第1話 買います
その馬が最下位でゴールした瞬間、俺は馬券を握ってもいないのに、胸の奥を強く掴まれた気がした。
『カザマノリュウセイ、今日も後方のまま! 大きく離されての入線です!』
大井のナイター照明が、雨に濡れたダートを白く照らしている。
最終レース。
勝った馬の名前に場内が沸く中、泥まみれの栗毛だけが、画面の端で小さく映っていた。
「……違う」
俺は思わず呟いた。
隣にいた中年の男が、外れ馬券をくしゃっと丸めながら笑う。
「兄ちゃん、あの馬買ってたのか?」
「いえ」
「じゃあ何そんな顔してんだよ。あれはもう無理だろ。短いところでも追走できねえし、中距離でも伸びねえ。使う場所がない馬だよ」
使う場所がない。
その言葉に、俺は何も返せなかった。
けれど、納得はできなかった。
カザマノリュウセイは、本当に弱いのか。
短距離では忙しそうに追走で脚を使わされている。
中距離では内で砂を被って、首を上げて嫌がっている。
それでも、レースが終わったあとだけ、まだ走れそうな息遣いを見せる。
負け方が、変だった。
「外枠で、砂を被らずに……もう少し長いところなら」
俺の声は、場内のざわめきに消えた。
数か月後。
カザマノリュウセイは、ひっそりと引退した。
ニュースにもならなかった。
掲示板に少し名前が出て、すぐに流れた。
『あの馬、結局勝てなかったな』
『まあ駄馬だったし』
『地方あるある』
駄馬。
その一言で終わるのが、どうしても嫌だった。
勝てなかったんじゃない。
勝てる場所を、誰も教えてやらなかっただけじゃないのか。
だったら。
「俺が、見つけてやればいい」
その日から、俺――三上透は地方馬主になるために動き始めた。
大金持ちになったわけじゃない。
中央の馬主になれるほどの資産もない。
競馬データ分析の副業で、どうにか一頭なら持てるだけの金を作っただけだ。
血統表。
調教時計。
ラップ。
馬場傾向。
負けたレースの最後の一完歩。
勝った馬より、負けた馬ばかり見てきた。
そして今日。
俺は初めて、セリ会場に立っていた。
「続きまして、上場番号七十二番。父ミナトブレイヴ、母ツキノシズクの牝馬です」
係員に引かれて出てきたのは、小柄な鹿毛の牝馬だった。
会場の反応は薄い。
「細いな」
「トモが甘い」
「母系も地味だし、時間かかるだろ」
「初心者が手を出したら勉強代だな」
俺も最初は、同じように見ていた。
馬体はまだ緩い。
歩様も少し硬い。
派手なスピードがありそうにも見えない。
だけど、その牝馬が一歩、砂を踏んだ瞬間。
視界が、揺れた。
雨の匂い。
大井のナイター。
濡れたダート。
馬群の外を、泥を蹴って伸びてくる鹿毛の馬体。
最後の直線。
外からじわじわと脚を伸ばし、前を捕らえる影。
頭の奥に、文字が浮かんだ。
《相馬眼 Lv.1》
《適性:地方ダート・中距離》
《条件:右回り/稍重〜重/外差し》
《注意:砂を被る競馬では能力低下》
《開花:三歳秋以降》
息が止まった。
なんだ、今のは。
目の前の牝馬は、何も知らない顔で鼻を鳴らしている。
周囲の馬主たちは、退屈そうに次の馬の資料を見ている。
誰も気づいていない。
この馬が、どこで輝くのかを。
「三十万円から。三十万円、ございませんか」
セリ人の声が響く。
誰も手を挙げない。
「二十万円からでも結構です」
小さな笑いが起きた。
「いや、いらんだろ」
「維持費の方が高くつくぞ」
「買ったら最後、預け先探しから地獄だな」
分かっている。
馬を買うのは、馬券を買うのとは違う。
毎月の預託料。治療費。調教費。
負けた時の責任。
夢だけで持てるものじゃない。
それでも、俺はカザマノリュウセイの最後の直線を思い出していた。
誰にも勝てる場所を教えてもらえず、静かに消えていった馬。
目の前のこの牝馬も、同じになるのか。
短距離で忙しいと言われ。
砂を被って嫌がり。
身体ができる前に見限られ。
最後には、駄馬の一言で終わるのか。
嫌だ。
俺は、手を挙げた。
「買います」
会場が、一瞬だけ静かになった。
セリ人が俺を見る。
「二十万円、いただきました」
次の瞬間、周囲から笑い声が漏れた。
「マジか」
「あれ買うのかよ」
「馬主一年目って感じだな」
「で、預ける厩舎あるの?」
胸の奥が冷えた。
そうだ。
馬は買って終わりじゃない。
この馬を信じてくれる調教師を探さなきゃいけない。
この馬が勝てる条件を選ばなきゃいけない。
この馬が本当に走れる場所まで、連れていかなきゃいけない。
鹿毛の牝馬が、こちらを見た気がした。
まだ名前もない。
誰にも期待されていない。
値段もつかないような安馬。
けれど俺には、見えてしまった。
泥の中で、月みたいに光る姿が。
「大丈夫だ」
誰に言ったのか、自分でも分からなかった。
「お前の勝てる場所は、俺が見つける」
笑い声はまだ続いている。
その笑い声が、俺の馬主人生で最初に浴びた“歓声”だった。
読んでいただきありがとうございます。
新作競馬オーナー物、ここから始まります。
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