第50話 配合表より、体温表
種牡馬リストを開いたのは、別に浮かれていたからではない。
いや、少しは浮かれていたかもしれない。
けれど、それよりも大きかったのは不安だった。
ミズノカケラが森下牧場に入ってから、まだ一日も経っていない。種付けどころか、環境に慣れるかどうかを見る段階だ。そんなことは分かっている。
分かっているのに、俺のパソコン画面には種牡馬の名前が並んでいた。
産駒成績。
距離傾向。
ダート適性。
母父との相性。
種付け料。
空胎時の条件。
ひとつひとつ見ているうちに、胸の奥が妙にざわつく。
走っていない馬の未来を、まだ存在しない馬に託す。
文字にすると綺麗だ。
でも、画面の右端に表示された数字は、まったく綺麗ではなかった。
「……高いな」
思わず声が出た。
種付け料という文字は、知識としては知っていた。もちろん知らなかったわけではない。けれど、自分の財布に向かってくる数字として見ると、まるで別の生き物だった。
中央で走る良血馬を見ているだけなら、血統表はロマンだ。
自分で払うとなると、血統表は請求書の前触れになる。
画面をスクロールして、現実的な価格帯の種牡馬をいくつか開く。
ミズノカケラの母系。
体の硬さ。
前向きさの薄さ。
脚元の不安。
それらを頭の中に並べながら、父系の特徴を重ねてみる。
合う。
合わない。
分からない。
ちょっと違う。
いや、これは俺が見たいだけか。
そんなことを繰り返していた時、スマホが震えた。
黒川先生だった。
「はい、三上です」
「種牡馬リスト見てるでしょ」
開口一番、それだった。
俺は反射的に画面を閉じそうになり、手を止めた。
「……見てません」
「今の間、何?」
「呼吸です」
「嘘が下手」
「見てました」
「でしょうね」
電話口の向こうで、黒川先生が小さく息を吐いた。
怒っている声ではなかった。
呆れている声だった。
それはそれで痛い。
「三上さん」
「はい」
「配合を考えるのは悪いことじゃないわ。むしろ、考えなきゃ駄目。でも、順番を間違えないで」
「順番ですか」
「最初に見るのは血統表じゃない。体温、飼い葉、脚元、ボロ、落ち着き。そっち」
俺は閉じかけていた画面を見た。
そこには、綺麗な写真と立派な成績が並んでいる。
どの馬も強そうだった。
どの馬も、未来へ続く道に見えた。
「ミズノカケラは、まだ新しい馬房で一晩も過ごしてないのよ」
「分かってます」
「分かってる人は、今リスト見ないの」
「それは……そうですね」
「素直でよろしい」
よろしい、とは言われたが、褒められた気はしなかった。
俺は椅子にもたれ、天井を見た。
「黒川先生」
「何?」
「怖いんです」
言ってから、自分でも少し驚いた。
けれど、出た言葉は戻らない。
「買ったのは俺です。手を上げたのも俺です。森下さんに預けると決めたのも俺です。でも、ここから先は、すぐに答えが出ないじゃないですか」
「出ないわね」
「だから、何か見ていないと落ち着かなくて」
「それで種牡馬リスト?」
「はい」
「気持ちは分かるけど、焦りの逃げ先にするものじゃないわ」
きつい言い方だった。
でも、外れていなかった。
俺はたぶん、未来を考えているふりをして、今の不安から逃げていた。
ミズノカケラが新しい環境に馴染むか。
体調を崩さないか。
輸送の疲れが出ないか。
飼い葉を食べるか。
脚元はどうか。
そういう目の前のことを待つのが怖くて、まだ名前も顔もない未来の産駒へ意識を飛ばしていた。
「先生」
「うん」
「馬産って、思ったより怖いですね」
「思ったよりで済んでるうちは、まだ入口ね」
「入口から厳しくないですか」
「馬主業って、入口にだいたい段差があるのよ。あなた、もう何回か転んでるでしょ」
「否定できません」
「なら、次は転ぶ前に足元を見なさい」
先生の言葉は、いつも少し雑で、痛くて、でも逃げ道をひとつ残してくれる。
完璧に正しいことを、完璧な言葉で言われたら、たぶん俺はもっと苦しくなる。
けれど黒川先生は、いつも半分くらい雑だ。
その半分に、救われる。
電話を切った後、俺は種牡馬リストのタブを閉じた。
代わりに、森下さんから来ていた共有フォルダを開く。
まだ項目は少ない。
入厩時チェック。
体温。
脚元。
歩様。
飼い葉。
飲水。
落ち着き。
コメント欄には、森下さんの短い記録が入っていた。
『輸送後、体温平熱。歩様は出始め硬さあり。二十歩ほどで緩む。右前、熱感なし。馬房内、入口側でしばらく停止。飼い葉、夜分は様子見』
派手な言葉はない。
希望も、不安を煽る言葉もない。
ただ、見たものが書いてある。
それだけなのに、種牡馬リストよりずっと重かった。
体温三七度台。
数字だけなら、小さい。
けれどその数字の向こうに、今夜のミズノカケラがいる。
馬房の奥までなかなか入らず、入口近くで耳を動かしていた芦毛の牝馬。
セール会場で見た時よりも、牧場で見た時よりも、その記録の中のミズノカケラは妙に近かった。
俺はスマホを手に取った。
森下さんに連絡を入れるべきか、少し迷う。
大丈夫ですか。
食べましたか。
落ち着いていますか。
いくらでも聞きたいことはある。
だが、指が止まった。
聞いたところで、ミズノカケラの飼い葉が増えるわけではない。
森下さんの仕事が楽になるわけでもない。
ただ、俺が少し安心するだけだ。
それは、馬のためなのか。
自分のためなのか。
画面の上で親指を止めていると、スマホが震えた。
森下さんからだった。
『夜の様子です。体温変わらず。飼い葉、半分ほど。水は飲んでいます。馬房奥へは入るようになりました。まだ耳は忙しいです』
俺は思わず、椅子から少し身を起こした。
飼い葉、半分ほど。
その文字だけが、やけに大きく見える。
半分。
食べていないわけではない。
けれど、しっかり食べたとも言えない。
輸送後なら珍しいことではないのかもしれない。環境が変われば食いが落ちる馬もいる。知識では分かる。
でも、知識では胸のざわつきは止まらない。
俺は返信欄を開いた。
『すぐ伺った方が』
そこまで打って、消した。
伺ってどうする。
俺が馬房の前で心配そうな顔をして立っていれば、ミズノカケラが安心するのか。
しない。
たぶん、しない。
むしろ知らない人間が増えて、余計に落ち着かないかもしれない。
俺は打ち直した。
『ありがとうございます。明日の朝の様子も教えてください。よろしくお願いします』
送信する。
すぐ既読はつかなかった。
森下さんは馬を見ているのだろう。
俺はスマホを置き、もう一度共有フォルダを見た。
配合表より、体温表。
黒川先生の言葉が頭の中に残る。
ミズノカケラに合う種牡馬を探すことは、たぶん大事だ。
血をどう繋ぐか。
弱点をどう補うか。
どんな産駒を目指すか。
それは、馬主として考えなければいけない。
けれど、その前に。
ミズノカケラが今夜、飼い葉を半分残した。
新しい馬房で、耳を忙しく動かしている。
水は飲んでいる。
体温は変わらない。
馬房の奥には入るようになった。
そのひとつひとつが、今の俺にとってはレース結果よりも重い。
ハルサメノツキが外から伸びた時、俺は直線を見ていた。
サビツキノエンジンが先頭を譲らなかった時、俺はゴール板を見ていた。
けれど、ミズノカケラにはゴール板がない。
掲示板もない。
着順もない。
実況もない。
だからこそ、見落とせない。
食べたか。
立っているか。
落ち着いているか。
痛がっていないか。
今日を越えたか。
そんな地味なことの積み重ねの先に、まだ生まれていない馬がいる。
俺は閉じた種牡馬リストを、もう一度開きそうになった。
指が動く。
だが、その直前で止めた。
今日は見ない。
少なくとも、今夜は。
俺が見るべきなのは、未来の父ではない。
今、森下牧場の馬房にいる母だ。
そう思った時、スマホがもう一度震えた。
森下さんから、写真が一枚送られてきていた。
薄暗い馬房の中。
芦毛の牝馬が、首を少し下げている。
飼い桶に顔を入れているわけではない。
ただ、奥に敷かれた藁の上で、静かに立っている。
耳は片方だけこちらを向いていた。
写真の下に、短い文が添えられていた。
『寝る気は、少し出てきたみたいです』
俺はその一文を、しばらく見ていた。
名繁殖になるかどうかなんて、まだ何も分からない。
いい仔を産むかどうかも分からない。
そもそも、無事に受胎するかどうかさえ分からない。
でも今夜、ミズノカケラは新しい馬房の奥に入った。
それは、たぶん小さな一歩だった。
レースなら誰にも気づかれない。
新聞にも載らない。
馬券にもならない。
それでも俺は、その一歩を見逃したくなかった。
机の上で、閉じたノートを開く。
ページの上に、今日の日付を書く。
その下に、森下さんからの報告を写した。
体温。
飼い葉。
水。
馬房内の位置。
耳。
最後に、少し迷ってから一行だけ足す。
『まだ、夢を見る前』
書いてから、ペンを置いた。
スマホの画面が暗くなる。
その黒い画面に、自分の顔がぼんやり映った。
たぶん、ひどい顔をしている。
けれど、悪くはないと思った。
怖いなら、見ますからね。
森下さんの言葉を思い出す。
俺はまだ、見ることしかできない。
でも、見ることから逃げない馬主でいたかった。
その夜、種牡馬リストは開かなかった。
代わりに、ミズノカケラの体温表を何度も見た。
そして翌朝。
森下さんから届いた最初の連絡で、俺の眠気は完全に消えた。
『朝の飼い葉、残しました。歩様、少し硬いです』
俺は、閉じていたはずのノートを開いた。




