第4話 安馬と呼ばれた理由
安馬と呼ばれる馬には、理由がある。
その理由を、俺は厩舎入りから三日目の朝に思い知らされた。
「ハル、前へ」
調教助手の声に合わせて、ハルサメノツキがゆっくりと歩き出す。
大井の朝は早い。
まだ空は薄暗く、馬場の向こうに白い息がいくつも浮かんでいる。
俺は柵の外から、その姿を見ていた。
小さい。
やっぱり、小さい。
セリ会場で見た時より少し落ち着いて見えるが、周りの馬と並ぶと馬体の薄さが目立つ。トモもまだ甘い。後ろ脚で地面を押す力が足りない。
それでも、首の使い方は悪くなかった。
「どう見ます?」
隣に立った黒川先生が言った。
「まだ身体が使えてないです。でも、歩き自体は嫌いじゃないです」
「優しい評価ですね」
「甘いですか?」
「馬主としては甘いです。馬を見る人間としては、まあ普通です」
褒められたのか、そうじゃないのか分からない。
ハルサメノツキは角馬場を一周し、軽くキャンターに入った。
最初の数完歩、少し頭が高い。
前の馬が蹴った砂が顔に当たった瞬間。
ハルサメノツキの首が跳ねた。
「うわっ」
乗っていた助手が手綱を押さえる。
ハルサメノツキは嫌がるように首を振り、外へ逃げようとした。
黒川先生の表情が険しくなる。
「やっぱり砂を嫌がる」
俺の胸が、冷たくなった。
セリ会場で浮かんだ文字。
《注意:砂を被る競馬では能力低下》
当たっている。
当たってしまっている。
けれど、それを喜ぶ気にはなれなかった。
競馬で砂を被るのを嫌がる。
それは地方ダートでは大きな弱点だ。内枠で包まれれば、そこで終わる。前に行けなければ、砂を浴びる。砂を嫌がれば、さらに下がる。
悪循環だ。
「これ、厳しいですね」
俺が言うと、黒川先生は横目で見た。
「ずいぶん冷静ですね。もっと落ち込むかと思いました」
「落ち込んでます」
「そうは見えません」
「顔に出す余裕がないだけです」
黒川先生は、少しだけ口元を緩めた。
馬場では、ハルサメノツキが再び走り出していた。
砂を被らない位置に出されると、さっきより首が下がる。走りにリズムが戻る。
速くはない。
でも、止まってはいない。
派手な脚ではない。
一気に加速するタイプでもない。
ただ、じわじわと同じ速度を保っている。
「……やっぱり、短いところじゃない」
思わず呟いた。
黒川先生が聞き逃さなかった。
「根拠は?」
「前半で急がせるとバラバラになります。でも、リズムに乗った後は意外とフォームが崩れない。スピードで押す馬じゃなくて、長く同じ脚を使う馬だと思います」
「その見立て自体は、私も近いです」
「本当ですか?」
「ただし」
黒川先生の声は冷静だった。
「長いところを使うには、まだ身体ができていません」
痛いところだった。
ハルサメノツキが一周を終え、助手に首を撫でられている。
息は乱れていない。だが、後ろ脚の踏み込みはまだ浅い。
「短いところは忙しい。長いところは身体が持たない。砂を被ると嫌がる。スタートも速くない」
黒川先生は淡々と並べた。
「これが、あの仔が二十万円だった理由です」
言葉が刺さった。
分かっていた。
分かっていたはずだった。
それでも、目の前で弱点を並べられると、喉の奥が苦くなる。
安かったから買えた。
でも安い馬には、安いだけの理由がある。
「三上さん」
「はい」
「夢を見るのは自由です。でも、馬は夢の通りには走りません」
「……はい」
「この仔を勝たせたいなら、まず負ける準備をしてください」
俺は顔を上げた。
「負ける準備?」
「初戦から勝ちに行くのは無理です。今の状態で一番合う条件を待っていたら、デビューが遅れすぎる。かといって急に距離を延ばせば身体に負担がかかる」
「つまり?」
「最初は、競馬を覚えさせるために使います」
黒川先生は馬場から目を離さない。
「砂を浴びること。ゲートを出ること。馬群の中で我慢すること。人間の指示を聞くこと。まず、それを教える」
「勝てない条件で、ですか」
「勝ち負けより、次につながる負け方をさせるんです」
その言葉に、俺は黙った。
次につながる負け方。
カザマノリュウセイの負け方は、そうじゃなかった。
何も積み上がらない負け方だった。
ただ評価だけを落とし、最後には駄馬と呼ばれた。
でも、ハルサメノツキには違う負け方をさせられるかもしれない。
負けても、次が分かる。
負けても、条件が絞れる。
負けても、この馬自身が競馬を覚える。
「分かりました」
俺は言った。
「初戦は、勝ちに行かない」
黒川先生がこちらを見た。
「新米馬主がそれを言えるのは珍しいですね」
「本当は勝ちたいです」
「でしょうね」
「でも、ここで無理に勝ちに行って、この馬が競馬を嫌いになったら意味がない」
ハルサメノツキが、馬場から戻ってくる。
鼻先に砂がついていた。
少し不機嫌そうな顔をしている。
俺は柵越しにその顔を見た。
「この馬の勝てる場所を探すって、言いましたから」
黒川先生はしばらく黙っていた。
そして、ぽつりと言った。
「では、次の開催で一度使いましょう」
心臓が跳ねた。
「デビュー、ですか?」
「ええ。ただし、条件はあなたの理想とは違います」
「距離は?」
「大井の短め。今のこの仔には忙しいでしょうね」
分かっていたはずなのに、胃が重くなった。
「周りには、また言われますよ」
黒川先生は淡々と言う。
「短距離向きじゃないのに出すのか。やっぱり分かってない。安馬を買った初心者が迷走している。そういう声は出るでしょう」
俺は小さく息を吐いた。
「言わせておけばいいです」
「強がりですか?」
「半分は」
「残り半分は?」
「次で勝つための負けなら、必要です」
黒川先生は、初めて少しだけ笑った。
「では、その負け方を見せてもらいます」
厩舎の奥で、ハルサメノツキが鼻を鳴らした。
まるで、勝手に負ける話をするなと怒っているみたいだった。
俺はその顔を見て、思わず笑ってしまう。
「悪いな、ハル」
まだ弱い。
まだ幼い。
まだ勝てる条件には遠い。
でも、もう始まっている。
この馬を駄馬で終わらせないための、一つ目の負けが。
そして数日後。
出走予定表に、ハルサメノツキの名前が載った。
人気は、当然のように最低だった。




