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安馬しか買えない弱小馬主の俺、スキル《相馬眼》で“勝てる場所”を見抜く  作者: ペンは休み休みもて(ペンもて)
第七章 買った馬は歩いてくる

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第53話 消すために見る

 六月二十八日。


 俺は種牡馬リストを開いた。


 画面に、馬名が並ぶ。


 血統。


 産駒成績。


 種付け料。


 繋養先。


 距離傾向。


 ダート適性。


 昨日までなら、その文字列を見ているだけで胸の奥が少し熱くなったと思う。


 この馬ならどうか。


 この血ならどうか。


 ミズノカケラの仔が、どんな馬になるのか。


 まだ存在しない馬の姿を、勝手に想像できた。


 けれど、今日は違った。


 俺はまず、一番上の候補に赤線を引いた。


「……遠い」


 血統は魅力的だった。


 産駒も走っている。


 ダートの実績もある。


 種付け料は高いが、絶対に無理というほどではない。無理をすれば、どうにかならないこともない。


 でも、遠い。


 ミズノカケラを今の状態で動かすには、遠すぎる。


 次の候補を見る。


 人気種牡馬。


 予約が詰まっている。


 日程の余裕が少ない。


 赤線。


 次。


 種付け料が高い。


 遠い。


 気性が強く出る産駒が多い。


 赤線。


 次。


 血統的には面白い。


 でも、脚元の不安を補うというより、前向きさを強く出しすぎる気がする。


 赤線。


 画面の中で、夢がひとつずつ消えていく。


 惜しくないと言えば嘘になる。


 綺麗な名前もあった。


 派手な成績もあった。


 この血がミズノカケラに入ったら、という想像だけで、指が止まる馬もいた。


 でも、俺は消した。


 高いから無理。


 それだけなら、まだ悔しいで済んだ。


 今の俺には、それ以外の線が増えている。


 遠いから無理。


 日程が詰まるから無理。


 移動の負担が大きいから無理。


 ミズノカケラに合わせられないから無理。


 候補を増やしているはずなのに、実際には消してばかりだった。


 しばらくして、黒川先生に一覧を送った。


 候補馬名。


 種付け料。


 繋養先。


 良い点。


 悪い点。


 除外理由。


 自分で作っておいて、最後の欄だけ妙に長くなっているのが分かった。


 数分後、黒川先生から電話が来た。


「三上さん」


「はい」


「候補より、除外理由の方が長いんだけど」


「駄目ですか」


「いいえ。今回はそっちの方が信用できる」


 予想外の言葉だった。


 俺はマウスから手を離す。


「信用、ですか」


「前なら、合いそうな理由を先に並べたでしょ」


「……否定できません」


「今は、やめる理由を探してる。いい傾向ね」


「夢がないですけど」


「夢だけで馬は受胎しないわ」


「言い方」


「現実よ」


 黒川先生は容赦がない。


 けれど、その容赦のなさに少し救われる。


「一番上の馬、消したのね」


「はい」


「血統だけなら面白いわよ」


「そうですね」


「未練は?」


「あります」


「正直でよろしい」


 先生はそこで少し間を置いた。


「でも、今のミズノカケラを動かしてまで行く馬ではない」


「……はい」


「そこまで言えるなら、消していい」


 消していい。


 その言葉で、胸の奥が少しだけ軽くなった。


 候補を消すことは、諦めることに近いと思っていた。


 でも違う。


 消すことも、馬主の判断なのだ。


「森下さんにも送りなさい。あの人、血統より先に場所を見ると思うけど」


「場所ですか」


「あなたが今、一番嫌がってる現実」


「嫌がってはいません」


「声が嫌がってる」


「電話って不利ですね」


「あなたの嘘が下手なだけ」


 通話を切ったあと、同じ一覧を森下さんにも送った。


 返事は早かった。


『拝見します』


 その十数分後、短いメッセージが返ってきた。


『一番上、遠いですね』


 俺は画面を見て、思わず苦笑した。


 やっぱりそこか。


 続けて送られてくる。


『二番目も遠いです。三番目は日程が詰まりそうです。四番目は近いですが、今の馬の状態で気性を強く出す方向は少し怖いです』


 血統表の華やかさが、森下さんの文面でどんどん地面に引き戻されていく。


 俺は返信した。


『血統だけなら一番上は面白いと思ったんですが』


 すぐに返事が来た。


『面白いです。でも遠いです』


 少し間が空いて、もう一通。


『種付けは、相手の名前だけではなく、そこへ行って帰ってくるところまで含めて考えます』


 俺はその文を、何度も読んだ。


 行って帰ってくるところまで。


 当たり前だ。


 でも、血統表を見ている時、その当たり前は簡単に薄くなる。


 リストの上では、馬名は一行で並んでいる。


 遠い馬も、近い馬も、同じ幅の枠に収まっている。


 けれど現実には、馬運車が走る。


 ミズノカケラが揺られる。


 知らない場所へ行く。


 知らない匂いの中で、知らない相手と向き合う。


 そして、また帰ってくる。


 そこまで含めて、種付け。


 俺は一番夢のある名前を、もう一度見た。


 血統はいい。


 産駒も走っている。


 たぶん、誰に聞いても候補に入れていいと言われる。


 でも、今のミズノカケラには遠い。


 惜しい。


 かなり惜しい。


 それでも俺は、その欄に太い赤線を重ねた。


 惜しいから残すなら、それはもうミズノカケラのためではない。


 画面を見続けていると、スマホが震えた。


 知らない番号ではない。


 鳳条怜央だった。


「三上さん。今、大丈夫ですか」


「はい。どうしました」


「繁殖牝馬を買ったそうですね」


 噂が早い。


 いや、セールで手を上げた時点で、隠せる話ではないのかもしれない。


「よくご存じで」


「セールで誰が手を上げたかは、思ったより見られていますよ」


「怖い世界ですね」


「競馬界は狭いですから」


 鳳条は淡々と言った。


 嫌味ではない。


 ただの事実として言っている。


「ミズノカケラ、でしたか」


「はい」


「面白い買い物だと思います」


「意外ですね。もっと呆れられるかと」


「呆れる理由はあります。でも、面白い理由もあります」


「褒めてます?」


「半分くらいは」


 黒川先生みたいなことを言う。


 俺は少しだけ笑った。


「今、種牡馬を見ていました」


「でしょうね。六月も終わりますから」


「鳳条さんなら、どう見ますか」


 聞いてから、少しだけ後悔した。


 鳳条の世界は、俺よりずっと上にある。


 予算も、人脈も、見てきた血統も違う。


 同じ目線で語れる相手ではない。


 けれど鳳条は、笑わなかった。


「良い種牡馬を選ぶことと、良い時期に種付けすることは別です」


 静かな声だった。


「焦って今年に押し込むくらいなら、一年待つ方が高い買い物になることもあります」


「高い買い物?」


「時間を買う、という意味です。繁殖は、急いだ方が安く済むとは限りません」


 俺はノートに目を落とした。


『急ぐ理由はない』


 その文字が、昨日より濃く見えた。


「三上さん」


「はい」


「あなたは、変な馬を拾うのがうまい」


「褒めてます?」


「これは褒めています」


「今のは本当に褒めてます?」


「疑り深いですね」


「最近、周りに鍛えられているので」


 鳳条は短く笑った。


「なら、その変な馬に、普通の夢を押しつけないことです」


 通話が切れたあと、しばらくスマホを見ていた。


 普通の夢。


 いい種牡馬をつける。


 早く受胎させる。


 来年の春に仔を得る。


 血統表の見栄えをよくする。


 それはきっと、普通の夢だ。


 悪い夢ではない。


 でも、ミズノカケラに合うかどうかは別だ。


 俺はリストに戻った。


 候補は、かなり減っていた。


 高額馬。


 遠方。


 日程難。


 気性不安。


 体質補強に疑問。


 ひとつずつ消していくと、画面の下の方に、地味な名前が残った。


 ナイトグラベル。


 種付け料は安い。


 人気もない。


 産駒成績は、派手ではない。


 重賞馬は出ていない。


 中央で目立つ名前も少ない。


 血統表だけを見れば、胸が熱くなるタイプではなかった。


 ただ、産駒は地方ダートでぽつぽつ走っている。


 勝ち上がり方は地味。


 距離も短すぎない。


 馬格は出る。


 脚元が丈夫というコメントがいくつかある。


 そして、所在地。


 森下牧場から、車で一時間半。


 俺はその欄で、指を止めた。


 近い。


 安い。


 地味。


 派手さはない。


 人気もない。


 夢が大きく膨らむ名前ではない。


 でも、今のミズノカケラにとって、消す理由が少なかった。


 黒川先生に、追加で送る。


『ナイトグラベル。どう思いますか』


 すぐには返ってこない。


 森下さんにも送る。


『この馬、近いですね』


 返事は早かった。


『近いです』


 それだけだった。


 けれど、その一言が妙に重い。


 近い。


 今のミズノカケラには、それが大きい。


 血統表の中で、近さはあまり目立たない。


 けれど馬運車に乗る馬にとっては、距離は数字ではなく時間であり、揺れであり、知らない匂いの長さだ。


 俺はナイトグラベルのページを開いたまま、ミズノカケラの写真を横に並べた。


 芦毛の牝馬。


 まだ少し警戒した耳。


 飼い葉を八割まで戻したが、歩様の硬さは残っている馬。


 その隣に、地味な種牡馬のプロフィールがある。


 合うのか。


 分からない。


 夢があるのか。


 分からない。


 ただ、消せない。


 合う気がする、と言い切るには早い。


 でも、消す理由がまだ見つからない。


 それは、今日の俺にとって十分な引っかかりだった。


 少しして、黒川先生から返信が来た。


『地味ね』


 続けて、もう一通。


『でも、地味だから消す理由にはならない』


 俺はその文を見て、声に出さずに笑った。


 その通りだった。


 高いからいいわけではない。


 有名だから合うわけでもない。


 地味だから駄目なわけでもない。


 安い馬を買ってきた俺が、それを忘れるところだった。


 リストの一番下に、ナイトグラベルの名前を残す。


 赤線は引かない。


 星もつけない。


 ただ、残す。


 その夜、ノートに候補表を書き写した。


 上から順に、消した理由を書いていく。


 遠い。


 日程難。


 高額。


 気性不安。


 体質補強に疑問。


 そして最後に、ナイトグラベル。


 除外理由の欄は、空白のままだった。


 俺はペン先を止める。


 書けない。


 まだ、消す理由がない。


 それは選ぶ理由ではない。


 でも、次に見る理由にはなる。


 六月の終わり。


 今年の残り時間は少ない。


 急ぐ理由はない。


 けれど、考える理由はある。


 俺はノートの最後に、一行だけ書いた。


『ナイトグラベル――まだ、消さない』


 その名前を見て、ようやく少しだけ息を吐いた。


 未来を決めたわけじゃない。


 今年つけると決めたわけでもない。


 ただ、消さなかった。


 ミズノカケラのために、夢を削って。


 削って。


 削って。


 最後に残った、地味な名前。


 俺はその名前を、消せなかった。

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