第5話 次につながる負け方
ハルサメノツキのデビュー戦は、大井ダート一二〇〇メートルに決まった。
短い。
短すぎる。
少なくとも、俺の見立てではそうだった。
「本当に使うんですね」
出走表を見ながら、俺は思わず呟いた。
黒川先生は淡々と頷く。
「使います」
「忙しくなりませんか」
「なります」
「砂も被りますよね」
「被るでしょうね」
「勝てませんよね」
「今のままなら、まず無理です」
そこまで即答されると、逆に清々しい。
俺は出走表に並んだ馬名を見た。
ハルサメノツキの隣には、人気になりそうな馬たちの名前がある。
調教時計のいい馬。
先行力のありそうな馬。
血統的に短距離向きの馬。
その中で、ハルサメノツキは明らかに浮いていた。
「でも、使うんですね」
「ええ」
「理由は?」
「競馬を覚えさせるためです」
黒川先生は、パドックの方へ視線を向けた。
「ゲートを出る。砂を被る。馬群の音を聞く。直線で手前を替える。人間の指示を覚える。調教だけでは分からないことがあります」
分かっている。
分かっているけど、胸の奥はざわついた。
デビュー戦。
馬主として初めて、自分の馬がレースに出る。
どうせなら勝ってほしい。
せめていいところを見せてほしい。
そんな気持ちは、当然ある。
でも、ハルサメノツキに必要なのは、いま勝つことじゃない。
次につながる負け方。
俺はその言葉を、何度も頭の中で繰り返した。
パドックにハルサメノツキが出てきた。
小さい。
他の馬と並ぶと、やはり馬体の薄さが目立つ。
毛艶は悪くない。目も澄んでいる。けれど、完成度という意味ではまだ幼い。
近くにいた客が新聞を見ながら笑った。
「七番、細いなあ」
「あれ二十万で買われた馬だろ?」
「馬主の夢枠ってやつか」
「まあ今回は回ってくるだけだろ」
聞こえている。
全部、聞こえている。
俺は拳を握った。
怒るな。
ここで怒っても何も変わらない。
この馬の価値は、今日の一二〇〇メートルで決まるわけじゃない。
だけど。
ハルサメノツキがこちらを向いた瞬間、胸の中に熱いものがこみ上げた。
「大丈夫だ」
俺は小さく言った。
「今日は、負けてもいい。ただ、何か一つ持って帰ろう」
黒川先生が隣で言う。
「馬に聞こえたら怒りますよ」
「え?」
「負けてもいい、なんて」
その口元が、少しだけ笑っていた。
騎手は、南関東の若手――浅倉蓮。
派手な実績はない。
ただ、調教で何度かハルサメノツキに乗り、黒川先生が「無理に動かさないところがいい」と選んだ騎手だった。
浅倉騎手は馬上から軽く会釈した。
「先生、無理に出していかなくていいんですよね?」
「ええ。砂を被った時の反応を見てください。直線で少しでも脚を使えれば、それでいいです」
「了解です」
俺にも視線が向いた。
「馬主さん、初出走ですよね」
「はい」
「勝たせます、とは言えませんけど」
「分かってます」
「でも、嫌な記憶だけは残さないように乗ります」
その言葉に、少しだけ救われた。
ゲート裏。
ハルサメノツキは少し首を高くしていた。
落ち着いているように見えるが、耳が忙しく動いている。
初めてのレース。
初めての歓声。
初めての馬群。
不安じゃないはずがない。
『各馬、ゲート入りを開始しています』
実況の声が場内に流れる。
一番人気の馬がすんなり入る。
二番人気も入る。
ハルサメノツキは少しだけ嫌がったが、浅倉騎手がなだめると、ゆっくりとゲートに収まった。
俺は息を止めた。
『全馬収まりました』
静寂。
次の瞬間、ゲートが開いた。
『スタートしました!』
ハルサメノツキは、やはり速くなかった。
一完歩目が遅い。
二完歩目で隣の馬に前へ入られる。
三完歩目には、もう前から砂が飛んできた。
ハルサメノツキの首が上がる。
「やっぱり……」
俺は奥歯を噛んだ。
『先手を取ったのは三番スターライトベル! 外から五番カイセイランナーも続く! 七番ハルサメノツキは後方二番手!』
忙しい。
明らかに忙しい。
前の馬たちは軽快にスピードに乗っていく。
ハルサメノツキは追走だけで精一杯だ。
しかも、内に入ったことで砂をまともに被っている。
首を上げる。
耳を絞る。
走りのリズムが崩れる。
周囲から声が聞こえた。
「ほらな」
「やっぱりついていけない」
「あれは厳しいわ」
黒川先生は黙っている。
俺も黙った。
見ろ。
結果じゃない。
負け方を見ろ。
向こう正面。
ハルサメノツキは後方のまま。
浅倉騎手は無理に押していない。砂を嫌がった瞬間、少し外へ出そうとしている。
だけど一二〇〇メートルでは、その余裕がない。
『三コーナーから四コーナーへ! 先頭はスターライトベル! カイセイランナーが並びかける!』
ハルサメノツキはまだ後ろ。
勝負には、もう参加できていなかった。
それでも。
四コーナーで、浅倉騎手が外へ持ち出した。
前の馬がばらける。
砂を被らない位置に出る。
その瞬間、ハルサメノツキの首が下がった。
「あ」
俺は声を漏らした。
変わった。
派手な加速じゃない。
ごぼう抜きでもない。
けれど、明らかにフォームが変わった。
前だけで走っていた馬が、少しだけ後ろ脚で地面を押した。
『直線に向きました! 先頭はスターライトベル! 外からカイセイランナー! 後続はやや離れた!』
実況は先頭争いを追っている。
当然だ。
ハルサメノツキは画面の端。
着順争いにも絡んでいない。
でも、俺にはそこしか見えなかった。
外。
砂を被らない場所。
浅倉騎手が追いすぎず、リズムだけを整える。
ハルサメノツキは、じわじわと脚を伸ばした。
一頭、かわした。
もう一頭に並んだ。
ゴール前で、半馬身だけ前へ出た。
『勝ったのはスターライトベル! 二着カイセイランナー! 三着争いは――』
ハルサメノツキの名前は、実況に呼ばれなかった。
結果は八着。
勝ち馬から大きく離された八着。
掲示板にも載らない。
馬券にもならない。
周囲から見れば、ただの凡走だ。
「まあ、こんなもんだろ」
「次も人気しないな」
「二十万の馬なら頑張った方じゃない?」
笑い声が混じる。
けれど俺は、動けなかった。
見えた。
最後の二〇〇メートルだけ。
ほんのわずかだけ。
この馬の走りたい形が。
黒川先生が隣で言った。
「どう見ました?」
俺は、まだ直線の方を見たまま答えた。
「短いです」
「でしょうね」
「砂を被ると、やっぱりダメです」
「ええ」
「でも、外に出してからは脚を使いました」
「相手が止まっていただけかもしれません」
「それでもです」
俺は振り返った。
「この馬、やっぱり一二〇〇じゃない。追走で脚をなくしてるだけです。距離を延ばして、外目をスムーズに運べたら、もっと走れます」
黒川先生は俺をじっと見た。
「次で勝てる、とでも?」
普通なら、言わない方がいい。
新米馬主が八着のあとに言う言葉じゃない。
勘違いしていると思われる。
馬鹿だと思われる。
でも、俺には分かっていた。
いや。
見えていた。
雨の大井。
濡れたダート。
外から伸びる鹿毛の馬体。
今日の最後の二〇〇メートルは、その欠片だった。
「勝てます」
黒川先生の目が細くなる。
「条件は?」
「距離延長。できれば一六〇〇以上。砂を被らない外枠。馬場は軽いより、少し湿った方がいい。前半で急がせず、三コーナーからじわっと動く競馬」
「注文が多いですね」
「この馬は、注文を間違えると走れません」
黒川先生は何も言わなかった。
やがて、ゆっくりと息を吐く。
「八着でそこまで言い切る馬主は、初めてです」
「すみません」
「褒めてません」
「でしょうね」
「でも」
黒川先生は、引き上げてくるハルサメノツキを見た。
泥を浴び、息を弾ませている。
負けた馬の顔だった。
でも、走ることを嫌いになった顔ではなかった。
「次につながる負け方ではありました」
その一言で、胸の奥が熱くなった。
ハルサメノツキが戻ってくる。
浅倉騎手が馬上から苦笑した。
「忙しかったですね。でも最後、外出したらちゃんと走りましたよ」
「ありがとうございます」
「次、距離延ばすなら面白いかもしれません」
浅倉騎手の言葉に、黒川先生がちらりと俺を見る。
俺は何も言わなかった。
言わなくても、顔に出ていたと思う。
ハルサメノツキは、八着だった。
誰も驚かない。
誰も騒がない。
誰もこの馬の未来なんて見ていない。
でも、それでいい。
今日は負けた。
だけど、ただの負けじゃない。
勝てる場所までの、一歩目だ。
俺は泥まみれのハルサメノツキに向かって、小さく言った。
「次だ」
その時、スマホが震えた。
何気なく画面を見る。
競馬掲示板の地方スレに、さっそく書き込みが流れていた。
『七番の馬主、レース後めちゃくちゃ笑ってなかった?』
『八着で?』
『やべーやつじゃん』
『でも最後ちょっと伸びてなかった?』
『気のせいだろ。普通に弱い』
俺は画面を閉じた。
まだ、それでいい。
誰も気づいていないなら、次のオッズはきっと美味しい。
そして次こそ、ハルサメノツキの走りを見せられる。




