第2話 馬は買って終わりじゃない
「……本当に買ったんですか?」
セリ会場の事務所で、受付の女性が書類を確認しながら、少しだけ目を丸くした。
「はい」
「上場番号七十二番、父ミナトブレイヴ、母ツキノシズクの牝馬。落札価格、二十万円。お間違いありませんね?」
「ありません」
俺は、震えそうになる指で署名した。
馬を一頭、買った。
たったそれだけのことなのに、ペン先がやけに重い。
二十万円。
セリの値段だけ見れば、安い。
けれど馬は、買った瞬間から金がかかる。
預託料。
飼葉代。
装蹄代。
治療費。
輸送費。
登録料。
出走までに必要な、見えない金。
俺の通帳残高は、もう勝手に減り始めているような気がした。
「預託予定の厩舎は?」
「……これから探します」
受付の女性の手が、一瞬だけ止まった。
「これから、ですか」
「はい」
「なるべく早く決めてくださいね。競走馬として進めるなら、調教師さんとの話が必要になりますから」
「分かっています」
分かっている。
つもりだった。
でも、事務所を出た瞬間、背中に聞こえてきた笑い声で、俺は嫌でも現実を思い知らされた。
「預け先も決まってないのに買ったのかよ」
「初心者あるあるだな」
「馬券より高い授業料になりそうだ」
聞こえないふりをした。
できなかった。
馬を買った高揚感は、思ったより早く冷めた。
残ったのは、手の中の書類と、腹の底に沈む重さだった。
その日の夜。
俺は自宅の机にノートパソコンを開き、地方競馬の厩舎情報を片っ端から調べた。
大井。
船橋。
川崎。
浦和。
まずは南関東。
この牝馬の適性を考えれば、大井のダート中距離が一番合う。
あの時、頭に浮かんだ光景。
雨の大井。
濡れたダート。
外からじわじわ伸びてくる鹿毛の馬体。
《適性:地方ダート・中距離》
《条件:右回り/稍重〜重/外差し》
……いや、落ち着け。
あれをそのまま口にするわけにはいかない。
俺自身だって、まだ説明できない。
必要なのは、現実の言葉だ。
馬体が緩い。
だから完成まで待つ必要がある。
短距離では追走に苦労する可能性が高い。
歩様の硬さを見る限り、芝の瞬発力勝負よりダート。
砂を被ると嫌がるなら、外枠か外を回す競馬。
俺は、そういう言葉に置き換えてメモを作った。
そして翌朝から、電話をかけ始めた。
「はじめまして。地方馬主の三上透と申します。実は先日のセリで牝馬を一頭――」
一件目。
『すみません、今は馬房が空いていません』
二件目。
『初年度の馬主さんですか。紹介者は?』
三件目。
『その血統で牝馬ですか。うちはちょっと難しいですね』
四件目。
『すぐ使える馬じゃないなら、他を当たってもらった方が』
五件目。
『そのタイプは時間がかかりますよ。維持費、大丈夫ですか?』
丁寧な声。
困ったような声。
面倒くさそうな声。
断り方は違っても、意味は同じだった。
預かりたくない。
俺はスマホを机に置いて、天井を見上げた。
「……馬主って、馬を買えば始まるんじゃないのかよ」
違う。
馬を買うのは、入口ですらなかった。
入口の前で、鍵を探している状態だった。
その日の夕方、セリで名刺交換した牧場関係者から電話が来た。
『三上さん、預け先は決まりました?』
「いえ。正直、かなり厳しいです」
『でしょうねえ』
あまりにも正直に言われて、苦笑いしか出なかった。
『あの仔、悪い馬じゃないんですよ。ただ、すぐ勝てるタイプじゃない。身体ができるまで待たなきゃいけないし、使い方も難しい』
「分かっています」
『……分かってて買ったんですか?』
「はい」
電話の向こうが、少し黙った。
『どうしてです?』
どうして。
答えは簡単だった。
見えたから。
でも、それは言えない。
「負け方を、間違えられそうな馬だったからです」
『負け方?』
「短いところを使われて、追走で脚をなくす。内で砂を被って嫌がる。身体ができる前に見限られる。そうなったら、たぶんこの馬は一度も本気で走れないまま終わります」
自分で言いながら、胸が熱くなった。
「俺は、それが嫌なんです」
電話の向こうで、ふっと息を吐く音がした。
『変わってますね、三上さん』
「よく言われます」
『褒めてませんよ』
「でしょうね」
短い沈黙のあと、その人は言った。
『一人だけ、話を聞いてくれるかもしれない調教師がいます』
俺は思わず背筋を伸ばした。
「本当ですか?」
『ただし、楽な人じゃないですよ』
「構いません」
『大井の黒川厩舎。黒川桐子先生です。お父さんの厩舎を継いだばかりで、まだ大きな馬主はついていません。腕はあります。でも、かなり現実的な人です』
「現実的……」
『夢だけ語る馬主は、たぶん一番嫌われます』
耳が痛かった。
『それでも紹介しますか?』
俺は、机の上の書類を見た。
上場番号七十二番。
まだ名前のない牝馬。
あの馬の勝てる場所を見つける。
そう言ったのは、俺だ。
「お願いします」
『分かりました。明日の朝、厩舎に来られますか?』
「行きます」
電話を切ったあと、しばらくスマホを握ったまま動けなかった。
やっと、入口の鍵が見えた。
でも、開くかどうかは分からない。
俺はノートパソコンを閉じ、メモをもう一度見返した。
地方ダート。
中距離。
右回り。
重馬場。
外差し。
砂を被らせない。
これは、あの不思議な文字が教えた答えだ。
けれど明日、それをそのまま言えば、俺はただの危ない新米馬主になる。
だから、言葉を選ばなきゃいけない。
血統で説明する。
馬体で説明する。
歩様で説明する。
走り方で説明する。
スキルじゃない。
予言でもない。
競馬の言葉で、この馬の価値を証明しなきゃいけない。
翌朝。
大井競馬場の近くにある厩舎地区は、まだ薄暗かった。
空気に馬の匂いと、濡れた藁の匂いが混じっている。
厩舎の前に、一人の女性が立っていた。
黒い髪を後ろでまとめ、作業着の袖をまくっている。
目つきは鋭い。
眠そうでも、不機嫌そうでもない。
ただ、こちらを値踏みするように見ていた。
「三上透さんですね」
「はい」
「黒川桐子です」
彼女は、俺の手元の資料には目もくれずに言った。
「まず聞きます」
「はい」
「どうして、あの馬を買ったんですか?」
いきなり核心だった。
俺は息を吸った。
見えたんです。
そう言いそうになって、飲み込む。
代わりに、俺は言った。
「勝てない馬には、見えなかったからです」
黒川先生の眉が、わずかに動いた。
「では、三分で説明してください」
朝の厩舎に、馬の鼻息だけが響いた。
俺は、書類を握りしめる。
ここで失敗したら、あの馬は走る場所を失う。
俺の馬主人生は、まだ始まってすらいなかった。




