第51話 馬房の前でできること
『朝の飼い葉、残しました。歩様、少し硬いです』
森下さんから届いたその一文を見て、俺はしばらく動けなかった。
飼い葉を残した。
歩様が硬い。
どちらも、それだけで大騒ぎする言葉ではない。輸送のあと、新しい環境に入った馬が食いを落とすことはある。歩き出しが硬く見えることだって、ない話ではない。
分かっている。
分かっているのに、スマホを持つ手に力が入った。
俺は返信欄を開きかけて、閉じた。
森下さんに聞きたいことはいくらでもある。
体温は。
水は。
ボロは。
脚元は熱いのか。
獣医は呼ぶのか。
今から行ってもいいのか。
だが、その質問のほとんどは、俺が安心したいだけの言葉だった。
それが分かってしまったから、余計に苦しい。
俺は黒川先生に電話をかけた。
三コール目でつながる。
「先生、ミズノカケラが」
「飼い葉でしょ」
俺の言葉を、黒川先生が先に切った。
「知ってたんですか」
「森下さんから私にも来てる。体温は平熱。水は飲んでる。ボロも出てる。脚元は今のところ明確な熱感なし」
淡々としていた。
淡々としすぎていて、逆に少し腹が立つ。
いや、腹が立ったというより、俺だけが慌てていることを突きつけられて、みっともなくなった。
「……俺、行った方がいいですか」
「行きたいんでしょ」
「はい」
「じゃあ行きなさい」
意外な返事だった。
俺は少し間を置いた。
「いいんですか」
「いいわよ。ただし、馬主としてじゃなくて、邪魔しない見学者として」
「見学者」
「そう。見に行くのはいい。でも、安心しに行くなら邪魔になる」
言葉が喉に引っかかった。
安心しに行く。
まさにそれだった。
「森下さんには私からも言っておく。あなたが変なこと言い出したら止めてって」
「俺、そんな変なこと言いますか」
「今のあなたなら言う」
「即答やめてもらえますか」
「なら落ち着きなさい」
黒川先生の声は冷たいわけではなかった。
けれど、甘くもない。
「三上さん」
「はい」
「大丈夫って言ってほしい?」
俺は答えられなかった。
たぶん、ほしかった。
大丈夫ですよ。
よくあることですよ。
心配しすぎですよ。
そう言ってもらえたら、どれだけ楽だったか分からない。
だが、黒川先生はそれを言わなかった。
「私は言わないわよ。森下さんも言わないと思う」
「……はい」
「まだ分からないから」
分からない。
その言葉が、一番怖かった。
でも、たぶん一番正しい。
俺は通話を切り、すぐに森下さんへ連絡を入れた。
『今から伺っても大丈夫でしょうか。邪魔はしません』
送信してから、自分で少しだけ苦くなる。
邪魔はしません。
まるで子供の言い訳だ。
数分後、森下さんから返事が来た。
『大丈夫です。来るなら、馬房の前で大きな声を出さないでください』
俺は短く返事をして、上着を取った。
森下牧場へ向かう道は、妙に長く感じた。
車の窓の外を、朝の光が流れていく。空は晴れている。昨日なら気持ちがいいと思ったかもしれない。今日はその明るさが、少しだけ腹立たしかった。
競走馬なら、次走をやめれば済むこともある。
無理なら休ませる。
番組を替える。
騎手を待つ。
仕切り直す。
もちろん、それだって簡単ではない。
けれど繁殖牝馬は、走らせないから安全というわけではない。
食べる。
寝る。
歩く。
環境に慣れる。
受胎する。
産む。
育てる。
そのどこか一つが崩れれば、未来は簡単に薄くなる。
俺は一頭の馬を買った。
でも本当は、その馬のこれからの生活ごと買ったのだ。
その重さを、今朝になってようやく胃の底で理解している。
牧場に着くと、森下さんは厩舎の前で待っていた。
長靴に作業着。髪は後ろで雑にまとめられている。顔に焦りはない。
だからといって、安心している顔でもなかった。
「おはようございます」
「おはようございます。すみません、朝から」
「謝ることじゃないです。馬主さんですから」
そう言ってから、森下さんは少しだけ目を細めた。
「でも、馬主さんだからって、何でも馬にさせていいわけじゃないです」
「……はい」
「先に言っておきますね。大丈夫です、とは言いません。まだ分かりませんから」
黒川先生と同じことを言った。
胸の奥が、少し沈む。
「ただ、今すぐ大騒ぎする状態でもありません。体温は平熱。水は飲んでます。ボロも出てます。右前に熱感はありません。歩き出しが少し硬いのと、飼い葉を残してる。それだけです」
「獣医さんは」
「連絡はしています。今すぐ呼ぶ状態かは様子を見て判断します」
「そうですか」
「納得してない顔ですね」
森下さんは、軽く笑った。
俺は何も言えなかった。
納得していないわけではない。
ただ、安心できない。
その違いをうまく説明できなかった。
「見ますか」
「はい」
「じゃあ、静かに」
厩舎の中は、外より少し涼しかった。
藁の匂いと、馬の匂いと、湿った土の匂いが混じっている。
奥の馬房に、ミズノカケラはいた。
芦毛の牝馬は、馬房の奥からこちらを見ていた。
首は上げている。耳は片方がこちら、もう片方が後ろへ向いている。怯えて暴れるような様子はない。ただ、落ち着いているとも言い切れない。
飼い桶には、飼い葉が残っていた。
半分より少し多いかもしれない。
数字で見るより、それはずっと重かった。
「ミズノカケラ」
声が、思ったより小さくなった。
ハルサメノツキには、大丈夫だと言えた。
サビツキノエンジンには、行けと言えた。
けれど今のミズノカケラに、俺は何を言えばいいのか分からなかった。
大丈夫だ。
そんな約束はできない。
食べろ。
そんな命令も違う。
こっちへ来い。
それは、俺が安心したいだけだ。
ミズノカケラは、耳だけを動かした。
近づいてはこない。
逃げもしない。
ただ、こちらを測っている。
この人間は何をするのか。
ここは安全なのか。
自分はどこへ連れてこられたのか。
そんなことを考えているように見えた。
「少し、歩かせて確認した方が」
言いかけた瞬間、森下さんが俺を見た。
強い視線ではなかった。
でも、止まった。
「今歩かせたいのは、馬のためですか。三上さんが見たいからですか」
言葉が出なかった。
馬のため。
そう言いたかった。
だが、喉の奥で引っかかった。
違う。
俺は見たいだけだ。
歩かせて、問題ないと思いたい。
硬さがないことを自分の目で確かめたい。
そのために、今この馬を動かそうとした。
「……俺が見たいだけでした」
そう言うと、森下さんは表情を少しだけ緩めた。
「馬主さんがそれを自分で言えるなら、まだ大丈夫です」
「大丈夫って言わないって言いましたよね」
「三上さんの話です。馬の方は、まだ分かりません」
「そこは厳しいですね」
「甘く言って、馬がよくなるなら言いますけど」
森下さんは馬房の中へ視線を戻した。
「繁殖は、走らせるより静かに見えるんですけどね」
「はい」
「こっちの方が、待つ時間は長いです」
その言葉は、厩舎の空気によく合っていた。
レース場の歓声はない。
実況もない。
ゴール板もない。
ただ、馬房の中で耳を動かす一頭の牝馬がいる。
「長いですね」
「長いですよ。しかも、待っても報われるとは限らない」
森下さんの声は穏やかだった。
穏やかなのに、逃げ道がなかった。
「それでも見るんです。食べたか、飲んだか、寝たか、歩いたか。嫌がってないか。変に我慢してないか。毎日、毎日」
「……地味ですね」
「地味です」
森下さんはあっさり認めた。
「だから、夢だけ見る人は残りません」
俺はミズノカケラを見た。
飼い葉を残した芦毛の牝馬。
まだ俺に何も期待していない馬。
この馬がいつか産むかもしれない仔を、俺は昨日の夜、勝手に想像していた。
どんな父が合うか。
どんな距離を走るか。
ダートか、芝か。
そんなことを考えていた。
けれど、ミズノカケラは今、目の前の飼い葉を残している。
未来の前に、今日がある。
当たり前のことなのに、当たり前の重さがある。
「ミズ」
森下さんが小さく呼んだ。
ミズノカケラの耳が動く。
「食べていいよ。誰も取らないから」
その声は、柔らかすぎなかった。
甘やかす声でもない。
ただ、そこに置くような声だった。
しばらく何も起こらなかった。
ミズノカケラは、こちらを見ている。
俺も、森下さんも、動かない。
やがてミズノカケラは、一歩だけ横へ動いた。
飼い桶に近づく。
食べるわけではない。
顔を入れるわけでもない。
ただ、鼻先を少しだけ寄せた。
匂いを嗅いで、すぐに顔を上げる。
それだけだった。
でも森下さんは、静かに頷いた。
「今は、それで十分です」
「十分、なんですか」
「十分です。昨日より一つ近いですから」
昨日より一つ近い。
その言葉を、俺は胸の中で繰り返した。
勝ったわけではない。
治ったわけでもない。
食べたわけですらない。
でも、昨日より一つ近い。
ミズノカケラが飼い桶に鼻を寄せた。
ただそれだけのことに、俺は少しだけ救われていた。
厩舎を出る頃には、朝の光がさらに強くなっていた。
森下さんは扉の前で手袋を外しながら、俺を見た。
「三上さん」
「はい」
「もしこの馬を本当に繁殖にするなら、ひとつ先に決めておいた方がいいことがあります」
「何をですか」
「この馬に、どこまで無理をさせないかです」
俺は黙った。
種牡馬をどうするか。
いつ種付けするか。
どんな仔を狙うか。
そんな話が来ると思っていた。
だが、森下さんが口にしたのは、その手前だった。
「今年狙うのか。待つのか。どこまで様子を見るのか。食いが戻れば進めるのか。歩様の硬さが残るなら止めるのか。決めるのは、私だけじゃありません」
「俺も、ですか」
「馬主さんですから」
その言葉は、今朝より少し重かった。
馬主だから、見に来られる。
馬主だから、心配できる。
馬主だから、夢を見られる。
そして馬主だから、無理をさせない線も決めなければいけない。
「……考えます」
「考えるだけなら、今日からできます」
森下さんはそう言って、厩舎の方へ戻っていった。
俺は駐車場へ向かいながら、スマホを取り出した。
種牡馬リストではない。
ノートアプリを開く。
昨日書いた言葉の下に、新しく一行を足した。
『どこまで、無理をさせないか』
書いてから、しばらく画面を見ていた。
勝てる場所を探すことと、走らせない線を引くことは、きっと同じところにある。
その馬が壊れずに、馬らしくいられる場所を探す。
俺がやってきたことは、たぶんそこから始まっていた。
けれどミズノカケラは、まだ走らない。
走らない馬に対して、俺はどこまで同じことができるのか。
車に乗り込む前、厩舎の方を振り返った。
中の様子は見えない。
けれど、馬房の奥で耳を動かしている芦毛の牝馬が、頭の中にはっきり浮かんだ。
行けば、安心できるわけじゃない。
見れば、答えが出るわけでもない。
それでも俺は、見に行ってよかったと思った。
安心するためではなく。
分からないまま、逃げないために。
その日の昼過ぎ、森下さんからまた連絡が来た。
『昼、少しだけ食べました』
俺は短く息を吐いた。
よかった。
そう打ちかけて、指を止める。
まだ早い。
よかった、で終わらせるには、まだ早い。
俺は返信欄に、別の言葉を打った。
『ありがとうございます。続けて様子を見ます』
送信してから、もう一度ノートを開く。
その下に、さらに一行だけ書いた。
『少し食べました。まだ、決めない』
未来は、まだ遠い。
けれど、ミズノカケラは昼に少しだけ食べた。
今の俺には、それが一番大きなニュースだった。




