第48話 百二十万円
相羽修二の札が、動いた。
上がる。
そう思った瞬間、胸の奥が固まった。
会場のざわめきが遠くなる。せり人の声も、隣の黒川先生の気配も、全部が一枚薄い膜の向こうへ押しやられたみたいだった。
一二〇万円。
俺が決めた上限。
俺が、自分で引いた線。
そこを越えたら、もうミズノカケラを買う理由ではなくなる。
分かっている。
分かっているのに、相羽さんの札が上がりかけた瞬間、腹の底で小さく声がした。
上げるな。
汚い声だった。
正直な声でもあった。
この馬を取られたくない。そう思ってしまった。
相羽さんにも相羽さんの理由があるとか、市場では誰が手を上げてもいいとか、そういう綺麗なことは一瞬で消えた。
ただ、上げないでくれと思った。
「三上さん」
黒川先生の声が、横から落ちてきた。
短い。
それだけで、俺がどこまで来ているかを思い出させるには十分だった。
俺は札を握ったまま、視線を前から外さずに言った。
「行きません」
先生は何も言わなかった。
止めもしない。
褒めもしない。
ただ、そこにいてくれた。
相羽さんは、資料へ目を落とした。ミズノカケラを見る。隣にいる男と何か短く言葉を交わす。
札は、まだ完全には上がっていない。
ミズノカケラは、会場の中を歩いていた。
芦毛の牝馬。若い白さではなく、灰を含んだ水のような色。歩き出しの硬さは、ここでも消えていない。
それでも、歩いているうちに、少しずつリズムがほどけていく。
自分の値段が決まろうとしていることなど、知るはずもない顔で。
相羽さんの手が、止まった。
ほんの数秒だったはずなのに、やけに長かった。
やがて、相羽さんは小さく息を吐き、札を下ろした。
「ここまでかな」
近くにいた男へ、そう言ったのが聞こえた。
冷たい声ではなかった。悔しそうでも、怒っているようでもない。ただ、自分の中にある線を確認して、そこから先へ行かなかった人間の声だった。
せり人の声が戻ってくる。
「一二〇万円。一二〇万円でございます。ほかにございませんか」
会場が少しだけ静かになる。
俺は手を上げる必要がないのに、札を握りしめていた。指が固い。手の中に汗がにじんでいる。
「一二〇万円」
もう一度、声が響く。
ミズノカケラが歩く。
一歩。二歩。三歩。
誰も手を上げない。
「では、一二〇万円で落札」
その言葉が落ちた。
ハンマーの音がしたのか、声だけだったのか、はっきり覚えていない。
ただ、決まった。
ミズノカケラは、俺の馬になった。
いや。
俺の馬になってしまった。
最初に浮かんだのは、喜びではなかった。
輸送。
預託。
獣医検査。
保険。
種付け。
受胎。
出産。
仔馬が立つまで。
走るまで。
まだ何も始まっていないのに、先の時間だけが一気にこちらへ流れ込んでくる。
黒川先生が、隣で静かに言った。
「買ったわね」
「買いました」
喉が少し乾いていた。
少し間を置いて、言い直す。
「……買ってしまいました」
先生は俺の顔を見た。
「その感覚があるなら、まだ大丈夫」
「大丈夫ですか」
「大丈夫かどうかは、これから決めるのよ」
いつもの黒川先生だった。
優しくもない。
冷たくもない。
ただ、現実へ戻す。
その声で、少し息ができた。
落札後の手続きを終えようとしていると、相羽さんがこちらへ歩いてきた。
俺は一瞬、身構えた。
相羽さんはそれに気づいたのか、少しだけ笑う。
「そんな顔をしなくても。取って食ったりしませんよ」
「すみません」
「落札、おめでとうございます」
自然な声だった。
嫌味はない。
ただ、同じ馬に手を上げかけた人間として、結果を受け止めている声だった。
「ありがとうございます」
「うちも少し見てました。あの価格なら、と思って」
相羽さんは会場の方へ視線を向ける。
「ただ、一二〇を超えるなら、別の馬に回すつもりでした。空胎で、年齢もあって、産駒成績もない。歩様の硬さもある」
「はい」
「いいところを見ているとは思いました。でも、難しい馬ですよ」
その言い方が、妙に胸に残った。
否定ではない。
警告でもある。
そして、少しだけ認めてもいる。
「難しい馬だと思います」
俺が答えると、相羽さんは頷いた。
「難しい馬を、難しいと分かって買うなら、まだいい。分かってない人が買うと、馬も人も困りますから」
その言葉は重かった。
馬を買う人間は、馬を救う人間ではない。
買った後に困らせることもある。
それを、忘れてはいけない。
「覚えておきます」
「ええ。お互い、安い馬ほど高くつくことがありますから」
相羽さんは苦笑して、軽く頭を下げた。
悪い人ではなかった。
敵でもなかった。
ただ、自分の線を持っている買い手だった。
その背中を見送りながら、俺は自分の札を見下ろした。
一二〇万円。
数字としては、中央の良血馬に比べれば小さい。
さっきまで会場で動いていた金額からすれば、決して大きな勝負ではない。
でも俺にとっては、軽くない。
黒川先生が横で資料をまとめる。
「浮かれてる暇はないわよ」
「まだ浮かれてません」
「ならいいわ。買った馬は、紙から出てくる」
先生は指を折るように続けた。
「輸送日。預け先。獣医チェック。繁殖としての状態確認。保険。今後の預託料。種付け相手は今すぐ決めない。まず、無事に移動させる」
「夢より先に段取り、ですね」
「分かってるじゃない」
「黒川先生に言われる前に言っておこうと思って」
「かわいげがない」
「馬主としては褒め言葉ですか」
「半分くらいは」
先生はそう言って、少しだけ口元を緩めた。
その時、スマホが震えた。
久坂さんからだった。
短い文面。
『決まりましたか?』
俺は少し考えてから、返信を打った。
『うちで引き受けることになりました』
すぐに既読がつき、少し間があって返事が来た。
『そうですか。あの馬、派手ではないですけど、悪い馬じゃないです。よろしくお願いします』
派手ではない。
悪い馬じゃない。
ミズノカケラには、その言葉がよく似合っていた。
会場の向こうで、ミズノカケラが厩務員に引かれていく。
こちらを見たわけではない。耳が動いたかどうかも分からない。
芦毛の背中が、ゆっくり遠ざかる。
あの馬は、まだ何も証明していない。
競走馬としては、中央未勝利。地方で一勝。
繁殖牝馬としては、産駒三頭未勝利。空胎。
歩き出しには硬さがあり、年齢も若くない。
買わない理由は、何一つ消えていない。
それでも俺は、手を上げた。
勝てる未来が見えたわけじゃない。
生まれてくる仔の姿が見えたわけでもない。
ただ、この血を、短いところで速さだけ問う血として終わらせたくなかった。
それは、理由としては足りないのかもしれない。
でも、俺が一二〇万円まで手を上げるには、十分だった。
ミズノカケラは、何も知らない顔で歩いていた。
一二〇万円。
俺が決めた理由の、最後の値段。
その値段で、まだ走っていない時間が、俺の馬になった。




