ足りない。


 そこへ連れていく騎手の腕が必要だ。


「浅倉騎手、大丈夫でしょうか」


「不安ですか?」


「正直に言うと、少し」


「なら、いいです」


「いいんですか?」


「不安がない馬主の方が怖いです」


 黒川先生は淡々と言った。


「浅倉くんは派手な騎手ではありません。でも、前走でこの仔の嫌がるところを分かっています。無理に勝ちに行って壊すタイプでもない。今日のハルには合っています」


 今日のハルには合っている。


 その言葉に、俺は小さく頷いた。


 騎手も適性だ。

 馬と同じように。


 スマホが震えた。


 何気なく見ると、地方競馬の掲示板スレが更新されている。


 俺は少し迷ってから、開いた。


【大井6R 三歳未勝利 雨で荒れるか?】


『2 ミスティックフレアで固いだろ』

『5 グランバレットの先行力買いたい』

『1 サザンブレイド内枠どうなん?』

『9 ハルサメノツキって前走八着のやつか』

『距離延長してて草』

『一二〇〇で追走できなかった馬が一六〇〇で買えるわけない』

『でも前走最後だけちょっと伸びてたぞ』

『それ毎回いる養分のコメント』

『単勝38倍なら遊びで買うか迷う』

『やめとけ。馬主が八着で笑ってたやべー馬だぞ』

『逆に気になるだろそれ』


 俺は思わず苦笑した。


 八着で笑っていたやべー馬主。


 間違ってはいない。

 あの時、俺はたぶん笑っていた。


 負けたのに、手応えを掴んでいたから。


 さらに書き込みが流れる。


『9は外枠なのはいいな』

『雨もプラス?』

『血統的にはダート長めでもいい気はする』

『いやトモ甘いしまだ先だろ』

『馬体見てからでいい』

『パドックで細かったら切り』

『38倍はちょっと美味そうに見えるから罠』


 誰かが、少しだけ気づきかけている。


 でも、まだ半信半疑だ。


 それでいい。


 人気になるのは、勝ってからでいい。


 パドックに、ハルサメノツキが出てきた。


 七枠九番。

 鹿毛の馬体が、雨に濡れて少し濃く見える。


 やっぱり小さい。

 完成度はまだ高くない。

 前走から急に別馬になったわけではない。


 けれど、歩き方は少しだけ変わっていた。


 首が前より低い。

 耳は動いているが、必要以上に怯えてはいない。

 後ろ脚の踏み込みも、ほんの少しだけ深くなった気がする。


 俺の隣で、新聞を持った男たちが話している。


「九番、細くね?」


「でも前走より落ち着いてるな」


「いや、さすがに買えんだろ。八着だぞ」


「三連複のヒモなら……いや、ないか」


 その会話を聞きながら、俺はパドックのハルサメノツキを見続けた。


 黒川先生が隣に立つ。


「どう見ます?」


「前走より、周りを見てます」


「ええ。気持ちは悪くありません」


「馬体は?」


「まだです」


 即答だった。


「まだ、ですか」


「ええ。完成は先です。でも今日は、今のこの仔なりに走れる状態にはあります」


 それだけで十分だった。


 浅倉騎手が騎乗する。


 ハルサメノツキが一瞬だけ首を上げる。

 しかし、浅倉騎手が軽く首筋を撫でると、すぐに落ち着いた。


「頼みます」


 俺は小さく呟いた。


 掲示板をもう一度見る。


『パドック9どう?』

『細いけどテンションは悪くない』

『歩きは前走よりマシ』

『それでも買うほどではない』

『単勝40倍近くあるし100円だけ買った』

『俺も複勝だけ遊ぶ』

『お前ら養分乙』

『雨の大井は変なの来るぞ』


 オッズが少し動いた。


 単勝三十八・六倍から、三十五・九倍。


 少しだけ売れた。


 たぶん、掲示板の誰かが買ったのだろう。

 そう思うと、妙におかしかった。


 締切五分前。


 ハルサメノツキの単勝は三十六・四倍。

 複勝は七・八倍から十二・三倍。


 相変わらず人気薄だ。


 でも、完全な無視ではなくなっている。


 発走時刻が近づく。


 返し馬。


 ハルサメノツキは、外ラチ沿いをゆったりと走っていく。

 前走よりも、少し首の位置が安定している。


 浅倉騎手は無理に気合をつけない。

 軽く促すだけ。

 ハルサメノツキも、嫌がらずに前へ進む。


 その姿を見て、俺の胸が強く鳴った。


 悪くない。


 本当に、悪くない。


 頭の奥で、あの文字がかすかに浮かぶ。


《条件接近》


《右回り/稍重/外枠/距離延長》


《能力発揮率:上昇》


 俺はすぐに視線を落とした。


 誰にも言えない。

 黒川先生にも、浅倉騎手にも。


 これは俺だけが見えるものだ。


 だからこそ、現実で証明しなきゃいけない。


『まもなく大井第六競走、発走です』


 場内アナウンスが流れる。


 各馬がゲート裏へ向かう。


 一番人気のミスティックフレアは落ち着いている。

 二番人気のグランバレットは前向きで、いかにも先行しそうだ。

 内のサザンブレイドも気配はいい。


 ハルサメノツキは、七枠九番。


 外めの枠から、ゆっくりとゲートへ向かう。


 俺は息を吸った。


「ハル」


 声は雨に消えた。


「今日は、ちゃんと走れるぞ」


 黒川先生が隣で腕を組む。


「三上さん」


「はい」


「勝てるとは言いません」


「分かっています」


「でも」


 彼女は馬場を見た。


「前走とは違う競馬になると思います」


 それだけで、十分だった。


 ゲート入りが始まる。


 一頭、また一頭と収まっていく。


 ハルサメノツキは少しだけ立ち止まったが、浅倉騎手がなだめると、すっとゲートに入った。


 前走より、ずっとスムーズだった。


『全馬、ゲートに収まりました』


 雨音が遠くなる。


 スタンドのざわめきも消える。


 俺の視界には、七枠九番のゲートだけがあった。


 単勝三十六・四倍。


 誰にも期待されていない安馬。


 けれど、条件は揃いつつある。


 ゲートが開いた。


『スタートしました!』


 ハルサメノツキは、今日も速くはなかった。


 けれど、前走ほど置かれていない。


 浅倉騎手は無理に押さない。

 出していかない。

 七枠九番から、外めの中団後ろに収める。


『先手を取ったのは五番グランバレット! 外から十番レッドバイザーも前へ! 一番人気ミスティックフレアは好位三番手!』


 前は速い。


 グランバレットが先手を奪い、レッドバイザーが外から並びかける。

 一番人気のミスティックフレアは、その後ろでじっとしている。


 ハルサメノツキは後方五番手。


 外。


 砂を被らない位置。


「いい」


 俺は思わず呟いた。


 前走とは違う。

 首が上がっていない。

 耳は動いているが、リズムは崩れていない。


『最初のコーナーに入ります。先頭はグランバレット、半馬身差でレッドバイザー。三番手にミスティックフレア、内にサザンブレイド』


 ハルサメノツキはまだ後ろ。


 派手な手応えではない。

 だが、浅倉騎手の手は動いていない。


 無理に追っていない。

 急がせていない。


 自分のリズムで走らせている。


 向こう正面。


 雨を吸ったダートを、十二頭が駆けていく。

 泥が跳ねる。

 先行馬たちの蹄が、黒い砂を後ろへ飛ばす。


 でもハルサメノツキは、外にいる。


 砂をまともに被っていない。


『向こう正面に入りました。先頭は依然グランバレット。レッドバイザーが二番手。一番人気ミスティックフレアは絶好の三番手。その後ろ、サザンブレイド、カイセイノート』


 実況に、ハルサメノツキの名前はまだ出ない。


 当然だ。

 まだ後方だ。


 でも俺には、見えていた。


 前走とは違う呼吸。

 違う首の使い方。

 違う走りのリズム。


 浅倉騎手の手が、わずかに動いた。


 三コーナー手前。


 ここだ。


『三コーナーへ向かいます。先頭グランバレット、レッドバイザーが並びかける! ミスティックフレアはまだ持ったまま!』


 ハルサメノツキが、外からじわっと動いた。


 一気にではない。

 爆発的な脚でもない。


 ただ、止まらずに進む。


 一頭。

 また一頭。


 外を回りながら、少しずつ前との差を詰めていく。


「来てる」


 隣で誰かが言った。


「九番、上がってきてないか?」


 俺の拳に力が入る。


 黒川先生の表情も、わずかに変わっていた。


『四コーナー! 先頭はグランバレット! ミスティックフレアが外へ持ち出す! さらに大外、九番ハルサメノツキも進出してくる!』


 初めて、実況が名前を呼んだ。


 ハルサメノツキ。


 その名前が、大井の雨に響いた。


 直線。


 前では、グランバレットが粘っている。

 ミスティックフレアが迫る。

 サザンブレイドも内から伸びている。


 ハルサメノツキは大外。


 距離ロスはある。

 届くには厳しい。


 それでも、首は下がっている。

 脚は止まっていない。


『残り二百! 先頭はグランバレット! ミスティックフレアが並ぶ! 内からサザンブレイド! 外からは九番ハルサメノツキ!』


 スタンドがざわついた。


「九番?」

「なんだあれ」

「来るのか?」

「マジか、三十倍だぞ!」


 浅倉騎手が右ムチを一発。


 ハルサメノツキが、さらに首を伸ばした。


 泥を蹴る。

 雨を裂く。

 鹿毛の馬体が、外からじわじわと前へ迫る。


 速くない。


 でも、止まらない。


『残り百! ミスティックフレア先頭に替わった! グランバレット粘る! 外からハルサメノツキ! ハルサメノツキが三番手に上がる!』


「行け!」


 気づいたら、叫んでいた。


「行け、ハル!」


 前にはまだ二頭いる。


 遠い。

 届かない。


 でも、ハルサメノツキは最後まで脚を伸ばした。


『一着はミスティックフレア! 二着グランバレット! そして三着争いは――外のハルサメノツキか、内のサザンブレイドか!』


 ゴール板を駆け抜けた瞬間、俺は息をするのを忘れていた。


 三着か。

 四着か。


 勝ってはいない。


 それでも、前走とはまるで違う。


 周囲がざわついている。


「九番来た?」

「三着なら複勝つくぞ」

「買ってねえよ!」

「最後すげえ伸びてたな」

「あれ前走八着だろ?」


 着順掲示板が点灯する。


 一着、二番。

 二着、五番。


 そして。


 三着、九番。


 ハルサメノツキ。


 俺はその数字を見たまま、しばらく動けなかった。


 三着。


 勝ってはいない。


 でも、ハルサメノツキは初めて、競馬場に自分の名前を残した。


「三上さん」


 黒川先生の声が聞こえた。


 振り向くと、彼女は小さく息を吐いていた。


「届きませんでしたね」


「はい」


「でも」


 黒川先生は、雨に濡れた馬場を見つめた。


「これで、誰も前走の八着だけでは判断できなくなりました」


 俺は頷いた。


 スマホが震える。


 掲示板を開くと、スレが一気に流れていた。


『9来たあああああ』

『複勝うめえええ』

『だから最後伸びてたって言っただろ!』

『単勝じゃなくて複勝にしとけばよかった』

『三上とかいう馬主、マジで何見てたんだ?』

『八着で笑ってた理由これかよ』

『次人気するぞこれ』

『いや勝ってないからまだバレてない』

『ハルサメノツキ、名前覚えたわ』


 俺は画面を見ながら、静かに笑った。


 勝ってはいない。


 でも、届いた。


 ほんの少しだけ。

 この馬の本当の走りが、誰かに届いた。


 引き上げてくるハルサメノツキは、泥だらけだった。

 息は上がっている。

 でも目は死んでいない。


 浅倉騎手が馬上から笑った。


「馬主さん」


「はい」


「この馬、一六〇〇でもまだ少し忙しいかもしれません」


 心臓が跳ねた。


「ということは」


 浅倉騎手は、泥だらけのハルサメノツキの首を軽く叩いた。


「一八〇〇、試してみたいですね」


 黒川先生が俺を見る。


 俺は、雨の馬場を見た。


 あの日見えた光景に、また一歩近づいた。


「次ですね」


 俺が言うと、黒川先生は呆れたように笑った。


「三着で、もう次ですか」


「はい」


 だって、まだ勝てる場所には届いていない。


 でも、もう誰もこの馬をただの駄馬とは呼べない。


 少なくとも、今日の大井でハルサメノツキの名前を見た人間だけは。

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