第59話 それでいい
ハルが帰ってきた。
馬運車の重いドアが開く。
暗がりから最初に出てきたのは、見慣れた尻尾だった。
降りるのを嫌がっているわけじゃない。
ただ、自分のペースを絶対に崩さないだけだ。
そういう馬だ、こいつは。
地面に四本足がついた。
ハルはゆっくりと首を巡らせ、厩舎を一度見る。
それから俺を見た。
……そして、すぐ顔を背けた。
(……変わってないな)
「太めはないわね」
黒川先生が馬体を見ながら言った。
手綱を持ったスタッフの横に立ち、鋭い視線を滑らせる。
首から背中、そしてトモへ。鋭い視線がハルの状態を測っていく。
「歩かせて」
スタッフがハルを引く。
先生が後ろから歩様を見る。俺はその隣に並んだ。
歩き方に硬さはない。
放牧前より、背中の動きが柔らかい気がした。
気のせいかもしれない。だが、素人目にも「良い」のは分かる。
「悪くない」
先生がぽつりと言った。
それだけだった。
ーーーーーーーーーーーーー
一週間。
俺は毎日、厩舎に通った。
調教を見た。
黒川先生が追い切りをかけた日、ハルは文句一つ言わずに走った。
首の使い方がピタリと安定している。
砂を被らない外を通るコース取り。最後まで脚は上がり切っていた。
追い切り後、先生はストップウォッチのタイムを確認し、手帳に何かを書き込んだ。
俺には見せなかった。
「先生」
「まだよ」
それだけ言って、先生は厩舎に戻っていく。
俺も、それ以上は何も言わなかった。
ーーーーーーーーーーーーー
一週間後の朝。
スマホの連絡アプリが鳴った。
『今日、来られますか』
黒川先生からだった。
午後に厩舎へ向かうと、先生は事務所で書類を睨んでいた。俺が入ると顔を上げる。
「出ましょう」
「東京湾大賞、ですね」
「ええ。状態は悪くないわ。距離も条件も、今のハルなら問題ない」
「混合重賞ですが」
「だから出る意味があるんでしょう」
俺は少し黙った。
分かっている。ここで戦わなければならない理由は。
「勝ちに行くわよ」
先生の声が少しだけ熱を帯びた。
「ただし、相手は強い。それは分かった上で」
「……分かっています」
「浅倉君にも話します。あの子なら大丈夫」
先生が書類に視線を戻した。これ以上、語ることはないという間合いだ。
「ありがとうございます」
「勝ってから言いなさい」
ーーーーーーーーーーーーー
厩舎を出た。
駐車場でスマホを取り出し、鳳条さんに電話をかける。
二コールで繋がった。
「三上さん」
「お疲れ様です。……東京湾大賞、出ることになりました」
間があった。
一秒か、二秒か。
「分かりました」
冷徹なほどに落ち着いた声。
「グランシャリオの状態はどうですか」
「問題ありません。完璧です」
「そうですか」
「三上さん」
「はい」
「楽しみにしています」
プツ、と電話が切れた。
「楽しみ」なんて言葉が、あの鳳条さんの口から出るなんて。
それだけ、グランシャリオの仕上がりに自信があり、このレースに懸けているということだ。
俺は車に乗らず、そのまま引き返して厩舎に戻った。
ーーーーーーーーーーーーー
ハルの馬房の前。
あいつは一心不乱に干し草を食べていた。
俺が来たのに気づいて、耳だけがピクリと動いた。
顔は背けたままだ。
「出るぞ」
ハルは答えない。干し草をもう一口食べた。
混合重賞に出る。
相手は化け物揃い。勝てるかどうかは分からない。
黒川先生も保証はしていないし、浅倉君だって同じ気持ちだろう。
でも、ハルは本気で走る。
それだけは分かっている。
最初に見た時から、ずっとそうだ。
この馬は、求められたらその通りに応えてしまう。
それがこの馬の最大の武器であり――俺が、この馬を好きな理由だ。
「頼む」
ハルが耳を動かした。
顔は、背けたままだった。
それでいい。




