第55話 見ても消えない
六月三十日の朝、俺はナイトグラベルに会いに行くため車を出した。
選びに行くわけじゃない。消せるかどうかを見に行く。それを昨日から何度も自分に言い聞かせている。たぶん言い聞かせすぎている時点で少し危ない。見るだけと言う人間ほど、だいたい何かを持ち帰る。競馬場でもセリでも、それで何度か痛い目を見てきた。
痛い目を見てきたのに治らない。学習能力がないのか、馬が悪いのか。いや馬は悪くない。悪いのは俺の財布と意思だ。
森下牧場から車で一時間半。近いと言えば近い。だがその一時間半を、ミズノカケラが馬運車で過ごすことを考えると、ただの距離ではなくなる。揺れ、匂い、知らない場所。人間の一時間半と馬の一時間半を同じ顔で語るのは、たぶん雑すぎる。
小規模スタリオンは、思ったより小さかった。
大きな看板もない。入口の砂利は少し湿っていて、タイヤが低く鳴る。洗い場から水の音がして、どこかで馬が鼻を鳴らした。派手ではない。でも荒れてはいない。古い厩舎に手が入っている感じがある。妙に綺麗すぎる場所より、俺は少し安心した。俺の財布が安心しただけかもしれないが。
「三上さんですか」
声をかけてきたのは、作業着姿の男だった。年は五十前後だろうか。日焼けした顔で、笑っているのか困っているのか少し分かりにくい。
「はい。三上透です」
「椎名です。ナイトグラベルの担当をしています」
「今日はありがとうございます」
「いえ。こんな時期に見に来る人も珍しいので」
そこを言うのか。
俺の顔に出たらしい。椎名さんは軽く肩をすくめた。
「六月末ですからね。普通はもうだいたい決まってます」
「ですよね」
「だからまあ、うちとしてはありがたいです。人気がある馬じゃないので」
「そこも言うんですね」
「隠しても資料を見れば分かりますから」
いきなり信用しそうになった。危ない。営業がうまい人間より、欠点を先に置く人間の方が信用したくなる。これも罠かもしれない。罠だったとしても、俺はこういう罠に弱い。
椎名さんに案内されて厩舎の横へ回る。蹄の音が聞こえた。ゆっくり近づいてくる。俺は少しだけ背筋を伸ばした。別に相手は種牡馬だ。俺が背筋を伸ばしたところで何も変わらない。それでも伸びるものは伸びる。
ナイトグラベルが出てきた。
そして俺は、かなり困った。
強そうではない。いや弱そうでもない。すごい馬だ、と胸を殴ってくるものはない。写真で見た通り黒鹿毛の馬体はまとまっている。大きすぎず小さすぎず、筋肉も派手ではない。首をぐいっと見せつけるわけでも、目で圧をかけてくるわけでもない。
普通だった。
困るくらい普通だった。
来る前の俺は、たぶん少し期待していた。消せるかどうかを見るだけと言いながら、消せない理由が向こうから歩いてくるのをどこかで待っていた。結果、歩いてきたのは普通の馬だった。失礼な話だ。馬に謝れ、俺。
「どうですか」
「……普通ですね」
「よく言われます」
椎名さんは怒らなかった。慣れているのかもしれない。それはそれで少しつらい。
「大物感はないです。産駒も大物は出ていません。中央で派手に走るタイプでもない。売る血統としては弱いです」
「全部言いますね」
「あとで言うより先に言った方が早いので。地方で長く使うなら悪くないですよ。丈夫に出る馬はいます。砂を嫌がらないのもいます。ただ、切れ味でどうこうする血じゃないです」
「なるほど」
「なるほどって顔じゃないですね」
「ちょっとがっかりしてます」
「正直ですね」
自分で言ってから、少し恥ずかしくなった。だが嘘をついても仕方ない。俺はたしかにがっかりしていた。ナイトグラベルが悪いわけではない。勝手に何かを期待した俺が悪い。
ナイトグラベルは俺たちの会話など知らない顔で、湿った砂の上に立っていた。引き手のスタッフが少し位置を変える。馬が一歩横へ動く。その時、俺は目を細めた。
派手な動きではない。本当に一歩だけだ。けれど蹄を置いてから体が戻るまでが早い。前へ出すぎない。後ろへ逃げない。ぐらついたように見えて、次の瞬間にはもう自分の場所に戻っている。
あれ。
俺はもう一度見る。
スタッフが軽く歩かせる。湿った砂に蹄跡が残る。ナイトグラベルは首を高くも低くもしない。脚さばきは目立たない。速そうでもない。だが、崩れない。動いた後の戻り方が妙に静かだった。
「この馬、立ち直りが早いですね」
「お。そこ見ますか」
「たまたまかもしれません」
「たまたまの時もあります。でも、この馬はだいたいこんな感じです。派手に動かない代わりに、変に崩れない」
「崩れない」
「ええ。走ってた時もそうでした。勝ち切る脚は足りない。でも砂を被っても崩れない。馬場が悪くても崩れない。相手が強いと勝てないけど、自分から競馬をやめることは少なかった」
勝ち切る脚は足りない。
普通なら弱点の言葉だ。実際、弱点なのだろう。でも俺の耳には、その前後の方が残った。
崩れない。
自分からやめない。
ミズノカケラの写真が頭に浮かぶ。食いが細く、環境に敏感で、歩き出しに硬さが残る芦毛の牝馬。あの馬に派手なスピードを足すことばかり考えていたら、たぶん俺はまた見たいものだけを見ている。
「産駒もそんな感じですか」
「全部じゃないですよ。血はそんなに都合よく出ません」
「ですよね」
「ただ、地方で何度も使っている馬はいます。見栄えはしないです。馬主さんがパドックでうっとりするタイプでもない。だけど休み明けから二戦三戦と使っても、思ったより音を上げない馬がいる」
「思ったより」
「ええ。すごい、じゃなくて思ったよりです」
その言い方が良かった。
すごい馬ではない。思ったより。たぶんナイトグラベルは、そういう言葉でしか語れない馬なのだろう。だが俺は、その小ささを笑えなかった。ハルサメノツキも、サビツキノエンジンも、最初は誰かにとって「思ったより」にも届かない馬だった。
ナイトグラベルがこちらを見た。いや見た気がしただけかもしれない。黒い目に何かを読もうとして、俺は自分で少し嫌になった。すぐ物語にしたがる。悪い癖だ。馬はただ立っているだけなのに、人間は勝手に意味をつける。
それでも意味をつけたくなるくらいには、俺はもう消せなくなっていた。
「触りますか」
「いいんですか」
「噛みはしません。たぶん」
「たぶんは怖いですね」
「馬なので」
椎名さんがあまりにも普通に言うので、俺は変に笑ってしまった。
ナイトグラベルの首筋に手を置く。熱い。生き物の熱だ。写真では分からない。資料にも載らない。毛並みはさらさらというより、少し硬い。指先に砂の粉がつく。名馬の神々しさとは違う。仕事をしている馬の体だった。
俺は手を離した。
選ぶ理由はまだない。
でも、消す理由もまだない。
それが一番面倒だった。
見学を終えて車に戻る前、椎名さんが言った。
「無理に勧める気はないです」
「商売として大丈夫ですか」
「大丈夫じゃないから人気がないんでしょうね」
「それ、自分で言います?」
「言いますよ。変に期待して来られるより、合う人に来てもらった方がいいので」
椎名さんはナイトグラベルの方を見た。
「この馬は、派手な夢を見る馬じゃないです。でも、長く持つ夢なら少し手伝えるかもしれません」
「それ営業トークですか」
「今のは少しそうです」
「正直ですね」
「正直だけで食えたら楽なんですけどね」
その苦笑いが妙に人間臭くて、俺はまた少し信用しそうになった。危ない。今日の俺は信用しそうになりすぎている。
帰りの車で黒川先生に電話した。
「どうだった?」
「地味でした」
「でしょうね」
「普通でした」
「でしょうね」
「期待外れでした」
「そこまで言う?」
「でも、消えませんでした」
「一番面倒なやつね」
電話口で先生が小さく息を吐く。
「何が残ったの」
「崩れにくさです」
「へえ」
「派手じゃないんです。強そうでもない。ただ、足を置いたあとに戻るのが早いというか、湿った砂でも体の軸が逃げないというか」
「言葉が増えたわね」
「すみません」
「謝るところじゃないわ。たぶん、そこを見たかったんでしょ」
「自分でもまだ分かりません」
「なら分からないまま持って帰りなさい。分かったふりして決めるよりまし」
黒川先生はそれ以上言わなかった。肯定も否定もしない。俺にとっては一番困るが、一番助かる対応だった。
森下さんにも連絡を入れる。ミズノカケラの様子を聞くと、飼い葉は九割からほぼ戻りつつあるという。右前の硬さはまだ少し。放牧地では昨日より首を下げていたらしい。よかった、と言いかけて俺は飲み込んだ。まだ早い。最近この飲み込みが増えている。胃に悪い。
「ナイトグラベルはどうでしたか」
「地味でした」
「皆さん同じ感想ですね」
「でも、消えませんでした」
「そうですか」
「森下さんは驚かないんですね」
「近いですから」
「そこですか」
「そこもです」
森下さんの声はいつもより少しだけ柔らかかった。
「戻ってきたら、ミズノカケラも見てください。今日の午後から少し変化があります」
「変化?」
「発情の兆候が出ています。まだ確定とは言いません。様子を見ます」
ハンドルを握る手に力が入った。
六月三十日。
今年つけるなら、もう最後の方だ。見ても消えなかった名前があり、ミズノカケラの側にタイミングの気配が来た。都合が良すぎると思った。物語なら、ここで決めろと言ってくる場面だ。
だが現実の馬は、読者サービスで発情するわけではない。
俺は路肩に車を寄せて、一度深く息を吐いた。
「三上さん?」
「すみません。今、ちょっと変な顔をしてます」
「電話なので見えません」
「声で分かる人が多いので先に言いました」
「分かりますよ。焦ってますね」
「はい」
「焦っていいです。でも、それで馬を動かさないでください」
「……はい」
スマホを切ったあと、俺はしばらく車内にいた。エンジンの音だけが小さく響く。窓の外では、六月の湿った風が草を撫でている。
ナイトグラベルはすごくなかった。
でも消えなかった。
ミズノカケラは少し戻ってきた。
そして、今年の残り時間はほとんどない。
俺はノートアプリを開き、親指でゆっくり打った。
『ナイトグラベル 見ても消えない』
『ミズノカケラ 発情兆候』
『まだ決めない』
最後の一行を打つのに一番時間がかかった。
まだ決めない。
そう書いても、体の奥ではもう何かが走り始めている。嫌になる。人間は都合のいい生き物だ。待つと決めたそばから、走る理由を拾いに行く。
それでも俺は、送られてきたミズノカケラの写真を開いた。
芦毛の牝馬は、放牧地の隅で首を少し下げていた。耳はまだ忙しい。でも昨日より、ほんの少しだけ遠くを見ているように見えた。
俺は画面の中の馬に向かって、小さく言った。
「急がない。たぶん」
たぶんをつけた自分が情けない。
でも今の俺には、それが一番嘘の少ない言葉だった。




