第49話 買った馬は、歩いてくる
馬を買った翌朝、最初に来たのは夢ではなかった。
請求書だった。
落札代金。
消費税。
手数料。
輸送費の見積もり。
預託料。
獣医チェック。
保険。
今後の繁殖管理に関する確認事項。
画面に並んだ数字を見て、俺はしばらく黙った。
ミズノカケラを一二〇万円で買った。
その一文だけなら、分かりやすい。
けれど、馬は一二〇万円で終わらない。
名前の横に、これから発生する数字がいくつもくっついてくる。馬体の確認、輸送先の調整、預け先との契約、検査、今後の種付け、受胎確認、もし受胎しなかった場合のこと。
まだ何も走っていないのに、現実だけはものすごい速度で走ってくる。
黒川先生に電話すると、開口一番に言われた。
「見た?」
「見ました」
「どう?」
「馬は買った後の方がお金がかかる、という言葉の意味を理解しています」
「理解じゃ足りないわ。財布で覚えなさい」
きつい。
けれど、反論できない。
「知識としては知ってました」
「知識で財布は守れないわよ」
「名言みたいに言わないでください。刺さります」
「刺さるくらいで済むなら安いわ」
電話口の向こうで、先生が紙をめくる音がした。
「預け先は、森下牧場で話を進めてる。大きいところじゃないけど、繁殖牝馬は丁寧に見る。久坂さんからも悪くないって返事が来てる」
「黒川先生の紹介ですか」
「半分はね。もう半分は、向こうが受けてくれたから。勘違いしないで。馬を預けるのも、誰でもいいわけじゃない」
「はい」
「繁殖牝馬は走らない。でも、生きてる。毎日食べるし、脚も痛めるし、体調も崩す。競馬場に出てこないだけで、管理は続くのよ」
走らない馬。
その言葉が、妙に重かった。
ハルサメノツキも、サビツキノエンジンも、買った先にレースがあった。調教があり、番組があり、騎手がいて、ゲートがあった。
ミズノカケラには、それがない。
少なくとも、今はない。
勝たない。
賞金も稼がない。
掲示板で騒がれることもない。
それでも俺は、毎月金を払い、この馬の先を見ることになる。
「三上さん」
「はい」
「夢を見るなとは言わない。でも、夢より先に段取り」
「それ、昨日も聞いた気がします」
「何度でも言うわ。あなた、夢を見る時だけ耳が悪くなるから」
「ひどい」
「自覚は?」
「少しあります」
「ならいいわ」
よくはないと思う。
けれど、先生の声に少しだけ救われていた。
数日後、ミズノカケラが森下牧場へ移る日が来た。
牧場は大きくなかった。
広すぎる放牧地も、真新しい厩舎もない。けれど、古い木の柵はきちんと直されていて、通路には余計なものが落ちていない。派手ではないが、雑ではない場所だった。
入口で待っていたのは、作業着姿の女性だった。
「森下佐和子です」
四十代半ばくらいだろうか。日に焼けた顔で、声は低め。優しそう、というより、余計なことを言わなさそうな人だった。
「三上です。よろしくお願いします」
「こちらこそ。黒川先生から話は聞いてます」
隣の黒川先生が、軽く頭を下げる。
「厄介な馬をお願いするわ」
「厄介じゃない繁殖なんて、あまりいませんよ」
森下さんはさらっと言った。
その言葉に、少しだけ背筋が伸びる。
「ミズノカケラは、もうすぐ着きます。馬運車が少し遅れているだけです」
「状態は大丈夫そうですか」
「輸送前の連絡では問題なし。ただ、着いてみないと分かりません。移動で変わる馬もいますから」
分かりません。
その言い方が、妙に信用できた。
何でも大丈夫ですと言われるより、ずっと。
黒川先生が牧場の方へ視線を向ける。
「佐和子さんは、いいことを言いすぎないから信用できるの」
「褒めてます?」
「半分くらい」
「黒川先生、昔からそれですね」
森下さんが少し笑った。
どうやら、二人は前から知り合いらしい。
「繁殖牝馬を持つのは初めてですか」
森下さんに聞かれ、俺は頷いた。
「はい。現役馬とは違うことばかりで」
「違いますね」
即答だった。
「現役馬は、レースが近い。良くても悪くても、わりと早く答えが来ます。繁殖は遅いです。お金も時間も使って、答えが出るのは何年も先。答えが出ないこともあります」
森下さんは、厩舎の方を見たまま続ける。
「お金を払ってくれる人はいます。でも、待てる人は少ないです」
胸の奥が、少しだけ重くなった。
待てる人。
ハルサメノツキを休ませると決めた時、自分は少しだけ待つことを覚えたと思っていた。
でも、それは走った馬を待つことだった。
ミズノカケラは違う。
この馬の先にいるのは、まだ生まれてもいない馬だ。
待つという言葉の長さが違う。
「待てるかどうかは、まだ分かりません」
俺がそう言うと、森下さんは少しだけこちらを見た。
「分からないと言えるなら、悪くないです。最初から待てますって言う人ほど、だいたい途中で焦ります」
「耳が痛いです」
「痛いなら、まだ聞こえてます」
黒川先生が横で小さく笑った。
「いいこと言うでしょう」
「刺さることしか言われてません」
「馬を持つって、だいたいそうよ」
遠くから、エンジン音が聞こえた。
馬運車が、ゆっくりと牧場の入口へ入ってくる。
俺は無意識に息を止めていた。
セール会場で落札した時、ミズノカケラはまだ数字と書類の中にいた。芦毛の牝馬が目の前を歩いていたのは確かだが、どこか現実味が薄かった。
けれど、今は違う。
馬運車が止まる。
後ろの扉が開く。
中から、馬の気配が降りてくる。
担当者に引かれて、芦毛の牝馬が顔を出した。
ミズノカケラ。
若い白さではない。灰を含んだ、水のような芦毛。環境が変わったせいか、耳は少し忙しく動いている。目は大きく見開かれてはいないが、落ち着ききっているわけでもない。
馬運車から降りる最初の一歩は、やはり硬かった。
俺の胸も、同じように硬くなる。
黒川先生が横で短く言った。
「見て」
「はい」
「買った後も、悪いところは消えない」
先生らしい言葉だった。
ミズノカケラは二歩、三歩と歩く。足元を確かめるように、少し慎重に。
森下さんは近づきすぎず、少し離れた位置で見ている。
「出始めは硬いですね」
「はい」
「でも、慌ててはいない」
その言葉通りだった。
ミズノカケラは派手に暴れるわけではない。人に甘えるわけでもない。ただ、新しい場所の匂いを確かめるように鼻を動かし、ゆっくり首を上げる。
牧場の通路を、少し歩かせる。
一歩目の硬さ。
十歩目の硬さ。
二十歩目で、ほんの少しだけリズムが変わる。
あの日、下見で見たものと同じだった。
大きく変わるわけではない。
誰が見ても分かるほど柔らかくなるわけでもない。
それでも、歩き続けると、少しほどける。
急がない。
乱れない。
止まらない。
俺は小さく息を吐いた。
「同じですね」
「同じ?」
黒川先生が聞く。
「下見の時と。同じです」
「良いところも、悪いところも?」
「はい」
「なら、ちゃんと見なさい。買った後の方が、都合よく見たくなるから」
その言葉は刺さった。
たぶん、そうなのだ。
買ったからには、正しかったと思いたくなる。
自分の判断は間違っていなかったと、都合のいい証拠を探したくなる。
でも、ミズノカケラは名繁殖になったわけではない。
ただ、俺の馬になっただけだ。
それだけで、悪材料が消えるわけではない。
森下さんが歩様を見ながら言う。
「まずは移動後の様子を見ます。飼い葉、体温、脚元、落ち着き。数日は無理に何かしません」
「お願いします」
「種付けの話は、その後ですね。焦って決める話じゃありません」
俺は頷いた。
種牡馬を選ぶ。
血を繋ぐ。
言葉だけなら、いくらでも夢を見られる。
でも目の前には、輸送されてきたばかりの芦毛の牝馬がいる。歩き出しに硬さがあって、環境に少し緊張していて、まだこの場所を信用していない馬がいる。
夢より先に段取り。
先生の言葉が、腹のあたりに残っていた。
ミズノカケラは、新しい馬房へ入った。
最初は奥まで行かず、入口近くで止まった。鼻先を伸ばし、藁の匂いを嗅ぐ。壁を確かめるように顔を動かし、それから一歩だけ奥へ入る。
森下さんが、馬房の前に名札を掛けた。
ミズノカケラ。
白い札に書かれたその名前を見て、ようやく実感が来た。
この馬は、もうセール名簿の中の一行ではない。
請求書の数字でもない。
俺が手を上げた一二〇万円でもない。
ここにいる。
息をしている。
藁を踏んでいる。
耳を動かしている。
黒川先生が隣で言う。
「これで、本当に来たわね」
「はい」
「嬉しい?」
少し考えた。
嬉しくないわけではない。
でも、それだけではなかった。
「怖いです」
正直に言うと、先生は少しだけ頷いた。
「その方がいいわ」
「いいんですか」
「怖くない人間に、何年も先の馬は預けられない」
森下さんも、馬房の中のミズノカケラを見ながら言った。
「怖いなら、見ますからね。見ない人は、怖がりません」
俺は、馬房の奥にいる芦毛の牝馬を見た。
ハルサメノツキは、走る場所を探す馬だった。
サビツキノエンジンは、走り方を取り戻す馬だった。
ミズノカケラは、違う。
この馬は、まだ生まれていない馬へ続いている。
勝つかどうかも分からない。
生まれるかどうかも分からない。
名前がつくかどうかさえ、まだ分からない。
それでも、ここから見るのは俺だ。
ミズノカケラは、馬房の奥で静かに藁を踏んだ。
その一歩は、レースへ向かう一歩ではない。
まだ名前もない馬へ続く、最初の一歩だった。




