第56話 安いからじゃない
『まだ決めない』
そう打ったくせに、俺は一時間もしないうちに森下牧場の入口でブレーキを踏んでいた。
人間の決意なんて馬場状態より信用できない。良馬場ですと言い張っていた内側が、気づいたらぬかるんでいる。俺の場合、そのぬかるみはだいたい財布のあたりに発生する。治療法はまだない。たぶん国も助けてくれない。
車を降りると、六月の湿った空気が肌に貼りついた。牧草の匂いと土の匂いが混じっている。さっきまでナイトグラベルのいた小さなスタリオンの匂いが、まだ服に残っている気がした。
森下さんは厩舎の前にいた。俺を見るなり、驚きもせずに少しだけ笑う。
「戻ってくると思っていました」
「電話の声だけでですか」
「はい。あれは戻る人の声でした」
「人間の分類が雑じゃないですか」
「馬より分かりやすい時があります」
やめてほしい。馬より分かりやすい馬主、普通に弱そうだ。
俺は頭をかいた。否定したいが、否定しきれない。実際こうして戻ってきている。俺の言い訳は車内に置いてきた。たぶんシートベルトを締めたまま死んでいる。
「ミズノカケラ、見られますか」
「お願いします。……見るだけです」
「その言い方は、あまり信用できません」
「俺もです」
言ってから、自分で嫌になった。
厩舎の中は外より少し涼しかった。ミズノカケラは馬房の奥で首を上げ、こちらを見た。芦毛の体はまだ細い。でも最初に見た時より、背中に張りが戻っている。飼い葉桶には少し食べ残しがあったが、以前のように嫌々残した感じではない。食べて、少し飽きた。そんな顔だ。人間なら「もう無理、米だけ残す」と言って茶碗を置くタイプかもしれない。
森下さんが馬房の扉を開ける。
「飼い葉はかなり戻っています。ただ、完全とは言いません」
「右前は」
「歩き出しに少し硬さがあります。獣医さんにも見てもらいます」
ミズノカケラを少しだけ外へ出してもらう。最初の一歩。やはり右前に、ほんの薄い引っかかりがある。大げさに痛がるわけではない。だが、ないことにはできない。
俺の中で、走り出しかけていた何かが一度つまずいた。
よかった。
つまずいてくれてよかった。
このまま勢いだけで「今年行きましょう」と言っていたら、俺はたぶん馬主ではなく、都合のいい夢を見たいだけの人間になっていた。
「発情の兆候はあります」
森下さんの声は淡々としていた。
「でも、それを合図にしてはいけません。来たからつける、ではないです」
「はい」
「今年つけるなら時間はありません。でも、今年じゃなければ駄目という話でもありません」
「はい」
「来年に回せば、体を作る時間はあります。相手も選び直せます。ただし、その一年を持つ覚悟も必要です」
正論が渋滞している。どれも避けられない。全部こっちを見ている。
ミズノカケラは俺の事情など知らない顔で鼻を鳴らした。少し湿った音。目つきは相変わらず甘くない。お前が勝手に悩んでるんだろ、という顔に見える。たぶん見えるだけだが、刺さる時は刺さる。
俺は少し離れて黒川先生に電話した。
数コールでつながる。
「戻ったのね」
第一声でそれか。
「はい」
「まだ決めないんじゃなかったの」
「まだ決めてません。戻っただけです」
「言葉遊びしてる場合?」
「してないと胃が負けます」
電話口で、黒川先生が小さく息を吐いた。怒っているというより、呆れている。いつもの温度だ。熱すぎず冷たすぎず、苦い。
「理由を言って」
「ナイトグラベルのですか」
「他に何があるの」
「安い。近い。消えなかった」
「やめなさい」
即答だった。
分かっていたのに、言われると普通に刺さる。
「ですよね」
「安いは助かる理由。近いは輸送理由。消えなかったは、あなたの未練。配合理由としては弱い」
「はい」
「はいじゃなくて」
「今、変なこと言うと追加で刺されそうなので」
「もう刺してるわよ」
「ですよね」
俺は馬房の方を見た。ミズノカケラは森下さんに引かれてゆっくり歩いている。首を高くするでもなく、暴れるでもなく、ただ周囲を気にしている。耳が忙しい。敏感な馬だ。強い馬の敏感さではなく、自分を守るために周りを見てしまう敏感さに見える。
「ミズノカケラは、派手なスピードを足す前に、体と気持ちが持つ血が要ると思いました」
黒川先生は黙った。
「食いが細い。環境の変化に強くない。右前もまだ完全じゃない。そういう馬に、ただ高そうな名前をつけても、たぶん走る前にこっちが潰します」
「続けて」
「ナイトグラベルはすごい馬じゃなかったです。大物感もない。たぶん売る血統としては弱い。でも、崩れにくい。自分から競馬をやめにくい。地方の砂で、何度も使っていくなら意味があるかもしれない」
言いながら、俺は自分の声が少し熱を持つのを感じた。
危ない。
熱は判断を曇らせる。だが、熱がまったくない判断も、たぶん馬には失礼だ。
「産まれた仔が売れなかったら?」
黒川先生が静かに聞いた。
来ると思っていた。
でも、実際に言われると腹の底が冷える。
「俺が持つ前提で考えます」
「簡単に言わない」
「簡単じゃないです」
「一頭持つって、買った時の値段だけじゃ終わらない。預託料も、育成も、故障も、勝てない時間もついてくる。繁殖はレースより待つ。待って、駄目なこともある」
「はい」
「はいばっかり」
「怖いので」
「怖いなら正常よ」
少しだけ、声が柔らかくなった。
「怖くない馬主の方が危ないわ」
俺は何も言えなかった。
怖い。
正直、かなり怖い。馬を買う時も怖かった。レースに出す時も怖かった。勝った後に休ませる時も怖かった。でも、まだ生まれていない馬に金と時間と未来を置く怖さは、別の種類だ。
馬券で言えば、出走表が出る前に全財産で単勝を買うようなものだ。いや全然違う。馬券は外れたら自分が沈むだけで済む。こっちは馬がいる。生き物がいる。
「先生」
「何」
「今年つける方向で進めたいです。ただし、獣医さんの確認で少しでも危ないならやめます。右前が悪いならやめます。輸送で負担が大きいならやめます。発情が合わないなら来年にします」
自分で言いながら、やっと腹の奥に何かが落ちた。
突っ込むための決断じゃない。
止まる条件を決めた上で、進む決断だ。
「その条件を森下さんにも言いなさい」
「はい」
「ミズノカケラにも」
「馬にですか」
「馬主なんでしょ」
それだけ言って、黒川先生は電話を切った。
雑だ。
でも逃げ道としては、たぶん正しい。人間相手にだけ格好つけても意味がない。馬の前で言えない言葉は、だいたい盛っている。
俺は森下さんのところへ戻った。
「黒川先生は」
「刺してから背中を押しました」
「それは信頼ですね」
「みんな信頼って言葉で俺を刺してません?」
「便利ですから」
便利にしないでほしい。
俺はノートを開いた。ナイトグラベルの名前の下に、さっきより丁寧に書く。
安いからではない。
近いからだけではない。
売るためでもない。
自分で持つ前提。
止める条件を先に決める。
字が少し乱れた。
俺の覚悟は、まだ達筆にはなれないらしい。
「森下さん」
「はい」
「今年、つける方向で進めたいです。相手はナイトグラベルで。ただし、獣医さんの確認で不安があるならやめます。右前が悪いならやめます。輸送が負担になるなら来年にします」
森下さんはすぐに答えなかった。
馬の世界の沈黙は、時々こちらの喉を締めてくる。
「分かりました」
短い返事だった。
「先方に確認します。ただ、最終判断は獣医さんを入れてからです」
「はい」
「三上さん」
「はい」
「急いでいることと、焦っていることは違います」
「……はい」
「今日は、急いでいます。でも焦りすぎてはいないと思います」
その言葉に、少しだけ救われた。
俺はミズノカケラの前に立つ。芦毛の牝馬は口元に飼い葉を少しつけていた。名牝の予感とか、母になる神秘とか、そういう綺麗な絵ではない。普通に口が汚い。こういうところがいい。馬は人間の感動シーンに合わせて、顔を作ってくれない。
「ミズノカケラ」
呼ぶと、耳がこちらを向いた。
「今年、つける方向で進める。相手はナイトグラベル」
馬に種牡馬名を言ってどうする。理解していたら逆に怖い。馬房の中で血統表を読み始めたら俺が逃げる。
それでも言った。
「安いからじゃない。近いからだけでもない。お前に、行って帰ってこられる血が必要だと思ったからだ」
ミズノカケラは黙っている。
「でも無理はしない。右前が駄目ならやめる。体が戻らないならやめる。今年じゃなくてもいい。俺は急ぎたい。でも、お前まで急がせる気はない」
言い終えると、胸の奥が少しだけ軽くなった。
格好よくはない。
安いのは助かる。近いのも助かる。財布はずっと悲鳴を上げている。俺の通帳はそろそろ労災認定されてもいい。
でも、それだけではない。
それだけではないと言うために、俺はまたここへ戻ってきた。
ミズノカケラが一歩近づき、鼻先を伸ばした。
触らせてくれるのかと思ったら、俺の袖の匂いを嗅いで、すぐに顔を背ける。
「そこは触らせる流れじゃないのか」
森下さんが後ろで笑った。
「逃げませんでした」
「判定が渋い」
「繁殖牝馬は渋いくらいでいいです」
なるほど。ありがたいような、そうでもないような。
森下さんのスマホが鳴った。
彼女は短く応じ、何度か確認してからこちらを見る。
「先方、明日の朝なら受け入れ可能だそうです。もちろん獣医さんの確認が問題なければ、ですが」
明日の朝。
決めたはずなのに、胃が縮んだ。
人間は勝手だ。決まらない間は早く決まれと思う。決まった瞬間、誰か一度止めてくれと思う。俺の中の小さい臆病者が、今すぐ会議室の机を叩いている。議題は撤退。わりと声がでかい。
俺はノートを見た。
『まだ決めない』
さっき路肩で打った文字が、スマホの中にまだ残っている。
その下に、俺は新しく打ち込んだ。
『今年、行く』
ミズノカケラは何も知らない顔で飼い葉桶に戻っている。
明日の朝、この馬は繁殖牝馬としてナイトグラベルのいる場所へ向かうかもしれない。
まだ生まれてもいない馬に、俺は初めて予定を書き込んだ。
安いからじゃない。
そう言い切るには、手の震えが少しだけ邪魔だった。




