第46話 買う理由
帰りの車の中で、俺はあまり喋らなかった。
日高の道は、来る時と同じように広かった。牧草地が流れていき、遠くの柵の向こうで馬が首を下げている。空は低く、雲の色は少し重い。
助手席の黒川先生は、しばらく黙っていた。
けれど、俺が三つ目の信号を無言で曲がったあたりで、静かに言った。
「誰かが見ると聞いたから欲しくなっただけなら、やめなさい」
ハンドルを握る指に、少し力が入った。
「……はい」
「否定しないのね」
「否定できません」
ミズノカケラを見た。
歩き出しは硬かった。
若くもない。
産駒も走っていない。
空胎で、流行血統でもない。
買わない理由は、何一つ消えていない。
それなのに、明日別の一組が見に来ると聞いた瞬間、胸の奥が詰まった。
それが、見立てから来る焦りなのか。
ただ、誰かに取られるのが嫌なだけなのか。
自分でも、まだ分からなかった。
「馬主の焦りは、だいたい高くつくわよ」
「分かってます」
「本当に?」
「分かってるつもりです」
「その言い方が一番危ない」
先生の声は厳しかった。
けれど、それは俺を止めるためだけではない。俺が何に引っかかっているのか、きちんと見極めろと言っているようにも聞こえた。
ホテルに戻っても、俺はすぐには眠れなかった。
机の上に資料を広げる。
ミズノカケラの戦績表。産駒三頭の成績。今日のメモ。久坂さんの言葉。
急がせると良くない。
速い脚があるタイプじゃない。
短いところだと忙しくなって、形が崩れる。
出始めは硬いが、しばらく歩くとほどける。
ノートパソコンで、地方ダート千七百の映像をもう一度開いた。
画質の荒い画面の中で、若いミズノカケラが走っている。
速くない。
切れない。
弾けない。
けれど、止まらない。
直線で前の馬が苦しくなる。ミズノカケラは派手に交わさない。一完歩ずつ、少しずつ、差を削る。実況の声が、最後にようやくその名前を拾う。
次に、産駒の映像を開く。
一頭目。芝千二百。追走に忙しい。
二頭目。芝千四百。直線で置かれる。
三頭目。ダート千二百。押しても押しても、脚が溜まらない。
どれも弱いと言われれば、それまでだ。
でも、本当にそれだけか。
俺は画面を止めた。
今日見たミズノカケラの歩き出しを思い出す。最初の硬さ。少しずつ薄れていく引っかかり。十歩目より二十歩目、二十歩目より三十歩目。急がず、乱れず、淡々と続くリズム。
映像の中の一勝と、目の前で見た歩き方と、産駒たちが短いところで忙しくなっていた記録。
ばらばらだったものが、少しだけ同じ方向を向いた気がした。
見えた、というほど強くはない。
ハルサメノツキの時のような鮮明さもない。
サビツキノエンジンの時のような熱もない。
ただ、ずれていた線が、一本だけ重なった。
勝てる未来が見えたわけじゃない。
生まれてもいない仔の姿が見えたわけでもない。
ただ、この血を、短いところで速さだけ問う血として終わらせてはいけない。
それだけは、妙にはっきりしていた。
「……でも、買う理由じゃない」
声に出して、自分に言い聞かせる。
これは買う理由ではない。
見たい理由だ。
手を上げる理由になりかけているだけだ。
そして、手を上げるなら、金額を決めなければならない。
翌朝、黒川先生はホテルのラウンジでコーヒーを飲んでいた。
俺が向かいに座ると、先生はカップを置いた。
「寝た?」
「少し」
「嘘が下手ね」
「少しは寝ました」
「三十分も睡眠に含めるならね」
ばれていた。
俺は資料をテーブルに置いた。
「買う理由は、まだ足りません」
「なら、買わないのが普通」
「はい」
先生は俺を見る。
「でも?」
「手を上げる理由はできました」
先生は、すぐには返さなかった。
俺は続ける。
「ミズノカケラが当たりだとは思ってません。繁殖として成功する保証もない。むしろ、危ない材料の方が多いです」
「ええ」
「でも、あの馬と産駒たちは、ずっと短いところで速さを問われていたように見えます」
資料の一枚を指で押さえる。
「母自身が唯一勝ったのは、地方ダート千七百。昨日見た歩き方も、急がせるより、歩かせてリズムが出るタイプでした。産駒三頭も、短いところで決め手不足と言われている」
「可能性は証拠じゃないわよ」
「分かってます」
ここは譲らない。
ただし、強がりもしない。
「だから、無理はしません」
「無理って、どこから?」
「上限を決めます」
先生の目が少し細くなった。
俺は名簿の写しを出した。ミズノカケラの販売希望価格は八十万円。安い。安いが、本体価格だけで済むわけではない。
「本体価格だけ見ない」
先生がすぐに言った。
「輸送費、預託料、検査、保険、来年の種付け。受胎しなければ次もかかる。産まれてからも終わりじゃない。むしろ、そこから始まる」
「はい」
「八十万円の馬を買う話じゃないのよ」
「分かってます」
「本当に?」
「今回は、ちゃんと」
俺はノートに数字を書いた。
一二〇万円。
「これを上限にします」
先生はその数字を見た。
「それ以上は?」
「行きません」
「競りで熱くなっても?」
「行きません」
「隣で誰かが手を上げても?」
「行きません」
先生の視線が、俺から数字へ移る。
「そこを超えたら、俺の買う理由じゃなくなります」
言ってから、自分でも少し驚いた。
でも、その通りだった。
俺が手を上げる理由は、ミズノカケラをどうしても手に入れたいからではない。
誰かに取られたくないからでもない。
この馬を、今までと同じ物差しで終わらせるのは違うかもしれない。
その可能性に、俺の出せる範囲で手を伸ばす。
それだけだ。
先生はしばらく黙っていた。
やがて、カップを持ち上げる。
「私は、この馬を勧めない」
「はい」
「リスクが多い。見えない部分も多い。馬体の硬さも、繁殖成績のなさも、年齢も、全部気になる」
「はい」
「でも」
先生は一拍置いた。
「あなたが何を見たのかは、少し分かった」
その言葉は、予想していたより重かった。
賛成ではない。
許可でもない。
それでも、止めるだけではない言葉だった。
「ありがとうございます」
「まだ礼を言うところじゃない」
「はい」
「上限は守ること」
「守ります」
「破ったら?」
「破りません」
「答えになってない」
先生は少しだけ目を細めた。
「破ったら、しばらく私の前で馬を買う話は禁止」
「それは重いですね」
「軽い罰で済むと思わないこと」
「守ります」
そこまで話したところで、先生のスマホが震えた。
画面を見た先生の表情が、少しだけ変わる。
「久坂さんから」
俺は黙って待った。
先生が短く返信し、画面をこちらに向ける。
今日の一組、ミズノカケラも見ていきました。
安ければ手を上げるかもしれないそうです。
文字だけなのに、車の中で聞いた時と同じ詰まりが胸に戻ってきた。
でも、昨日とは少し違った。
焦りはある。
ないと言えば嘘になる。
ただ、今の俺には数字があった。
一二〇万円。
そこまでなら手を上げる。
そこを超えたら、見送る。
たとえ誰かが買っても、それは俺の馬ではなかったということだ。
そう言い切るには、まだ少しだけ苦い。
けれど、馬主は欲しいだけで馬を持つわけにはいかない。
先生が聞く。
「どうする?」
俺はノートの数字を見た。
八十万円ではない。
一二〇万円。
自分で決めた境界線だ。
「変えません」
「本当に?」
「はい」
先生の目を見て答える。
「ミズノカケラを買えるかどうかは、まだ分かりません。でも、俺が手を上げる理由は決まりました」
資料の上に、指を置く。
「その理由を、焦りで汚したくありません」
先生は何も言わなかった。
ただ、少しだけ口元を緩める。
「少しは馬主らしくなったじゃない」
「半分くらいですか」
「今日は、七割くらい」
「高評価ですね」
「調子に乗らない」
俺は小さく笑った。
窓の外では、北海道の朝が静かに明るくなっていく。
ミズノカケラを買えるかどうかは、まだ分からない。
けれど、手を上げる理由だけは、もう他人に渡さないと決めた。




