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安馬しか買えない弱小馬主の俺、スキル《相馬眼》で“勝てる場所”を見抜く  作者: ペンは休み休みもて(ペンもて)
第七章 買った馬は歩いてくる

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第49話 買った馬は、歩いてくる

 馬を買った翌朝、最初に来たのは夢ではなかった。


 請求書だった。


 落札代金。

 消費税。

 手数料。

 輸送費の見積もり。

 預託料。

 獣医チェック。

 保険。

 今後の繁殖管理に関する確認事項。


 画面に並んだ数字を見て、俺はしばらく黙った。


 ミズノカケラを一二〇万円で買った。

 その一文だけなら、分かりやすい。


 けれど、馬は一二〇万円で終わらない。


 名前の横に、これから発生する数字がいくつもくっついてくる。馬体の確認、輸送先の調整、預け先との契約、検査、今後の種付け、受胎確認、もし受胎しなかった場合のこと。


 まだ何も走っていないのに、現実だけはものすごい速度で走ってくる。


 黒川先生に電話すると、開口一番に言われた。


「見た?」


「見ました」


「どう?」


「馬は買った後の方がお金がかかる、という言葉の意味を理解しています」


「理解じゃ足りないわ。財布で覚えなさい」


 きつい。


 けれど、反論できない。


「知識としては知ってました」


「知識で財布は守れないわよ」


「名言みたいに言わないでください。刺さります」


「刺さるくらいで済むなら安いわ」


 電話口の向こうで、先生が紙をめくる音がした。


「預け先は、森下牧場で話を進めてる。大きいところじゃないけど、繁殖牝馬は丁寧に見る。久坂さんからも悪くないって返事が来てる」


「黒川先生の紹介ですか」


「半分はね。もう半分は、向こうが受けてくれたから。勘違いしないで。馬を預けるのも、誰でもいいわけじゃない」


「はい」


「繁殖牝馬は走らない。でも、生きてる。毎日食べるし、脚も痛めるし、体調も崩す。競馬場に出てこないだけで、管理は続くのよ」


 走らない馬。


 その言葉が、妙に重かった。


 ハルサメノツキも、サビツキノエンジンも、買った先にレースがあった。調教があり、番組があり、騎手がいて、ゲートがあった。


 ミズノカケラには、それがない。


 少なくとも、今はない。


 勝たない。

 賞金も稼がない。

 掲示板で騒がれることもない。


 それでも俺は、毎月金を払い、この馬の先を見ることになる。


「三上さん」


「はい」


「夢を見るなとは言わない。でも、夢より先に段取り」


「それ、昨日も聞いた気がします」


「何度でも言うわ。あなた、夢を見る時だけ耳が悪くなるから」


「ひどい」


「自覚は?」


「少しあります」


「ならいいわ」


 よくはないと思う。


 けれど、先生の声に少しだけ救われていた。


 数日後、ミズノカケラが森下牧場へ移る日が来た。


 牧場は大きくなかった。


 広すぎる放牧地も、真新しい厩舎もない。けれど、古い木の柵はきちんと直されていて、通路には余計なものが落ちていない。派手ではないが、雑ではない場所だった。


 入口で待っていたのは、作業着姿の女性だった。


「森下佐和子です」


 四十代半ばくらいだろうか。日に焼けた顔で、声は低め。優しそう、というより、余計なことを言わなさそうな人だった。


「三上です。よろしくお願いします」


「こちらこそ。黒川先生から話は聞いてます」


 隣の黒川先生が、軽く頭を下げる。


「厄介な馬をお願いするわ」


「厄介じゃない繁殖なんて、あまりいませんよ」


 森下さんはさらっと言った。


 その言葉に、少しだけ背筋が伸びる。


「ミズノカケラは、もうすぐ着きます。馬運車が少し遅れているだけです」


「状態は大丈夫そうですか」


「輸送前の連絡では問題なし。ただ、着いてみないと分かりません。移動で変わる馬もいますから」


 分かりません。


 その言い方が、妙に信用できた。


 何でも大丈夫ですと言われるより、ずっと。


 黒川先生が牧場の方へ視線を向ける。


「佐和子さんは、いいことを言いすぎないから信用できるの」


「褒めてます?」


「半分くらい」


「黒川先生、昔からそれですね」


 森下さんが少し笑った。


 どうやら、二人は前から知り合いらしい。


「繁殖牝馬を持つのは初めてですか」


 森下さんに聞かれ、俺は頷いた。


「はい。現役馬とは違うことばかりで」


「違いますね」


 即答だった。


「現役馬は、レースが近い。良くても悪くても、わりと早く答えが来ます。繁殖は遅いです。お金も時間も使って、答えが出るのは何年も先。答えが出ないこともあります」


 森下さんは、厩舎の方を見たまま続ける。


「お金を払ってくれる人はいます。でも、待てる人は少ないです」


 胸の奥が、少しだけ重くなった。


 待てる人。


 ハルサメノツキを休ませると決めた時、自分は少しだけ待つことを覚えたと思っていた。


 でも、それは走った馬を待つことだった。


 ミズノカケラは違う。

 この馬の先にいるのは、まだ生まれてもいない馬だ。


 待つという言葉の長さが違う。


「待てるかどうかは、まだ分かりません」


 俺がそう言うと、森下さんは少しだけこちらを見た。


「分からないと言えるなら、悪くないです。最初から待てますって言う人ほど、だいたい途中で焦ります」


「耳が痛いです」


「痛いなら、まだ聞こえてます」


 黒川先生が横で小さく笑った。


「いいこと言うでしょう」


「刺さることしか言われてません」


「馬を持つって、だいたいそうよ」


 遠くから、エンジン音が聞こえた。


 馬運車が、ゆっくりと牧場の入口へ入ってくる。


 俺は無意識に息を止めていた。


 セール会場で落札した時、ミズノカケラはまだ数字と書類の中にいた。芦毛の牝馬が目の前を歩いていたのは確かだが、どこか現実味が薄かった。


 けれど、今は違う。


 馬運車が止まる。

 後ろの扉が開く。

 中から、馬の気配が降りてくる。


 担当者に引かれて、芦毛の牝馬が顔を出した。


 ミズノカケラ。


 若い白さではない。灰を含んだ、水のような芦毛。環境が変わったせいか、耳は少し忙しく動いている。目は大きく見開かれてはいないが、落ち着ききっているわけでもない。


 馬運車から降りる最初の一歩は、やはり硬かった。


 俺の胸も、同じように硬くなる。


 黒川先生が横で短く言った。


「見て」


「はい」


「買った後も、悪いところは消えない」


 先生らしい言葉だった。


 ミズノカケラは二歩、三歩と歩く。足元を確かめるように、少し慎重に。


 森下さんは近づきすぎず、少し離れた位置で見ている。


「出始めは硬いですね」


「はい」


「でも、慌ててはいない」


 その言葉通りだった。


 ミズノカケラは派手に暴れるわけではない。人に甘えるわけでもない。ただ、新しい場所の匂いを確かめるように鼻を動かし、ゆっくり首を上げる。


 牧場の通路を、少し歩かせる。


 一歩目の硬さ。

 十歩目の硬さ。

 二十歩目で、ほんの少しだけリズムが変わる。


 あの日、下見で見たものと同じだった。


 大きく変わるわけではない。

 誰が見ても分かるほど柔らかくなるわけでもない。


 それでも、歩き続けると、少しほどける。


 急がない。

 乱れない。

 止まらない。


 俺は小さく息を吐いた。


「同じですね」


「同じ?」


 黒川先生が聞く。


「下見の時と。同じです」


「良いところも、悪いところも?」


「はい」


「なら、ちゃんと見なさい。買った後の方が、都合よく見たくなるから」


 その言葉は刺さった。


 たぶん、そうなのだ。


 買ったからには、正しかったと思いたくなる。

 自分の判断は間違っていなかったと、都合のいい証拠を探したくなる。


 でも、ミズノカケラは名繁殖になったわけではない。


 ただ、俺の馬になっただけだ。


 それだけで、悪材料が消えるわけではない。


 森下さんが歩様を見ながら言う。


「まずは移動後の様子を見ます。飼い葉、体温、脚元、落ち着き。数日は無理に何かしません」


「お願いします」


「種付けの話は、その後ですね。焦って決める話じゃありません」


 俺は頷いた。


 種牡馬を選ぶ。

 血を繋ぐ。


 言葉だけなら、いくらでも夢を見られる。


 でも目の前には、輸送されてきたばかりの芦毛の牝馬がいる。歩き出しに硬さがあって、環境に少し緊張していて、まだこの場所を信用していない馬がいる。


 夢より先に段取り。


 先生の言葉が、腹のあたりに残っていた。


 ミズノカケラは、新しい馬房へ入った。


 最初は奥まで行かず、入口近くで止まった。鼻先を伸ばし、藁の匂いを嗅ぐ。壁を確かめるように顔を動かし、それから一歩だけ奥へ入る。


 森下さんが、馬房の前に名札を掛けた。


 ミズノカケラ。


 白い札に書かれたその名前を見て、ようやく実感が来た。


 この馬は、もうセール名簿の中の一行ではない。

 請求書の数字でもない。

 俺が手を上げた一二〇万円でもない。


 ここにいる。


 息をしている。

 藁を踏んでいる。

 耳を動かしている。


 黒川先生が隣で言う。


「これで、本当に来たわね」


「はい」


「嬉しい?」


 少し考えた。


 嬉しくないわけではない。


 でも、それだけではなかった。


「怖いです」


 正直に言うと、先生は少しだけ頷いた。


「その方がいいわ」


「いいんですか」


「怖くない人間に、何年も先の馬は預けられない」


 森下さんも、馬房の中のミズノカケラを見ながら言った。


「怖いなら、見ますからね。見ない人は、怖がりません」


 俺は、馬房の奥にいる芦毛の牝馬を見た。


 ハルサメノツキは、走る場所を探す馬だった。

 サビツキノエンジンは、走り方を取り戻す馬だった。


 ミズノカケラは、違う。


 この馬は、まだ生まれていない馬へ続いている。


 勝つかどうかも分からない。

 生まれるかどうかも分からない。

 名前がつくかどうかさえ、まだ分からない。


 それでも、ここから見るのは俺だ。


 ミズノカケラは、馬房の奥で静かに藁を踏んだ。


 その一歩は、レースへ向かう一歩ではない。


 まだ名前もない馬へ続く、最初の一歩だった。

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