第52話 六月の終わりに引く線
ノートの一番上に、今日の日付を書いた。
六月二十七日。
数字にしてしまうと、急に現実味が増した。
梅雨の湿気が窓の外に残っている。雨は降っていない。けれど空気の中に水が混じっているようで、紙の端が少しだけ柔らかい。
六月下旬。
競走馬の番組なら、まだ先を考えられる時期だ。
休ませるなら休ませる。
次を使うなら番組を探す。
夏を越して秋を目指す選択もある。
けれど繁殖牝馬にとっての六月下旬は、そう簡単ではない。
今年つけるのか。
それとも、待つのか。
その二択が、思ったより近いところまで来ていた。
昨日のノートには、森下さんから届いた報告が残っている。
『少し食べました。まだ、決めない』
その下に、俺は新しく線を引いた。
飼い葉。
歩様。
体温。
水。
ボロ。
馬房で休めているか。
獣医の確認。
森下さんの判断。
黒川先生の意見。
ひとつずつ書いていく。
書きながら、少しだけ嫌になる。
こんなものを書いている時点で、俺はたぶん、今年つけたいのだ。
ミズノカケラの仔を見たい。
この血を、短いところだけで終わらせたくない。
自分が見つけたと思ったものを、形にしたい。
それは綺麗な言葉にできる。
でも、もっと汚く言えば。
俺は早く答えが欲しい。
スマホが震えた。
黒川先生だった。
「はい、三上です」
「今、何か書いてるでしょ」
「怖いですね」
「声が固い」
「顔は見えてないですよね」
「見えなくても分かる時はあるの」
黒川先生は、いつも通りだった。
俺は少し息を吐いて、ノートから目を上げる。
「六月下旬なんですよね」
「そうね」
「今年つけるなら、もう遅いくらいですか」
「相手にもよるし、ミズノカケラの状態にもよる。でも、余裕がある時期じゃないわ」
「ですよね」
「三上さん」
「はい」
「今年つけたい?」
俺はすぐに答えられなかった。
言えば、欲が形になる。
言わなければ、欲がないふりをできる。
その数秒の沈黙を、先生は待った。
「……つけたいです」
「正直でよろしい」
「言わない方がよかったですか」
「言わない方が危ないわ」
黒川先生の声は、少しだけ硬かった。
「欲があるのは悪くない。馬主なんだから、夢も欲もあって当然よ。でも、欲に馬を合わせたら終わり」
その言葉は、短かった。
短いのに、逃げ場がなかった。
「今年つけたい。いいわ。そう思うのは自然。でも、ミズノカケラの体がそこに追いついていないなら、止める。それだけ」
「それだけ、ですか」
「そう。それだけ。でも、その“それだけ”を守れない人がいるのよ」
俺はノートの上に置いたペンを見た。
黒いインクの先が、紙に小さな点を作っている。
「先生は、今年やめた方がいいと思いますか」
「今の段階では、まだ言わない」
「まだ、ですか」
「まだ。昨日より食べた。体温は安定してる。水も飲んでる。けれど歩様の硬さは残ってる。馬房での落ち着きも完全じゃない。ここで“今年は絶対なし”と決めるほどでもないし、“いける”と言える段階でもない」
「一番困るやつですね」
「現場はだいたい一番困るところから始まるの」
「優しくないですね」
「馬が優先だから」
それ以上、何も言えなかった。
電話を切ったあと、森下さんから共有メモが届いた。
件名は、淡々としていた。
『ミズノカケラ 今後確認したい項目』
開く。
体温の安定。
飼い葉食いの回復。
歩様の硬さの変化。
馬房内で横になれているか。
放牧時の様子。
獣医確認。
発情の状態。
種付けを検討する場合の移動負担。
種牡馬側の日程。
項目は多かった。
多すぎるくらいだった。
けれど、ひとつとして余計には見えない。
最後に、森下さんの短いコメントがあった。
『種付けは、予定表に丸をつければ済む話ではありません。馬の体がそこへ追いついているかを見ます』
俺はその一文を、しばらく見ていた。
予定表に丸をつける。
昨日までの俺は、たぶんそれをしようとしていた。
六月下旬。
今年のチャンスは少ない。
空胎。
遅くなればなるほど、来年生まれる仔も遅くなる。
なら急がなければ。
そう考えるのは、数字の上では間違っていないのかもしれない。
でも、ミズノカケラは数字ではない。
飼い葉を残す。
歩き出しが硬い。
馬房の奥で耳を忙しく動かす。
まだこちらを信用しきっていない。
その馬に、予定表の都合を押しつけるのは違う。
違うのに、俺は完全には諦めきれていない。
その諦めきれなさが、自分で少し怖かった。
午後、森下牧場から写真が送られてきた。
ミズノカケラが、放牧地の柵の内側に立っている。
青草に顔を近づけているが、がつがつ食べているわけではない。鼻先で触って、少しだけ口に入れている。
耳は相変わらず忙しい。
けれど馬房の中で見た時より、首は少し下がっていた。
続けて文面が届く。
『昼、七割ほど。青草は少し。歩様は出始め硬いですが、昨日よりほどけるのは早いです』
七割。
昨日の「少し」より、進んでいる。
俺は思わず、椅子から立ち上がりかけた。
よし。
そう言いそうになって、飲み込む。
七割食べた。
だから今年いける。
違う。
それは、また俺が都合のいい方へ数字を引っ張っているだけだ。
俺は返信欄に打った。
『ありがとうございます。引き続き、急がず見ます』
送信してから、少しだけ苦く笑った。
急がず見ます。
書くのは簡単だ。
そのくせ、胸の中ではまだ急いでいる。
俺はパソコンを開いた。
種牡馬リストのブックマークが目に入る。
開きたい。
開けば、何か進んだ気になれる。
父系。
母父。
距離。
ダート適性。
体質補強。
価格。
空き状況。
そういう項目を見ている間は、俺は馬産をしている気分になれる。
けれど、それは今のミズノカケラを見ることとは違う。
俺はマウスから手を離した。
写真をもう一度見る。
芦毛の牝馬。
青草を少し口に入れている。
その姿を見ながら、俺は目を凝らした。
癖のように、何かを見ようとする。
血の奥。
体の奥。
この馬の先にいるかもしれない、まだ名前もない仔。
見えれば楽だと思った。
これでいい。
この配合でいい。
今年いける。
そういう答えが、どこかに浮かんでくれればいいと思った。
だが、すぐに目を逸らした。
仮に何かが見えたとしても。
それは、今この馬に無理をさせていい理由にはならない。
勝てる場所を見つける力は、馬を急がせるための道具じゃない。
俺はハルサメノツキを休ませた。
サビツキノエンジンの騎手も、番組も、焦って決めなかった。
なら、ミズノカケラにも同じことをしなければならない。
いや。
同じでは足りないのかもしれない。
この馬は、もう走って証明する馬ではない。
証明するのは、ずっと先だ。
もしかすると、証明できないまま終わるかもしれない。
それでも、急がせていい理由にはならない。
夕方。
黒川先生から、短いメッセージが来た。
『森下さんと話した。今日の段階では保留。明日、獣医確認。あなたは条件を書いておきなさい』
条件。
俺はノートを開いた。
すでに書いてある項目を、もう一度見直す。
飼い葉が戻ること。
歩様の硬さが消えること。
体温が安定していること。
馬房で休めていること。
獣医が問題なしと判断すること。
森下さんが進めてよいと言うこと。
黒川先生が反対しないこと。
その下に、しばらく何も書けなかった。
ここまでは、進めるための条件だ。
本当に必要なのは、止めるための条件だった。
ペン先が紙の上で止まる。
止める。
今年はつけない。
その言葉を書くのが、思ったより重い。
ミズノカケラを買った時、俺はこの血を終わらせたくないと思った。
その気持ちは今も変わらない。
けれど、終わらせたくないという気持ちで、今いる馬に無理をさせるなら。
それは、俺が嫌だった人間と何が違うのか。
短いところだけを使われて、合わない条件で終わったかもしれない血。
その血を拾った俺が、今度は自分の都合で急がせる。
そんなことは、したくない。
俺はノートの下の方に、太い線を引いた。
その下に、書く。
『この条件を満たさないなら、今年はつけない』
手が止まった。
書いた文字が、やけに濃く見えた。
今年はつけない。
書いてしまえば、それは敗北のようにも見える。
でも、違う。
これは決めないための言葉ではない。
決めないまま流されないための言葉だ。
焦りで決めない。
夢で決めない。
値段をつけた責任から逃げるために決めない。
ミズノカケラの体が追いつかないなら、今年は待つ。
そう決めた。
スマホが震えた。
森下さんからだった。
『夕方、八割ほど食べました。歩様はまだ少し硬いです。馬房では奥に入っています』
八割。
俺は少しだけ息を吐いた。
胸が軽くなる。
同時に、すぐ重くなる。
八割食べた。
でも、歩様はまだ少し硬い。
なら、まだ決めない。
俺は返信を打った。
『ありがとうございます。明日の獣医確認まで、このまま見ます』
送信する。
そのあとで、ノートに一行足した。
『八割食べた。歩様はまだ。だから、まだ決めない』
窓の外が暗くなっていた。
六月の終わりの空は、夜になってもどこか湿っている。
遠くで車の音がした。
俺はパソコンの前に戻り、種牡馬リストのブックマークを見た。
今度は、逃げるためではなかった。
開く準備は、少しだけできた気がする。
ただし、リストの前にノートを置いた。
ページの一番下には、太い線の下の文字がある。
『この条件を満たさないなら、今年はつけない』
それを見てから、俺はようやく種牡馬リストを開いた。
画面に名前が並ぶ。
血統。
成績。
種付け料。
距離傾向。
どれも、昨日までと同じように見える。
でも、俺の中で見る順番だけは変わっていた。
この種牡馬が合うかどうか。
その前に。
ミズノカケラに、今それを求めていいのか。
六月の終わり。
今年の残り時間は少ない。
だからこそ、俺は急がないための線を引いた。
その夜、黒川先生から電話が来た。
「条件、書いた?」
「書きました」
「読んで」
「今ですか」
「今」
俺はノートを見た。
少し恥ずかしい。
けれど、逃げる話でもない。
「飼い葉が戻ること。歩様の硬さが消えること。体温が安定していること。馬房で休めていること。獣医確認で問題がないこと。森下さんが進めてよいと言うこと。黒川先生が反対しないこと」
「最後、私なの?」
「先生が反対したら、止まります」
「責任重いわね」
「いつも乗せてるので」
「こら」
電話口で、先生が小さく息を吐いた。
「それで?」
俺は、太い線の下を読んだ。
「この条件を満たさないなら、今年はつけない」
数秒、沈黙があった。
その沈黙が少し怖かった。
やがて黒川先生が言った。
「なら、いいわ」
「いいんですか」
「種牡馬リスト、見ても」
俺は画面を見た。
並んだ名前の向こうに、ミズノカケラの馬房が浮かぶ。
「はい」
「ただし、夢を見るためじゃなくて、止まる理由も探すために見なさい」
その言葉で、胸の奥が少し冷えた。
でも、それでいい。
冷えているくらいが、たぶん今はちょうどいい。
「分かりました」
「分かってない顔してるわね」
「電話ですよ」
「声がしてる」
「声って便利ですね」
「あなたの嘘が下手なだけ」
電話を切る前に、先生はもう一つだけ言った。
「三上さん」
「はい」
「今年つけない判断をしたとしても、それは失敗じゃないから」
俺はすぐには返事ができなかった。
言ってほしかったのだと思う。
たぶん。
でも、自分からは求められなかった。
「……はい」
「じゃあ、明日の獣医確認が出たら連絡して」
「分かりました」
通話が切れる。
部屋が静かになった。
俺はノートを閉じなかった。
種牡馬リストも閉じなかった。
その二つを並べて、しばらく見ていた。
未来を見るための画面。
今を止めるための線。
どちらか一つでは、たぶん駄目なのだ。
その両方を見て、ようやく馬主は次の一手を考えられる。
翌朝、森下さんから獣医確認の連絡が入った。
『大きな異常はありません。ただし、右前の硬さは経過観察。急ぐ理由はありません』
最後の一文を見た瞬間、俺はノートを開いた。
太い線の下に、もう一行を書き足す。
『急ぐ理由はない』
ペンを置く。
その文字を見て、俺はようやく理解した。
今年つける理由を探す前に。
急がない理由は、もう目の前にあった。




