第54話 消せなかった名前
ナイトグラベルの情報を見直して、最初に思ったことはひとつだった。
地味だ。
それ以上にうまい言い方が見つからない。種牡馬紹介ページの写真は悪くない。黒鹿毛の馬体はまとまっているし、首も短すぎない。胸前もそれなりにある。だが、見る者の目を一瞬で奪う派手さはなかった。
紹介文も控えめだった。
堅実。丈夫。地方ダート向き。産駒は使いながら良くなる。
そんな言葉が並んでいる。読んでいて胸が跳ねる文章ではない。中央重賞馬を出したわけでもなく、産駒の勝ち上がり率が特別高いわけでもない。種付け料は安く、種付け頭数も多くない。人気がない理由は調べればすぐに分かった。
「……そりゃ、残るよな」
俺は椅子の背にもたれた。
良すぎる馬なら、俺のところまで残らない。派手な実績があれば、もっと早く誰かが目をつける。安い理由があり、地味な理由があり、見過ごされる理由がある。
それは、ハルサメノツキを初めて見た時と少し似ていた。
もちろん同じではない。ハルは走る馬だった。ナイトグラベルはすでに走る側ではなく、血を渡す側にいる。それでも画面の奥にある気配は近かった。
誰も大きく期待していない。だから値段がついていない。だから名前が埋もれている。
俺はノートを開き、ナイトグラベルの欄に書き足した。
地方ダート。丈夫さ。馬格。近場。安い。派手さなし。大物感なし。売却価値は弱い。
最後の行で、ペンが止まる。
売却価値は弱い。
かなり現実的で、かなり痛い言葉だった。自分で持って走らせるならともかく、産駒を売って利益を出す配合としては弱い。血統表を見た購買者が飛びつく名前ではない。ミズノカケラの牝系も派手ではない以上、仔の市場評価は期待しすぎない方がいい。
馬主として考えるなら、そこは無視できない。
けれど俺は、ノートの端に小さく書いた。
自分で持つなら?
そこでまた手が止まった。持つ。まだ生まれてもいない馬を、自分で持つ前提で考える。そんな先の話をするには、今のミズノカケラはまだ飼い葉の戻りを見ている段階だ。それでも、その言葉は妙に消えなかった。
スマホが震えた。黒川先生からだった。
「はい、三上です」
「ナイトグラベル、見た?」
「見てます」
「地味ね」
「昨日も言われました」
「今日見ても地味」
「二回言わなくても」
「大事なことなので」
「そこは森下さんの持ちネタにしてください」
電話口で、黒川先生が少し笑った気配がした。
「でも、消すほど悪くもない」
「先生から見ても、そうですか」
「大物を狙う種牡馬じゃないわ。夢を膨らませる名前でもない。血統表で見栄を張るならまず選ばない」
「けっこう言いますね」
「先に言っておかないと、あなた都合のいいところだけ拾うでしょ」
「信用がない」
「あります。だから言ってるの」
黒川先生の声はいつも通り淡々としている。
「ミズノカケラに足りないものを何で補うか。そこを考えるなら、ナイトグラベルは完全に外れではない。馬格、丈夫さ、地方ダートの実用性。派手さはないけど見る項目はある」
「はい」
「ただし、仔が走る保証はない」
「そこは、どの種牡馬でも同じですよね」
「同じ。でも地味な種牡馬で外した時は、言い訳がしにくい」
胸の奥を軽く押されたような気がした。
その通りだった。高い種牡馬で外せば、周りは言う。仕方ない。いい血だった。狙いは分かる。でも地味な種牡馬で外せば、なぜその馬を選んだ、安さに逃げたのか、夢を小さく見すぎたのか、そう言われる。
「三上さん」
「はい」
「安いから残したなら、やめなさい」
言葉が真っ直ぐ来た。
「近いからだけなら?」
「それも駄目。近いのは大事。でも、それだけで選ぶなら配合じゃなくて移動計画よ」
「じゃあ、何なら残せますか」
「ミズノカケラの弱さを見たうえで、それでもこの馬の何かが必要だと思えるなら」
俺はノートを見る。
食いが細い。環境変化に敏感。歩様が硬い。体質面の不安。派手なスピードより、まず丈夫さ。使っていける体。砂で踏ん張れる馬格。そして、無理のない移動。
「夢を膨らませる種牡馬じゃないわ。でも、馬を壊さず夢を見るには、こういう名前も見るべきよ」
その言葉をノートにそのまま書きそうになって、やめた。書くと少し格好よすぎる。
代わりに、こう書いた。
見る理由はある。
通話を切った後、森下さんにも連絡を入れた。
『ナイトグラベル、もう少し見ています』
返事はすぐに来た。
『近いです』
俺はスマホを見て少し笑った。
『そこは昨日も聞きました』
『大事なので二回言いました』
本当に言った。黒川先生に先に使われたことは黙っておく。
続けて、森下さんから電話が来た。
「今、少し大丈夫ですか」
「はい」
「ナイトグラベル、血統の派手さはないです。ただ、今のミズノカケラなら、すごい馬より、行って帰ってこられる馬です」
その言い方はやけに腑に落ちた。すごい馬。行って帰ってこられる馬。同じ種牡馬なのに、見方がまるで違う。
「ミズノカケラの状態はどうですか」
「飼い葉は戻ってきています。今朝は九割で水も飲んでいます。右前は、歩き出しにまだ少し硬さがあります」
「九割」
「はい。でも九割食べたから全部解決ではないです」
「分かってます」
「分かってる声じゃないですね」
「今日みんな声で見抜いてきますね」
「顔が見えない時は声を見ます」
森下さんの声は穏やかだったが、甘くはなかった。
「会うだけなら意味はあります」
「ナイトグラベルにですか」
「はい。見て消すこともできますから」
見て消す。
その言葉で、俺は少し息を止めた。選ぶために見るのではない。消すために見る。それは、今の俺には正しい順番に思えた。
「先方に聞いてみましょうか」
「お願いしてもいいですか」
「はい。ただし、見学できたとしてもその場で決めようとしないでください」
「しません」
「今の返事、少し早いです」
「……しないようにします」
「そのくらいでいいです」
森下さんは少しだけ笑った。
昼過ぎ、鳳条からも連絡が来た。昨日の流れで候補をいくつか聞かれ、その中にナイトグラベルの名前を混ぜると、電話の向こうで数秒沈黙が落ちた。
「また、難しい名前を残しましたね」
「笑います?」
「いいえ。売るための配合なら、私は選びません」
はっきり言った。遠回しにされるより、ずっといい。
「理由は?」
「市場で見栄えがしません。産駒成績も派手ではない。購買者に説明する材料が少ない。ミズノカケラの牝系も強く押せるわけではないなら、商業的には弱い」
「ですよね」
「ええ。弱いです」
鳳条はそこで言葉を切った。それから、少し声の温度を変える。
「ただし、自分で持って走らせるなら、評価軸は変わります」
「走らせるためなら?」
「見に行くくらいは、してもいいでしょう」
俺はノートの端に書いた言葉を見た。
自分で持つなら?
鳳条はその文字を見たわけではない。だが、同じところを突いてきた。
「鳳条さんなら見に行きますか」
「私なら、たぶん残しません」
「でしょうね」
「でも、あなたなら残すかもしれない」
「それは褒めてます?」
「半分くらいは」
「最近その言い方、流行ってるんですか」
「便利な言葉ですから」
鳳条は淡々と言った。
「三上さん。地味な血を選ぶなら、地味な理由だけでは足りません」
「はい」
「なぜ地味でも残したのか。そこを説明できないなら、やめた方がいい」
説明。
俺はすぐには答えられなかった。近いから。安いから。丈夫そうだから。地方ダート向きだから。それらは理由だ。でも鳳条が言っているのは、たぶんその奥だ。
なぜ、この馬でなければならないのか。
そこまでは、まだ届いていない。
電話を切ったあと、俺はノートにナイトグラベルの欠点を書き出した。
人気がない。大物が出ていない。売却価値が弱い。血統表の見栄えが弱い。今年つけるなら時間がない。ミズノカケラも万全ではない。
書けば書くほど、やめる理由が増えていく。普通ならそこで終わりだ。
けれど、終わらなかった。
それは選ぶ理由がない、ではない。
選ぶなら覚悟がいる、という意味だった。
俺は画面に残ったナイトグラベルの写真を見る。強そうではない。少なくとも、写真一枚で血が騒ぐような馬ではない。ただ、立っている。派手なポーズもなく、首を少し下げて四肢を地面につけている。
写真で分かることなど限られている。それでも妙に気になった。
綺麗に見せるためではなく、普通に立っている写真。
そこが、引っかかった。
しばらくして、森下さんからメッセージが来た。
『先方、明日の午前なら見学可能だそうです』
俺は背筋を伸ばした。
明日。六月三十日。今年つけるなら、もう本当に終盤だ。それでも見に行ける。選ぶためではなく、消せるかどうかを確かめるために。
黒川先生に報告すると、すぐに電話が来た。
「見てきなさい」
「決めるためにですか」
「違うわ」
「じゃあ、何のために」
「消せるかどうかを、自分の目で見に行くため」
森下さんと同じ言葉だった。いや、少し違う。森下さんは、見て消すこともできると言った。黒川先生は、消せるかどうかを見ろと言った。似ているようで、重さが違う。
「見て、合わないと思ったら消しなさい」
「はい」
「見て、よく分からなかったら?」
「保留します」
「見て、良さそうに見えたら?」
俺は少し黙った。そこが一番怖い。良さそうに見えた時、人は都合の悪いものを見なくなる。
「その時は、消せない理由と、まだ決めない理由を両方書きます」
電話口の向こうで、黒川先生が小さく息を吐いた。
「なら、いいわ」
「いいんですか」
「少しは馬主の顔になってきたんじゃない?」
「顔は生まれつきです」
「そういうところは変わらないわね」
先生の声に、少しだけ笑いが混じった。
通話を切ってから、俺はノートを開いた。
ナイトグラベル。まだ、消さない。
その下に、新しく書く。
明日、見る。選ぶためじゃない。消せるかどうかを確かめるため。
ペンを置く。画面には地味な種牡馬の写真が残っている。ミズノカケラの写真も横に置いたままだ。どちらも派手ではない。世間が大きく期待する名前でもない。
でも俺の机の上では、その二つの写真だけが、なかなか消えなかった。
翌朝、俺はナイトグラベルに会いに行くことになった。
まだ選ぶためじゃない。
消せるかどうかを、確かめるために。




