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安馬しか買えない弱小馬主の俺、スキル《相馬眼》で“勝てる場所”を見抜く  作者: ペンは休み休みもて(ペンもて)
第七章 買った馬は歩いてくる

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第50話 配合表より、体温表

 種牡馬リストを開いたのは、別に浮かれていたからではない。


 いや、少しは浮かれていたかもしれない。


 けれど、それよりも大きかったのは不安だった。


 ミズノカケラが森下牧場に入ってから、まだ一日も経っていない。種付けどころか、環境に慣れるかどうかを見る段階だ。そんなことは分かっている。


 分かっているのに、俺のパソコン画面には種牡馬の名前が並んでいた。


 産駒成績。


 距離傾向。


 ダート適性。


 母父との相性。


 種付け料。


 空胎時の条件。


 ひとつひとつ見ているうちに、胸の奥が妙にざわつく。


 走っていない馬の未来を、まだ存在しない馬に託す。


 文字にすると綺麗だ。


 でも、画面の右端に表示された数字は、まったく綺麗ではなかった。


「……高いな」


 思わず声が出た。


 種付け料という文字は、知識としては知っていた。もちろん知らなかったわけではない。けれど、自分の財布に向かってくる数字として見ると、まるで別の生き物だった。


 中央で走る良血馬を見ているだけなら、血統表はロマンだ。


 自分で払うとなると、血統表は請求書の前触れになる。


 画面をスクロールして、現実的な価格帯の種牡馬をいくつか開く。


 ミズノカケラの母系。


 体の硬さ。


 前向きさの薄さ。


 脚元の不安。


 それらを頭の中に並べながら、父系の特徴を重ねてみる。


 合う。


 合わない。


 分からない。


 ちょっと違う。


 いや、これは俺が見たいだけか。


 そんなことを繰り返していた時、スマホが震えた。


 黒川先生だった。


「はい、三上です」


「種牡馬リスト見てるでしょ」


 開口一番、それだった。


 俺は反射的に画面を閉じそうになり、手を止めた。


「……見てません」


「今の間、何?」


「呼吸です」


「嘘が下手」


「見てました」


「でしょうね」


 電話口の向こうで、黒川先生が小さく息を吐いた。


 怒っている声ではなかった。


 呆れている声だった。


 それはそれで痛い。


「三上さん」


「はい」


「配合を考えるのは悪いことじゃないわ。むしろ、考えなきゃ駄目。でも、順番を間違えないで」


「順番ですか」


「最初に見るのは血統表じゃない。体温、飼い葉、脚元、ボロ、落ち着き。そっち」


 俺は閉じかけていた画面を見た。


 そこには、綺麗な写真と立派な成績が並んでいる。


 どの馬も強そうだった。


 どの馬も、未来へ続く道に見えた。


「ミズノカケラは、まだ新しい馬房で一晩も過ごしてないのよ」


「分かってます」


「分かってる人は、今リスト見ないの」


「それは……そうですね」


「素直でよろしい」


 よろしい、とは言われたが、褒められた気はしなかった。


 俺は椅子にもたれ、天井を見た。


「黒川先生」


「何?」


「怖いんです」


 言ってから、自分でも少し驚いた。


 けれど、出た言葉は戻らない。


「買ったのは俺です。手を上げたのも俺です。森下さんに預けると決めたのも俺です。でも、ここから先は、すぐに答えが出ないじゃないですか」


「出ないわね」


「だから、何か見ていないと落ち着かなくて」


「それで種牡馬リスト?」


「はい」


「気持ちは分かるけど、焦りの逃げ先にするものじゃないわ」


 きつい言い方だった。


 でも、外れていなかった。


 俺はたぶん、未来を考えているふりをして、今の不安から逃げていた。


 ミズノカケラが新しい環境に馴染むか。


 体調を崩さないか。


 輸送の疲れが出ないか。


 飼い葉を食べるか。


 脚元はどうか。


 そういう目の前のことを待つのが怖くて、まだ名前も顔もない未来の産駒へ意識を飛ばしていた。


「先生」


「うん」


「馬産って、思ったより怖いですね」


「思ったよりで済んでるうちは、まだ入口ね」


「入口から厳しくないですか」


「馬主業って、入口にだいたい段差があるのよ。あなた、もう何回か転んでるでしょ」


「否定できません」


「なら、次は転ぶ前に足元を見なさい」


 先生の言葉は、いつも少し雑で、痛くて、でも逃げ道をひとつ残してくれる。


 完璧に正しいことを、完璧な言葉で言われたら、たぶん俺はもっと苦しくなる。


 けれど黒川先生は、いつも半分くらい雑だ。


 その半分に、救われる。


 電話を切った後、俺は種牡馬リストのタブを閉じた。


 代わりに、森下さんから来ていた共有フォルダを開く。


 まだ項目は少ない。


 入厩時チェック。


 体温。


 脚元。


 歩様。


 飼い葉。


 飲水。


 落ち着き。


 コメント欄には、森下さんの短い記録が入っていた。


『輸送後、体温平熱。歩様は出始め硬さあり。二十歩ほどで緩む。右前、熱感なし。馬房内、入口側でしばらく停止。飼い葉、夜分は様子見』


 派手な言葉はない。


 希望も、不安を煽る言葉もない。


 ただ、見たものが書いてある。


 それだけなのに、種牡馬リストよりずっと重かった。


 体温三七度台。


 数字だけなら、小さい。


 けれどその数字の向こうに、今夜のミズノカケラがいる。


 馬房の奥までなかなか入らず、入口近くで耳を動かしていた芦毛の牝馬。


 セール会場で見た時よりも、牧場で見た時よりも、その記録の中のミズノカケラは妙に近かった。


 俺はスマホを手に取った。


 森下さんに連絡を入れるべきか、少し迷う。


 大丈夫ですか。


 食べましたか。


 落ち着いていますか。


 いくらでも聞きたいことはある。


 だが、指が止まった。


 聞いたところで、ミズノカケラの飼い葉が増えるわけではない。


 森下さんの仕事が楽になるわけでもない。


 ただ、俺が少し安心するだけだ。


 それは、馬のためなのか。


 自分のためなのか。


 画面の上で親指を止めていると、スマホが震えた。


 森下さんからだった。


『夜の様子です。体温変わらず。飼い葉、半分ほど。水は飲んでいます。馬房奥へは入るようになりました。まだ耳は忙しいです』


 俺は思わず、椅子から少し身を起こした。


 飼い葉、半分ほど。


 その文字だけが、やけに大きく見える。


 半分。


 食べていないわけではない。


 けれど、しっかり食べたとも言えない。


 輸送後なら珍しいことではないのかもしれない。環境が変われば食いが落ちる馬もいる。知識では分かる。


 でも、知識では胸のざわつきは止まらない。


 俺は返信欄を開いた。


『すぐ伺った方が』


 そこまで打って、消した。


 伺ってどうする。


 俺が馬房の前で心配そうな顔をして立っていれば、ミズノカケラが安心するのか。


 しない。


 たぶん、しない。


 むしろ知らない人間が増えて、余計に落ち着かないかもしれない。


 俺は打ち直した。


『ありがとうございます。明日の朝の様子も教えてください。よろしくお願いします』


 送信する。


 すぐ既読はつかなかった。


 森下さんは馬を見ているのだろう。


 俺はスマホを置き、もう一度共有フォルダを見た。


 配合表より、体温表。


 黒川先生の言葉が頭の中に残る。


 ミズノカケラに合う種牡馬を探すことは、たぶん大事だ。


 血をどう繋ぐか。


 弱点をどう補うか。


 どんな産駒を目指すか。


 それは、馬主として考えなければいけない。


 けれど、その前に。


 ミズノカケラが今夜、飼い葉を半分残した。


 新しい馬房で、耳を忙しく動かしている。


 水は飲んでいる。


 体温は変わらない。


 馬房の奥には入るようになった。


 そのひとつひとつが、今の俺にとってはレース結果よりも重い。


 ハルサメノツキが外から伸びた時、俺は直線を見ていた。


 サビツキノエンジンが先頭を譲らなかった時、俺はゴール板を見ていた。


 けれど、ミズノカケラにはゴール板がない。


 掲示板もない。


 着順もない。


 実況もない。


 だからこそ、見落とせない。


 食べたか。


 立っているか。


 落ち着いているか。


 痛がっていないか。


 今日を越えたか。


 そんな地味なことの積み重ねの先に、まだ生まれていない馬がいる。


 俺は閉じた種牡馬リストを、もう一度開きそうになった。


 指が動く。


 だが、その直前で止めた。


 今日は見ない。


 少なくとも、今夜は。


 俺が見るべきなのは、未来の父ではない。


 今、森下牧場の馬房にいる母だ。


 そう思った時、スマホがもう一度震えた。


 森下さんから、写真が一枚送られてきていた。


 薄暗い馬房の中。


 芦毛の牝馬が、首を少し下げている。


 飼い桶に顔を入れているわけではない。


 ただ、奥に敷かれた藁の上で、静かに立っている。


 耳は片方だけこちらを向いていた。


 写真の下に、短い文が添えられていた。


『寝る気は、少し出てきたみたいです』


 俺はその一文を、しばらく見ていた。


 名繁殖になるかどうかなんて、まだ何も分からない。


 いい仔を産むかどうかも分からない。


 そもそも、無事に受胎するかどうかさえ分からない。


 でも今夜、ミズノカケラは新しい馬房の奥に入った。


 それは、たぶん小さな一歩だった。


 レースなら誰にも気づかれない。


 新聞にも載らない。


 馬券にもならない。


 それでも俺は、その一歩を見逃したくなかった。


 机の上で、閉じたノートを開く。


 ページの上に、今日の日付を書く。


 その下に、森下さんからの報告を写した。


 体温。


 飼い葉。


 水。


 馬房内の位置。


 耳。


 最後に、少し迷ってから一行だけ足す。


『まだ、夢を見る前』


 書いてから、ペンを置いた。


 スマホの画面が暗くなる。


 その黒い画面に、自分の顔がぼんやり映った。


 たぶん、ひどい顔をしている。


 けれど、悪くはないと思った。


 怖いなら、見ますからね。


 森下さんの言葉を思い出す。


 俺はまだ、見ることしかできない。


 でも、見ることから逃げない馬主でいたかった。


 その夜、種牡馬リストは開かなかった。


 代わりに、ミズノカケラの体温表を何度も見た。


 そして翌朝。


 森下さんから届いた最初の連絡で、俺の眠気は完全に消えた。


『朝の飼い葉、残しました。歩様、少し硬いです』


 俺は、閉じていたはずのノートを開いた。

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