第57話 右前の朝
森下さんから朝六時に連絡が来た。「獣医さんが来ています。右前、診てもらっています」それだけだった。
俺は車を走らせながら、昨日椎名さんに送ったメッセージのことを考えていた。「明日の午前中に伺います」と書いた。椎名さんは「お待ちしています」と返してくれた。
その返信を読んだ夜は、来年じゃなくて今年だという気持ちが本当にあった。
今は少し違う。
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森下牧場に着くと、森下さんが厩舎の前に立っていた。エプロンのまま腕を組んでいる。
「おはようございます」
「おはよう。中にいます」
それだけ言って先に歩いた。
厩舎に入ると、四十代くらいの男が屈んでミズノカケラの右前脚を触っていた。白衣ではなく作業着だ。カケラは逃げもせず、ただじっとしていた。
俺が入ってきたのに気づいて獣医が顔を上げた。
「オーナーさんですか」
「はい」
「田所です。いつも森下さんのとこの馬を診ています」
立ち上がって右手を出してきた。握手した。
「どうでしょうか」
田所さんは一度ミズノカケラに視線を戻した。
「炎症はないです。歩かせてみましたが、跛行というほどでもない。ただ」
「ただ」
「右前の球節まわりに張りがある。昨日今日のものじゃないと思います」
俺は黙って聞いた。
「発情期でもあるので、こういう時期は馬体に余計な負荷をかけない方がいい。種付けの移動自体は大した距離でもないですが、今日やるかと聞かれたら、俺は勧めません」
田所さんはそれ以上は言わなかった。
決めるのは俺だという間合いだった。
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カケラの顔を見た。
寄ってこない。逃げもしない。耳だけがこちらを向いている。
「やめます」
田所さんが小さく頷いた。
「来年に向けて、この時期から体を整えていくのが一番いいと思います。今年は基礎を作る年と割り切れれば」
「分かりました。ありがとうございます」
田所さんが荷物をまとめ始めた。森下さんが外まで見送りに出た。
俺はしばらくカケラの前に立っていた。
何かを期待していたわけじゃない。ただ、来た以上は見ていこうと思った。
カケラは俺の方を向かない。干し草を一口食べて、また止まった。
悪い馬じゃない。
それは最初から分かっていた。
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椎名さんに電話した。
三コールで出た。
「あ、三上さん」
「すみません、今日は行けなくなりました」
「あー」と椎名さんが言った。間があった。「馬の状態ですか」
「右前に張りがあると言われて。獣医に勧めないと言われました」
「そうですか。馬の状態優先ですから、また来年声かけてください。ナイトグラベルは来年もいます」
「ありがとうございます」
「三上さん」
「はい」
「来年、カケラさんの状態が整ったら早めに連絡ください。人気馬じゃないですが、枠はあまり多くないので」
それだけ言って電話が切れた。
俺は車に戻った。
ナイトグラベルは来年もいる。当たり前のことだが、椎名さんに言われると少し違う重さがあった。
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帰り道の途中で、電話が鳴った。
鳳条さんだった。
「三上さん、今よろしいですか」
「運転中ですが、大丈夫です」
「失礼しました。手短に」
鳳条さんは最初から本題に入る人間だ。挨拶を長くしない。
「ロードグランシャリオの次走が決まりました。東京湾大賞です」
大井ダートの混合重賞。距離は一八〇〇。
「ご連絡の理由は」
「お知らせしておこうと思いまして」
「それだけですか」
間があった。鳳条が間を置くのは珍しい。
「三上さん、条件戦でグランシャリオはハルサメノツキに勝っています」
「そうですね」
「ですが重賞を獲ったのはあの馬だ。私はそれが引っかかっています」
「引っかかる、というのは」
「同じ舞台で、決着をつけたい。それだけです」
勝った側が言うセリフだと思った。だからこそ鳳条らしかった。
「ハルサメノツキの次走はいつ頃を考えていますか」
「まだ決めていません」
「そうですか」
また間があった。
「東京湾大賞、もしよければ見にきてください。ご連絡はそれだけです」
「分かりました」
電話が切れた。
ハンドルを握り直した。
ハルが放牧に出てから、ちゃんと考えていなかった。次はどこで、どんな条件で走らせるか。黒川先生とも一度しっかり話していない。
帰りに寄ろうと思った。
厩舎に向かう前に、俺は今日の朝を振り返った。
カケラの耳だけが動いた場面。田所さんが「俺は勧めません」と言った間合い。椎名さんの「来年もいます」という声。
やめる判断は正しかったと思っている。
思っているが、何か置いてきたものがある気がした。それが何かはまだ分からない。
信号が赤になった。
止まった車の中で、俺は黒川先生の番号を押した。




