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安馬しか買えない弱小馬主の俺、スキル《相馬眼》で“勝てる場所”を見抜く  作者: ペンは休み休みもて(ペンもて)
第七章 買った馬は歩いてくる

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第51話 馬房の前でできること

『朝の飼い葉、残しました。歩様、少し硬いです』


 森下さんから届いたその一文を見て、俺はしばらく動けなかった。


 飼い葉を残した。


 歩様が硬い。


 どちらも、それだけで大騒ぎする言葉ではない。輸送のあと、新しい環境に入った馬が食いを落とすことはある。歩き出しが硬く見えることだって、ない話ではない。


 分かっている。


 分かっているのに、スマホを持つ手に力が入った。


 俺は返信欄を開きかけて、閉じた。


 森下さんに聞きたいことはいくらでもある。


 体温は。


 水は。


 ボロは。


 脚元は熱いのか。


 獣医は呼ぶのか。


 今から行ってもいいのか。


 だが、その質問のほとんどは、俺が安心したいだけの言葉だった。


 それが分かってしまったから、余計に苦しい。


 俺は黒川先生に電話をかけた。


 三コール目でつながる。


「先生、ミズノカケラが」


「飼い葉でしょ」


 俺の言葉を、黒川先生が先に切った。


「知ってたんですか」


「森下さんから私にも来てる。体温は平熱。水は飲んでる。ボロも出てる。脚元は今のところ明確な熱感なし」


 淡々としていた。


 淡々としすぎていて、逆に少し腹が立つ。


 いや、腹が立ったというより、俺だけが慌てていることを突きつけられて、みっともなくなった。


「……俺、行った方がいいですか」


「行きたいんでしょ」


「はい」


「じゃあ行きなさい」


 意外な返事だった。


 俺は少し間を置いた。


「いいんですか」


「いいわよ。ただし、馬主としてじゃなくて、邪魔しない見学者として」


「見学者」


「そう。見に行くのはいい。でも、安心しに行くなら邪魔になる」


 言葉が喉に引っかかった。


 安心しに行く。


 まさにそれだった。


「森下さんには私からも言っておく。あなたが変なこと言い出したら止めてって」


「俺、そんな変なこと言いますか」


「今のあなたなら言う」


「即答やめてもらえますか」


「なら落ち着きなさい」


 黒川先生の声は冷たいわけではなかった。


 けれど、甘くもない。


「三上さん」


「はい」


「大丈夫って言ってほしい?」


 俺は答えられなかった。


 たぶん、ほしかった。


 大丈夫ですよ。


 よくあることですよ。


 心配しすぎですよ。


 そう言ってもらえたら、どれだけ楽だったか分からない。


 だが、黒川先生はそれを言わなかった。


「私は言わないわよ。森下さんも言わないと思う」


「……はい」


「まだ分からないから」


 分からない。


 その言葉が、一番怖かった。


 でも、たぶん一番正しい。


 俺は通話を切り、すぐに森下さんへ連絡を入れた。


『今から伺っても大丈夫でしょうか。邪魔はしません』


 送信してから、自分で少しだけ苦くなる。


 邪魔はしません。


 まるで子供の言い訳だ。


 数分後、森下さんから返事が来た。


『大丈夫です。来るなら、馬房の前で大きな声を出さないでください』


 俺は短く返事をして、上着を取った。


 森下牧場へ向かう道は、妙に長く感じた。


 車の窓の外を、朝の光が流れていく。空は晴れている。昨日なら気持ちがいいと思ったかもしれない。今日はその明るさが、少しだけ腹立たしかった。


 競走馬なら、次走をやめれば済むこともある。


 無理なら休ませる。


 番組を替える。


 騎手を待つ。


 仕切り直す。


 もちろん、それだって簡単ではない。


 けれど繁殖牝馬は、走らせないから安全というわけではない。


 食べる。


 寝る。


 歩く。


 環境に慣れる。


 受胎する。


 産む。


 育てる。


 そのどこか一つが崩れれば、未来は簡単に薄くなる。


 俺は一頭の馬を買った。


 でも本当は、その馬のこれからの生活ごと買ったのだ。


 その重さを、今朝になってようやく胃の底で理解している。


 牧場に着くと、森下さんは厩舎の前で待っていた。


 長靴に作業着。髪は後ろで雑にまとめられている。顔に焦りはない。


 だからといって、安心している顔でもなかった。


「おはようございます」


「おはようございます。すみません、朝から」


「謝ることじゃないです。馬主さんですから」


 そう言ってから、森下さんは少しだけ目を細めた。


「でも、馬主さんだからって、何でも馬にさせていいわけじゃないです」


「……はい」


「先に言っておきますね。大丈夫です、とは言いません。まだ分かりませんから」


 黒川先生と同じことを言った。


 胸の奥が、少し沈む。


「ただ、今すぐ大騒ぎする状態でもありません。体温は平熱。水は飲んでます。ボロも出てます。右前に熱感はありません。歩き出しが少し硬いのと、飼い葉を残してる。それだけです」


「獣医さんは」


「連絡はしています。今すぐ呼ぶ状態かは様子を見て判断します」


「そうですか」


「納得してない顔ですね」


 森下さんは、軽く笑った。


 俺は何も言えなかった。


 納得していないわけではない。


 ただ、安心できない。


 その違いをうまく説明できなかった。


「見ますか」


「はい」


「じゃあ、静かに」


 厩舎の中は、外より少し涼しかった。


 藁の匂いと、馬の匂いと、湿った土の匂いが混じっている。


 奥の馬房に、ミズノカケラはいた。


 芦毛の牝馬は、馬房の奥からこちらを見ていた。


 首は上げている。耳は片方がこちら、もう片方が後ろへ向いている。怯えて暴れるような様子はない。ただ、落ち着いているとも言い切れない。


 飼い桶には、飼い葉が残っていた。


 半分より少し多いかもしれない。


 数字で見るより、それはずっと重かった。


「ミズノカケラ」


 声が、思ったより小さくなった。


 ハルサメノツキには、大丈夫だと言えた。


 サビツキノエンジンには、行けと言えた。


 けれど今のミズノカケラに、俺は何を言えばいいのか分からなかった。


 大丈夫だ。


 そんな約束はできない。


 食べろ。


 そんな命令も違う。


 こっちへ来い。


 それは、俺が安心したいだけだ。


 ミズノカケラは、耳だけを動かした。


 近づいてはこない。


 逃げもしない。


 ただ、こちらを測っている。


 この人間は何をするのか。


 ここは安全なのか。


 自分はどこへ連れてこられたのか。


 そんなことを考えているように見えた。


「少し、歩かせて確認した方が」


 言いかけた瞬間、森下さんが俺を見た。


 強い視線ではなかった。


 でも、止まった。


「今歩かせたいのは、馬のためですか。三上さんが見たいからですか」


 言葉が出なかった。


 馬のため。


 そう言いたかった。


 だが、喉の奥で引っかかった。


 違う。


 俺は見たいだけだ。


 歩かせて、問題ないと思いたい。


 硬さがないことを自分の目で確かめたい。


 そのために、今この馬を動かそうとした。


「……俺が見たいだけでした」


 そう言うと、森下さんは表情を少しだけ緩めた。


「馬主さんがそれを自分で言えるなら、まだ大丈夫です」


「大丈夫って言わないって言いましたよね」


「三上さんの話です。馬の方は、まだ分かりません」


「そこは厳しいですね」


「甘く言って、馬がよくなるなら言いますけど」


 森下さんは馬房の中へ視線を戻した。


「繁殖は、走らせるより静かに見えるんですけどね」


「はい」


「こっちの方が、待つ時間は長いです」


 その言葉は、厩舎の空気によく合っていた。


 レース場の歓声はない。


 実況もない。


 ゴール板もない。


 ただ、馬房の中で耳を動かす一頭の牝馬がいる。


「長いですね」


「長いですよ。しかも、待っても報われるとは限らない」


 森下さんの声は穏やかだった。


 穏やかなのに、逃げ道がなかった。


「それでも見るんです。食べたか、飲んだか、寝たか、歩いたか。嫌がってないか。変に我慢してないか。毎日、毎日」


「……地味ですね」


「地味です」


 森下さんはあっさり認めた。


「だから、夢だけ見る人は残りません」


 俺はミズノカケラを見た。


 飼い葉を残した芦毛の牝馬。


 まだ俺に何も期待していない馬。


 この馬がいつか産むかもしれない仔を、俺は昨日の夜、勝手に想像していた。


 どんな父が合うか。


 どんな距離を走るか。


 ダートか、芝か。


 そんなことを考えていた。


 けれど、ミズノカケラは今、目の前の飼い葉を残している。


 未来の前に、今日がある。


 当たり前のことなのに、当たり前の重さがある。


「ミズ」


 森下さんが小さく呼んだ。


 ミズノカケラの耳が動く。


「食べていいよ。誰も取らないから」


 その声は、柔らかすぎなかった。


 甘やかす声でもない。


 ただ、そこに置くような声だった。


 しばらく何も起こらなかった。


 ミズノカケラは、こちらを見ている。


 俺も、森下さんも、動かない。


 やがてミズノカケラは、一歩だけ横へ動いた。


 飼い桶に近づく。


 食べるわけではない。


 顔を入れるわけでもない。


 ただ、鼻先を少しだけ寄せた。


 匂いを嗅いで、すぐに顔を上げる。


 それだけだった。


 でも森下さんは、静かに頷いた。


「今は、それで十分です」


「十分、なんですか」


「十分です。昨日より一つ近いですから」


 昨日より一つ近い。


 その言葉を、俺は胸の中で繰り返した。


 勝ったわけではない。


 治ったわけでもない。


 食べたわけですらない。


 でも、昨日より一つ近い。


 ミズノカケラが飼い桶に鼻を寄せた。


 ただそれだけのことに、俺は少しだけ救われていた。


 厩舎を出る頃には、朝の光がさらに強くなっていた。


 森下さんは扉の前で手袋を外しながら、俺を見た。


「三上さん」


「はい」


「もしこの馬を本当に繁殖にするなら、ひとつ先に決めておいた方がいいことがあります」


「何をですか」


「この馬に、どこまで無理をさせないかです」


 俺は黙った。


 種牡馬をどうするか。


 いつ種付けするか。


 どんな仔を狙うか。


 そんな話が来ると思っていた。


 だが、森下さんが口にしたのは、その手前だった。


「今年狙うのか。待つのか。どこまで様子を見るのか。食いが戻れば進めるのか。歩様の硬さが残るなら止めるのか。決めるのは、私だけじゃありません」


「俺も、ですか」


「馬主さんですから」


 その言葉は、今朝より少し重かった。


 馬主だから、見に来られる。


 馬主だから、心配できる。


 馬主だから、夢を見られる。


 そして馬主だから、無理をさせない線も決めなければいけない。


「……考えます」


「考えるだけなら、今日からできます」


 森下さんはそう言って、厩舎の方へ戻っていった。


 俺は駐車場へ向かいながら、スマホを取り出した。


 種牡馬リストではない。


 ノートアプリを開く。


 昨日書いた言葉の下に、新しく一行を足した。


『どこまで、無理をさせないか』


 書いてから、しばらく画面を見ていた。


 勝てる場所を探すことと、走らせない線を引くことは、きっと同じところにある。


 その馬が壊れずに、馬らしくいられる場所を探す。


 俺がやってきたことは、たぶんそこから始まっていた。


 けれどミズノカケラは、まだ走らない。


 走らない馬に対して、俺はどこまで同じことができるのか。


 車に乗り込む前、厩舎の方を振り返った。


 中の様子は見えない。


 けれど、馬房の奥で耳を動かしている芦毛の牝馬が、頭の中にはっきり浮かんだ。


 行けば、安心できるわけじゃない。


 見れば、答えが出るわけでもない。


 それでも俺は、見に行ってよかったと思った。


 安心するためではなく。


 分からないまま、逃げないために。


 その日の昼過ぎ、森下さんからまた連絡が来た。


『昼、少しだけ食べました』


 俺は短く息を吐いた。


 よかった。


 そう打ちかけて、指を止める。


 まだ早い。


 よかった、で終わらせるには、まだ早い。


 俺は返信欄に、別の言葉を打った。


『ありがとうございます。続けて様子を見ます』


 送信してから、もう一度ノートを開く。


 その下に、さらに一行だけ書いた。


『少し食べました。まだ、決めない』


 未来は、まだ遠い。


 けれど、ミズノカケラは昼に少しだけ食べた。


 今の俺には、それが一番大きなニュースだった。

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― 新着の感想 ―
繁殖牝馬のときもスキルが発動すると思ったら発動しないんですね せっかくの設定ですのでもっと使ってかないともったいない
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