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安馬しか買えない弱小馬主の俺、スキル《相馬眼》で“勝てる場所”を見抜く  作者: ペンは休み休みもて(ペンもて)
第七章 買った馬は歩いてくる

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第54話 消せなかった名前

 ナイトグラベルの情報を見直して、最初に思ったことはひとつだった。


 地味だ。


 それ以上にうまい言い方が見つからない。種牡馬紹介ページの写真は悪くない。黒鹿毛の馬体はまとまっているし、首も短すぎない。胸前もそれなりにある。だが、見る者の目を一瞬で奪う派手さはなかった。


 紹介文も控えめだった。


 堅実。丈夫。地方ダート向き。産駒は使いながら良くなる。


 そんな言葉が並んでいる。読んでいて胸が跳ねる文章ではない。中央重賞馬を出したわけでもなく、産駒の勝ち上がり率が特別高いわけでもない。種付け料は安く、種付け頭数も多くない。人気がない理由は調べればすぐに分かった。


「……そりゃ、残るよな」


 俺は椅子の背にもたれた。


 良すぎる馬なら、俺のところまで残らない。派手な実績があれば、もっと早く誰かが目をつける。安い理由があり、地味な理由があり、見過ごされる理由がある。


 それは、ハルサメノツキを初めて見た時と少し似ていた。


 もちろん同じではない。ハルは走る馬だった。ナイトグラベルはすでに走る側ではなく、血を渡す側にいる。それでも画面の奥にある気配は近かった。


 誰も大きく期待していない。だから値段がついていない。だから名前が埋もれている。


 俺はノートを開き、ナイトグラベルの欄に書き足した。


 地方ダート。丈夫さ。馬格。近場。安い。派手さなし。大物感なし。売却価値は弱い。


 最後の行で、ペンが止まる。


 売却価値は弱い。


 かなり現実的で、かなり痛い言葉だった。自分で持って走らせるならともかく、産駒を売って利益を出す配合としては弱い。血統表を見た購買者が飛びつく名前ではない。ミズノカケラの牝系も派手ではない以上、仔の市場評価は期待しすぎない方がいい。


 馬主として考えるなら、そこは無視できない。


 けれど俺は、ノートの端に小さく書いた。


 自分で持つなら?


 そこでまた手が止まった。持つ。まだ生まれてもいない馬を、自分で持つ前提で考える。そんな先の話をするには、今のミズノカケラはまだ飼い葉の戻りを見ている段階だ。それでも、その言葉は妙に消えなかった。


 スマホが震えた。黒川先生からだった。


「はい、三上です」

「ナイトグラベル、見た?」

「見てます」

「地味ね」

「昨日も言われました」

「今日見ても地味」

「二回言わなくても」

「大事なことなので」

「そこは森下さんの持ちネタにしてください」


 電話口で、黒川先生が少し笑った気配がした。


「でも、消すほど悪くもない」

「先生から見ても、そうですか」

「大物を狙う種牡馬じゃないわ。夢を膨らませる名前でもない。血統表で見栄を張るならまず選ばない」

「けっこう言いますね」

「先に言っておかないと、あなた都合のいいところだけ拾うでしょ」

「信用がない」

「あります。だから言ってるの」


 黒川先生の声はいつも通り淡々としている。


「ミズノカケラに足りないものを何で補うか。そこを考えるなら、ナイトグラベルは完全に外れではない。馬格、丈夫さ、地方ダートの実用性。派手さはないけど見る項目はある」

「はい」

「ただし、仔が走る保証はない」

「そこは、どの種牡馬でも同じですよね」

「同じ。でも地味な種牡馬で外した時は、言い訳がしにくい」


 胸の奥を軽く押されたような気がした。


 その通りだった。高い種牡馬で外せば、周りは言う。仕方ない。いい血だった。狙いは分かる。でも地味な種牡馬で外せば、なぜその馬を選んだ、安さに逃げたのか、夢を小さく見すぎたのか、そう言われる。


「三上さん」

「はい」

「安いから残したなら、やめなさい」


 言葉が真っ直ぐ来た。


「近いからだけなら?」

「それも駄目。近いのは大事。でも、それだけで選ぶなら配合じゃなくて移動計画よ」

「じゃあ、何なら残せますか」

「ミズノカケラの弱さを見たうえで、それでもこの馬の何かが必要だと思えるなら」


 俺はノートを見る。


 食いが細い。環境変化に敏感。歩様が硬い。体質面の不安。派手なスピードより、まず丈夫さ。使っていける体。砂で踏ん張れる馬格。そして、無理のない移動。


「夢を膨らませる種牡馬じゃないわ。でも、馬を壊さず夢を見るには、こういう名前も見るべきよ」


 その言葉をノートにそのまま書きそうになって、やめた。書くと少し格好よすぎる。


 代わりに、こう書いた。


 見る理由はある。


 通話を切った後、森下さんにも連絡を入れた。


『ナイトグラベル、もう少し見ています』


 返事はすぐに来た。


『近いです』


 俺はスマホを見て少し笑った。


『そこは昨日も聞きました』


『大事なので二回言いました』


 本当に言った。黒川先生に先に使われたことは黙っておく。


 続けて、森下さんから電話が来た。


「今、少し大丈夫ですか」

「はい」

「ナイトグラベル、血統の派手さはないです。ただ、今のミズノカケラなら、すごい馬より、行って帰ってこられる馬です」


 その言い方はやけに腑に落ちた。すごい馬。行って帰ってこられる馬。同じ種牡馬なのに、見方がまるで違う。


「ミズノカケラの状態はどうですか」

「飼い葉は戻ってきています。今朝は九割で水も飲んでいます。右前は、歩き出しにまだ少し硬さがあります」

「九割」

「はい。でも九割食べたから全部解決ではないです」

「分かってます」

「分かってる声じゃないですね」

「今日みんな声で見抜いてきますね」

「顔が見えない時は声を見ます」


 森下さんの声は穏やかだったが、甘くはなかった。


「会うだけなら意味はあります」

「ナイトグラベルにですか」

「はい。見て消すこともできますから」


 見て消す。


 その言葉で、俺は少し息を止めた。選ぶために見るのではない。消すために見る。それは、今の俺には正しい順番に思えた。


「先方に聞いてみましょうか」

「お願いしてもいいですか」

「はい。ただし、見学できたとしてもその場で決めようとしないでください」

「しません」

「今の返事、少し早いです」

「……しないようにします」

「そのくらいでいいです」


 森下さんは少しだけ笑った。


 昼過ぎ、鳳条からも連絡が来た。昨日の流れで候補をいくつか聞かれ、その中にナイトグラベルの名前を混ぜると、電話の向こうで数秒沈黙が落ちた。


「また、難しい名前を残しましたね」

「笑います?」

「いいえ。売るための配合なら、私は選びません」


 はっきり言った。遠回しにされるより、ずっといい。


「理由は?」

「市場で見栄えがしません。産駒成績も派手ではない。購買者に説明する材料が少ない。ミズノカケラの牝系も強く押せるわけではないなら、商業的には弱い」

「ですよね」

「ええ。弱いです」


 鳳条はそこで言葉を切った。それから、少し声の温度を変える。


「ただし、自分で持って走らせるなら、評価軸は変わります」

「走らせるためなら?」

「見に行くくらいは、してもいいでしょう」


 俺はノートの端に書いた言葉を見た。


 自分で持つなら?


 鳳条はその文字を見たわけではない。だが、同じところを突いてきた。


「鳳条さんなら見に行きますか」

「私なら、たぶん残しません」

「でしょうね」

「でも、あなたなら残すかもしれない」

「それは褒めてます?」

「半分くらいは」

「最近その言い方、流行ってるんですか」

「便利な言葉ですから」


 鳳条は淡々と言った。


「三上さん。地味な血を選ぶなら、地味な理由だけでは足りません」

「はい」

「なぜ地味でも残したのか。そこを説明できないなら、やめた方がいい」


 説明。


 俺はすぐには答えられなかった。近いから。安いから。丈夫そうだから。地方ダート向きだから。それらは理由だ。でも鳳条が言っているのは、たぶんその奥だ。


 なぜ、この馬でなければならないのか。


 そこまでは、まだ届いていない。


 電話を切ったあと、俺はノートにナイトグラベルの欠点を書き出した。


 人気がない。大物が出ていない。売却価値が弱い。血統表の見栄えが弱い。今年つけるなら時間がない。ミズノカケラも万全ではない。


 書けば書くほど、やめる理由が増えていく。普通ならそこで終わりだ。


 けれど、終わらなかった。


 それは選ぶ理由がない、ではない。


 選ぶなら覚悟がいる、という意味だった。


 俺は画面に残ったナイトグラベルの写真を見る。強そうではない。少なくとも、写真一枚で血が騒ぐような馬ではない。ただ、立っている。派手なポーズもなく、首を少し下げて四肢を地面につけている。


 写真で分かることなど限られている。それでも妙に気になった。


 綺麗に見せるためではなく、普通に立っている写真。


 そこが、引っかかった。


 しばらくして、森下さんからメッセージが来た。


『先方、明日の午前なら見学可能だそうです』


 俺は背筋を伸ばした。


 明日。六月三十日。今年つけるなら、もう本当に終盤だ。それでも見に行ける。選ぶためではなく、消せるかどうかを確かめるために。


 黒川先生に報告すると、すぐに電話が来た。


「見てきなさい」

「決めるためにですか」

「違うわ」

「じゃあ、何のために」

「消せるかどうかを、自分の目で見に行くため」


 森下さんと同じ言葉だった。いや、少し違う。森下さんは、見て消すこともできると言った。黒川先生は、消せるかどうかを見ろと言った。似ているようで、重さが違う。


「見て、合わないと思ったら消しなさい」

「はい」

「見て、よく分からなかったら?」

「保留します」

「見て、良さそうに見えたら?」


 俺は少し黙った。そこが一番怖い。良さそうに見えた時、人は都合の悪いものを見なくなる。


「その時は、消せない理由と、まだ決めない理由を両方書きます」


 電話口の向こうで、黒川先生が小さく息を吐いた。


「なら、いいわ」

「いいんですか」

「少しは馬主の顔になってきたんじゃない?」

「顔は生まれつきです」

「そういうところは変わらないわね」


 先生の声に、少しだけ笑いが混じった。


 通話を切ってから、俺はノートを開いた。


 ナイトグラベル。まだ、消さない。


 その下に、新しく書く。


 明日、見る。選ぶためじゃない。消せるかどうかを確かめるため。


 ペンを置く。画面には地味な種牡馬の写真が残っている。ミズノカケラの写真も横に置いたままだ。どちらも派手ではない。世間が大きく期待する名前でもない。


 でも俺の机の上では、その二つの写真だけが、なかなか消えなかった。


 翌朝、俺はナイトグラベルに会いに行くことになった。


 まだ選ぶためじゃない。


 消せるかどうかを、確かめるために。

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