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安馬しか買えない弱小馬主の俺、スキル《相馬眼》で“勝てる場所”を見抜く  作者: ペンは休み休みもて(ペンもて)
第六章 誰も見ない血

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第47話 セールの日

 セール会場の空気は、競馬場とも厩舎とも違っていた。


 馬の匂いはある。

 蹄の音もある。

 人の視線もある。


 けれど、そこに混じっているものが違う。


 ここでは、馬が走る前に値段がつく。


 会場に入った瞬間から、耳に入ってくる言葉がやけに生々しかった。


「受胎してるなら、この価格は見る」

「母系はいいけど、年齢がな」

「空胎か。なら安くても迷う」

「この産駒成績でこの希望価格は強気だろ」


 名前より先に、条件が出る。

 馬体より先に、価格が出る。

 夢より先に、維持費が出る。


 当たり前だ。


 ここは、そういう場所だった。


 隣を歩く黒川先生は、いつも通りの顔をしていた。俺だけが、少し足元を見失いそうになっている。


「会場の熱に呑まれない」


 先生が言った。


「はい」


「上限は」


「一二〇万円です」


「即答できるうちはいいわ」


 先生はそれだけ言って、前を向いた。


 一二〇万円。


 昨夜、紙に書いた数字。

 ミズノカケラに手を上げるなら、そこまで。

 そこを超えたら、見送る。


 何度も自分に言い聞かせた。


 それでも、会場の空気は数字の重さを変えてくる。


 最初に見た繁殖牝馬は、若かった。馬体に張りがあり、受胎もしている。近親には中央で勝ち上がった馬がいて、周囲の人間の目も違った。


 せりが始まると、金額はすぐに俺の感覚から離れていった。


 百万円。

 二百万円。

 三百万円。


 札が上がるたびに、会場のざわめきが少しだけ動く。


 俺が持ってきた一二〇万円は、この場所では勝負金ではない。

 境界線だった。


 手を伸ばせる範囲と、伸ばしてはいけない範囲を分ける線だ。


「大丈夫?」


 先生が聞く。


「桁の勉強をしています」


「高い授業料を払わないでね」


「まだ見てるだけです」


「その言葉、信用してない」


 否定できなかった。


 数頭の上場が終わったあと、俺は資料を見直した。


 ミズノカケラ。

 販売希望価格、八十万円。

 空胎。

 産駒三頭未勝利。

 歩様にやや硬さあり。

 芦毛。


 紙の上には、買わない理由が今日もきれいに並んでいる。


 会場の端で、ひとりの男が同じ資料を見ていた。


 四十代くらい。派手な服装ではない。少し古いジャケットに、使い込まれた革靴。資料に付箋が貼ってある。


 その男の横にいた係員が、小さく名前を呼んだ。


「相羽さん、次の次です」


「ああ」


 相羽、と呼ばれた男は短く返事をして、資料から顔を上げた。


 視線が一瞬、こちらに来る。


 敵意はない。

 興味も、強くはない。


 ただ、同じ上場馬を見ている人間の目だった。


 黒川先生が、声を落とす。


「昨日の一組かもしれないわね」


「……はい」


「悪い人には見えない」


「そうですね」


「だから、余計にやりにくいわよ」


 先生の言う通りだった。


 悪い相手から守る話ではない。

 ミズノカケラを不当に扱う誰かと戦う話でもない。


 安い繁殖牝馬を探している人間がいる。

 条件が合えば、手を上げる。

 それだけだ。


 その人にとっても、これは仕事なのだ。


 ミズノカケラの上場が近づく。


 先生が資料を閉じた。


「ここで見送っても、間違いじゃないわ」


「はい」


「本当に分かってる?」


「分かってます」


「なら、いい」


 その言葉は、許可ではなかった。


 ただ、俺が自分で決めるための余白だった。


 やがて、芦毛の牝馬が引かれてきた。


 ミズノカケラ。


 会場の明かりの下で見る彼女は、牧場で見た時より少しだけ白く見えた。けれど、若い馬のような明るい白ではない。灰を含んだ水のような色が、体のところどころに残っている。


 派手ではない。


 目を奪われる馬体でもない。


 周囲の視線も、一瞬だけ向いて、すぐ資料へ戻っていく。


 歩き出しは、やはり少し硬かった。


 黒川先生が小さく息を吐く。


「消えないわね」


「はい」


 買わない理由は、目の前でも消えない。


 けれど、ミズノカケラは歩く。


 一歩。

 二歩。

 三歩。


 最初の硬さは残っている。

 それでも、周回を重ねるうちに、わずかにリズムがほどけていく。


 急がない。

 乱れない。

 誰かに見せつけるような歩きではない。


 ただ、止まらない。


 俺は札を握った。


 手の中が少し汗ばむ。


 せり台から、上場番号と馬名が告げられる。父、母、競走成績、繁殖成績。空胎であること。販売希望価格。


 八十万円。


 会場は静かだった。


 誰も、すぐには動かない。


 その静けさが、かえって胸に悪かった。


 先生は何も言わない。

 止めもしない。促しもしない。


 俺は、息を吸った。


 手を上げる。


「八十万円」


 声が会場に落ちた。


 一度上げてしまえば、もう名簿の中の名前ではなかった。


 ミズノカケラに、値段がついた。


 次の瞬間、少し離れた場所で札が上がる。


「九十万円」


 相羽さんだった。


 顔色は変わらない。

 熱くなっている様子もない。


 安ければ手を上げる。

 その言葉通りの、静かな札だった。


 俺は資料の端を見た。


 一二〇万円。


 まだ、上限ではない。


 手を上げる。


「一〇〇万円」


 会場の空気が、ほんの少し動いた。


 百万円。


 数字の響きが変わる。

 八十万円と二十万円しか違わないのに、境目を一つ越えた感じがした。


 相羽さんが、ミズノカケラを見る。


 札が上がる。


「一一〇万円」


 胸の奥が、また詰まった。


 ここで降りれば、一〇〇万円で終わる。

 ここで手を上げれば、次が最後になる。


 黒川先生が短く言った。


「上限は」


「一二〇万円です」


「それ以上は」


「行きません」


 俺は答えた。


 手の中の札が、やけに重い。


 ミズノカケラは、会場の中を歩いている。

 いつも通り、派手さはない。

 少し硬い。

 少しずつ、ほどける。


 誰にも選ばれなかった血。


 そう思っていた馬に、もう一人が手を上げている。


 それでも、俺の理由は変わらない。


 この血を、短いところで速さだけ問う血として終わらせたくない。

 ただし、そのために俺が越えていい線は、ここまでだ。


 俺は札を上げた。


「一二〇万円」


 声が落ちる。


 それが、俺の最後の値段だった。


 先生の横顔は見なかった。

 見れば、余計なものが混じりそうだった。


 視線の先で、相羽さんが資料を見直している。


 ミズノカケラを見る。

 札を見る。

 係員を見る。


 時間は数秒だったはずなのに、やけに長い。


 俺の手は、もう上がらない。


 一二〇万円。


 俺が決めた理由の、最後の値段だった。


 その向こう側で、もう一枚の札が、ゆっくりと動いた。

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