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安馬しか買えない弱小馬主の俺、スキル《相馬眼》で“勝てる場所”を見抜く  作者: ペンは休み休みもて(ペンもて)
第六章 誰も見ない血

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第48話 百二十万円

 相羽修二の札が、動いた。


 上がる。


 そう思った瞬間、胸の奥が固まった。


 会場のざわめきが遠くなる。せり人の声も、隣の黒川先生の気配も、全部が一枚薄い膜の向こうへ押しやられたみたいだった。


 一二〇万円。


 俺が決めた上限。

 俺が、自分で引いた線。


 そこを越えたら、もうミズノカケラを買う理由ではなくなる。


 分かっている。


 分かっているのに、相羽さんの札が上がりかけた瞬間、腹の底で小さく声がした。


 上げるな。


 汚い声だった。

 正直な声でもあった。


 この馬を取られたくない。そう思ってしまった。


 相羽さんにも相羽さんの理由があるとか、市場では誰が手を上げてもいいとか、そういう綺麗なことは一瞬で消えた。


 ただ、上げないでくれと思った。


「三上さん」


 黒川先生の声が、横から落ちてきた。


 短い。

 それだけで、俺がどこまで来ているかを思い出させるには十分だった。


 俺は札を握ったまま、視線を前から外さずに言った。


「行きません」


 先生は何も言わなかった。


 止めもしない。

 褒めもしない。


 ただ、そこにいてくれた。


 相羽さんは、資料へ目を落とした。ミズノカケラを見る。隣にいる男と何か短く言葉を交わす。


 札は、まだ完全には上がっていない。


 ミズノカケラは、会場の中を歩いていた。


 芦毛の牝馬。若い白さではなく、灰を含んだ水のような色。歩き出しの硬さは、ここでも消えていない。


 それでも、歩いているうちに、少しずつリズムがほどけていく。


 自分の値段が決まろうとしていることなど、知るはずもない顔で。


 相羽さんの手が、止まった。


 ほんの数秒だったはずなのに、やけに長かった。


 やがて、相羽さんは小さく息を吐き、札を下ろした。


「ここまでかな」


 近くにいた男へ、そう言ったのが聞こえた。


 冷たい声ではなかった。悔しそうでも、怒っているようでもない。ただ、自分の中にある線を確認して、そこから先へ行かなかった人間の声だった。


 せり人の声が戻ってくる。


「一二〇万円。一二〇万円でございます。ほかにございませんか」


 会場が少しだけ静かになる。


 俺は手を上げる必要がないのに、札を握りしめていた。指が固い。手の中に汗がにじんでいる。


「一二〇万円」


 もう一度、声が響く。


 ミズノカケラが歩く。

 一歩。二歩。三歩。


 誰も手を上げない。


「では、一二〇万円で落札」


 その言葉が落ちた。


 ハンマーの音がしたのか、声だけだったのか、はっきり覚えていない。


 ただ、決まった。


 ミズノカケラは、俺の馬になった。


 いや。


 俺の馬になってしまった。


 最初に浮かんだのは、喜びではなかった。


 輸送。

 預託。

 獣医検査。

 保険。

 種付け。

 受胎。

 出産。

 仔馬が立つまで。

 走るまで。


 まだ何も始まっていないのに、先の時間だけが一気にこちらへ流れ込んでくる。


 黒川先生が、隣で静かに言った。


「買ったわね」


「買いました」


 喉が少し乾いていた。


 少し間を置いて、言い直す。


「……買ってしまいました」


 先生は俺の顔を見た。


「その感覚があるなら、まだ大丈夫」


「大丈夫ですか」


「大丈夫かどうかは、これから決めるのよ」


 いつもの黒川先生だった。


 優しくもない。

 冷たくもない。

 ただ、現実へ戻す。


 その声で、少し息ができた。


 落札後の手続きを終えようとしていると、相羽さんがこちらへ歩いてきた。


 俺は一瞬、身構えた。


 相羽さんはそれに気づいたのか、少しだけ笑う。


「そんな顔をしなくても。取って食ったりしませんよ」


「すみません」


「落札、おめでとうございます」


 自然な声だった。


 嫌味はない。

 ただ、同じ馬に手を上げかけた人間として、結果を受け止めている声だった。


「ありがとうございます」


「うちも少し見てました。あの価格なら、と思って」


 相羽さんは会場の方へ視線を向ける。


「ただ、一二〇を超えるなら、別の馬に回すつもりでした。空胎で、年齢もあって、産駒成績もない。歩様の硬さもある」


「はい」


「いいところを見ているとは思いました。でも、難しい馬ですよ」


 その言い方が、妙に胸に残った。


 否定ではない。

 警告でもある。

 そして、少しだけ認めてもいる。


「難しい馬だと思います」


 俺が答えると、相羽さんは頷いた。


「難しい馬を、難しいと分かって買うなら、まだいい。分かってない人が買うと、馬も人も困りますから」


 その言葉は重かった。


 馬を買う人間は、馬を救う人間ではない。

 買った後に困らせることもある。


 それを、忘れてはいけない。


「覚えておきます」


「ええ。お互い、安い馬ほど高くつくことがありますから」


 相羽さんは苦笑して、軽く頭を下げた。


 悪い人ではなかった。


 敵でもなかった。


 ただ、自分の線を持っている買い手だった。


 その背中を見送りながら、俺は自分の札を見下ろした。


 一二〇万円。


 数字としては、中央の良血馬に比べれば小さい。

 さっきまで会場で動いていた金額からすれば、決して大きな勝負ではない。


 でも俺にとっては、軽くない。


 黒川先生が横で資料をまとめる。


「浮かれてる暇はないわよ」


「まだ浮かれてません」


「ならいいわ。買った馬は、紙から出てくる」


 先生は指を折るように続けた。


「輸送日。預け先。獣医チェック。繁殖としての状態確認。保険。今後の預託料。種付け相手は今すぐ決めない。まず、無事に移動させる」


「夢より先に段取り、ですね」


「分かってるじゃない」


「黒川先生に言われる前に言っておこうと思って」


「かわいげがない」


「馬主としては褒め言葉ですか」


「半分くらいは」


 先生はそう言って、少しだけ口元を緩めた。


 その時、スマホが震えた。


 久坂さんからだった。


 短い文面。


『決まりましたか?』


 俺は少し考えてから、返信を打った。


『うちで引き受けることになりました』


 すぐに既読がつき、少し間があって返事が来た。


『そうですか。あの馬、派手ではないですけど、悪い馬じゃないです。よろしくお願いします』


 派手ではない。

 悪い馬じゃない。


 ミズノカケラには、その言葉がよく似合っていた。


 会場の向こうで、ミズノカケラが厩務員に引かれていく。


 こちらを見たわけではない。耳が動いたかどうかも分からない。


 芦毛の背中が、ゆっくり遠ざかる。


 あの馬は、まだ何も証明していない。


 競走馬としては、中央未勝利。地方で一勝。

 繁殖牝馬としては、産駒三頭未勝利。空胎。

 歩き出しには硬さがあり、年齢も若くない。


 買わない理由は、何一つ消えていない。


 それでも俺は、手を上げた。


 勝てる未来が見えたわけじゃない。

 生まれてくる仔の姿が見えたわけでもない。


 ただ、この血を、短いところで速さだけ問う血として終わらせたくなかった。


 それは、理由としては足りないのかもしれない。

 でも、俺が一二〇万円まで手を上げるには、十分だった。


 ミズノカケラは、何も知らない顔で歩いていた。


 一二〇万円。


 俺が決めた理由の、最後の値段。


 その値段で、まだ走っていない時間が、俺の馬になった。

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