第58話 馬に聞きましょう
黒川厩舎に着いたのは昼過ぎだった。
厩舎の前で黒川先生が馬の脚を触っていた。別の馬主の馬だ。俺が来たのに気づいて、作業を続けながら顎で事務所を指した。
待っていろということだ。
事務所に入って椅子に座った。競馬新聞が積んである。黒川厩舎の名前が出ている紙面が上になっていた。重賞勝利後の取材記事だろう。読まなかった。
十分ほどして黒川先生が入ってきた。手を洗いながら「何の用」と言った。
「ハルのことで」
「聞くわ」
向かいに座った。
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「東京湾大賞に出そうかと思っています」
黒川先生は表情を変えなかった。
「誰が言い出したの」
「鳳条さんから連絡がありました。グランシャリオの次走が東京湾大賞だと」
「それで?」
「出てもいいかと思いました」
黒川先生がしばらく俺を見た。値踏みするような目だ。最初に会った日からずっとこの目をしている。
「混合よ」
「分かっています」
「条件戦の牡馬と、重賞に出てくる牡馬は違う」
「それも分かっています」
「本当に?」
俺は答えなかった。
黒川先生が続けた。
「条件戦でグランシャリオに負けたでしょう。あれは平場よ。重賞に出てくる牡馬はあの馬より強い。斤量差があっても、そう簡単じゃない」
「ハルは重賞を勝っています」
「牝馬限定をね」
言葉が短かった。それだけで十分だった。
俺は黙った。反論はしなかった。間違ったことを言われていないからだ。
ーーーーーー
「鳳条さんのことは関係ない」
黒川先生が先に言った。
「え」
「あの人が出るから出るわけじゃないでしょう、という話よ。三上さんが出たいなら出たい理由を言いなさい」
正面から来た。
俺は少し考えた。
「ハルが重賞を勝ったのは牝馬限定でした。次も同じ路線に行くのが普通だと思います。でも」
「でも」
「同じ場所を走り続けるだけなら、俺がオーナーじゃなくてもいい」
黒川先生が少し黙った。
「馬主らしくないことを言うわね」
「よく言われます」
「褒めてません」
「分かっています」
黒川先生が腕を組んだ。窓の外を一度見て、また俺に戻した。
「ハルの帰厩はまだ先よ。戻ってきてから状態を見ないと何も言えない」
「それはそうです」
「帰厩後に一週間、動きを見る。それから判断する。今日決められることは何もない」
「分かりました」
「ただ」
黒川先生が続けた。
「帰厩の時期を少し早めることはできる。外厩と話してみる」
それだけ言った。
それ以上は言わなかった。
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事務所を出ると、空が曇っていた。朝からずっと曇ったままだ。
今日は朝から何も決まっていない。種付けもやめた。次走もまだ決まっていない。
それでも帰りの足が朝より軽かった。
理由は分かっている。黒川先生が「帰厩を早めることはできる」と言ったからだ。あの人が動くと言ったなら、動く。それだけのことだ。
車に乗って、シートベルトを締めた。
鳳条さんに折り返しの連絡を入れようかと思った。やめた。今日は何も決まっていない。決まってから連絡すればいい。
発進する前に、今日一日を振り返った。
朝、カケラの前に立った。耳だけが動いた。椎名さんに電話した。「来年もいます」と言われた。鳳条さんから電話が来た。黒川先生と向き合った。
全部、止まった話だ。
でも止まったまま終わった話は一つもない。
エンジンをかけた。
ハルが戻ってくる。それから先は、馬が決める。
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三日後、黒川先生から連絡アプリにメッセージが来た。
「帰厩、来週に早めます。外厩と話がついた」
それだけだった。
俺は「ありがとうございます」と返した。
既読がついた。返信はなかった。




