第3話 その勘、いくら払えますか?
「三分で説明してください」
黒川桐子調教師は、そう言った。
朝の厩舎に、馬の鼻息が白く溶けている。
まだ陽は低い。遠くで蹄が地面を叩く音がした。
俺は手元の資料を握りしめた。
ここで間違えれば終わる。
あの鹿毛の牝馬は、走る前に行き場を失う。
「まず、短距離馬じゃないと思いました」
黒川先生の眉が、少しだけ動いた。
「続けてください」
「馬体だけ見ると、今は小さくて緩いです。だから早い時期から短いところでスピードを出すタイプには見えません。むしろ、追走で脚を使わされると思います」
「血統は?」
「父のミナトブレイヴは地方ダートで走った産駒が多いです。ただ、産駒全体で見ると仕上がりが早いタイプではない。母のツキノシズクも、現役時代は長めの距離でじわっと脚を使う馬でした」
昨日、必死に調べ直した情報だ。
もちろん、それだけで答えが出たわけじゃない。
本当は見えた。
雨の大井。
濡れた砂。
外から伸びる鹿毛の馬体。
でも、それは言えない。
だから、競馬の言葉に変える。
「それに、歩様です」
「歩様?」
「硬いと言えば硬いです。でも、ただ硬いというより、まだ身体の使い方が分かっていない感じでした。前だけで進もうとしている。トモが入ってくれば、今よりずっと長く脚を使えると思います」
黒川先生は黙って聞いている。
否定しない。
でも、信じてもいない。
俺は続けた。
「たぶん、内で砂を被る競馬はよくないです。気持ちが切れる。だから、最初から揉まれる競馬をさせると、ただの弱い馬に見えると思います」
「……そこまで分かるんですか」
「分かるというより、そう見えました」
口にした瞬間、黒川先生の目が細くなった。
「見えた、ですか」
やばい。
言い方を間違えた。
「映像として、という意味ではなくて……馬体と歩き方を見た印象です」
「印象」
「はい」
「では、その印象に、月いくら払えますか?」
「え?」
思わず間抜けな声が出た。
黒川先生は淡々と言う。
「預託料、飼葉代、装蹄、獣医、輸送、登録。馬は毎日お金がかかります。走らなくてもです」
「分かっています」
「本当に?」
鋭い声だった。
「三上さん。初めて馬を持つ人は、よく言うんです。この馬には可能性がある。自分には見える。きっと走る。けれど、三か月後には請求書を見て黙る。半年後には、まだデビューできないのかと言い出す。一年後には、売れないかと相談してくる」
何も言い返せなかった。
夢を語るのは簡単だ。
けれど、馬はその夢の重さを毎日食べて生きている。
「その仔は、すぐには走れません」
「……はい」
「今のまま急がせたら壊れます。短いところで無理に追走させたら、競馬が嫌いになるかもしれない。馬体ができるまで待つ必要があります」
「はい」
「つまり、あなたの言う“勝てる場所”に連れていく前に、時間とお金がかかります」
黒川先生は俺をまっすぐ見た。
「それでも持ちますか?」
頭の中に、カザマノリュウセイの姿が浮かんだ。
勝てる場所を知らないまま、消えていった馬。
誰にも待ってもらえなかった馬。
俺は、拳を握った。
「持ちます」
「根拠は?」
「あります」
「では、言ってください」
「その馬は、まだ負けていないからです」
黒川先生の目が、わずかに変わった。
「まだ、レースにも出ていません」
「だからです」
俺は一歩だけ前に出た。
「まだ、間違った条件で使われていない。まだ、短距離で忙しい思いもしていない。まだ、砂を被って嫌な記憶もついていない。まだ、誰にも駄馬だと決めつけられていない」
言いながら、声が少し熱くなっているのが自分でも分かった。
「だから今なら、間に合うと思ったんです」
黒川先生は黙っていた。
厩舎の奥で、一頭の馬が壁を蹴った。
乾いた音が響く。
しばらくして、彼女は小さく息を吐いた。
「綺麗事ですね」
「はい」
「馬主としては危ない考え方です」
「はい」
「でも」
黒川先生は初めて、俺の資料に目を落とした。
「馬の見方は、完全に外れているとは思いません」
胸の奥が少しだけ軽くなった。
「預かって、いただけますか?」
「条件があります」
「何でも聞きます」
「何でも、とは言わない方がいいです」
即座に返されて、俺は口を閉じた。
「一つ。こちらの調教方針に口を出しすぎないこと」
「はい」
「二つ。焦って出走を急がせないこと」
「はい」
「三つ。あなたの“見えた”という言葉だけで、レースを決めないこと」
心臓が跳ねた。
やっぱり、引っかかっている。
「……分かりました」
「使うなら、理由を出してください。血統、馬体、調教内容、相手関係、馬場、距離。説明できない勘だけで馬は預かれません」
それは、厳しい言葉だった。
けれど同時に、救いでもあった。
俺は《相馬眼》を誰にも話せない。
なら、見えたものを現実の理由に変えるしかない。
「説明します。必ず」
「なら、預かります」
その一言で、膝から力が抜けそうになった。
「ありがとうございます」
「まだ礼を言う段階じゃありません」
黒川先生は厩舎の奥へ歩き出した。
「見ますか?」
「何をですか?」
「あなたが買った馬です。今朝、輸送でこちらに着きました」
俺は息を止めた。
厩舎の奥。
まだ慣れない馬房の中で、小柄な鹿毛の牝馬がこちらを向いた。
セリ会場で見た時より、少し不安そうだった。
けれど目だけは、妙に強い。
黒川先生が言う。
「名前は?」
「まだ、決めていません」
「馬名登録には必要です。考えてきましたか?」
俺は馬房の前に立ち、鹿毛の額を見た。
泥の中で光る月。
雨の大井。
誰にも見つからなかった、一筋の光。
「ハルサメノツキ」
自然に、その名前が口から出た。
「春雨の月、ですか」
「はい」
「地味ですね」
「……ダメですか?」
「いえ」
黒川先生は馬房の中の牝馬を見た。
「この仔には、派手すぎる名前より似合っています」
その時、ハルサメノツキが一歩だけ近づいてきた。
俺の手の匂いを嗅ぐ。
それから、ふいっと顔を背けた。
黒川先生が小さく笑った。
「嫌われましたね」
「まだ初対面なので」
「馬は正直です。馬主の覚悟も、そのうち見抜きますよ」
俺は馬房の柵に手を置いた。
ハルサメノツキ。
二十万円の安馬。
誰にも期待されなかった牝馬。
でも、俺は知っている。
いや、知っているなんて言えない。
俺には、見えてしまっただけだ。
この馬が、泥の中で月みたいに光る未来を。
黒川先生が背後で言った。
「三上さん」
「はい」
「この仔、相当時間がかかりますよ」
俺はハルサメノツキを見つめたまま答えた。
「待ちます」
「本当に?」
「はい」
その瞬間、ハルサメノツキが馬房の中で小さく鼻を鳴らした。
まるで、勝手に決めるなと言うみたいに。
俺は思わず笑った。
「まずは、お前の走りたい場所を探そう」
まだレースにも出ていない。
まだ誰にも認められていない。
それでも、ようやく始まった。
俺とハルサメノツキの馬主人生は、今日、初めて厩舎に入った。




