第45話 水の欠片
北海道の風は、思っていたより乾いていた。
空港からレンタカーに乗り、日高の方へ向かう。窓の外には、広い牧草地と、低い雲と、遠くに見える馬の影が流れていく。
観光なら、きっと綺麗だと思えた。
けれど、助手席の黒川先生は地図を見ながら言った。
「旅費も馬主の出費よ」
「勉強代です」
「高い勉強にしないで」
「努力します」
「そこで即答しないのが怖いのよ」
俺はハンドルを握ったまま、少しだけ苦笑した。
ミズノカケラ。
中央未勝利。地方一勝。産駒三頭未勝利。空胎。若くない。流行血統でもない。歩様にやや硬さあり。
買わない理由なら、もう十分にある。
それでも、俺はその馬を見に来ていた。
見ないまま終わらせるには、少しだけ引っかかりすぎていた。
目的地の牧場は、大きな道路から少し入った場所にあった。
立派な看板や、新しい厩舎が並ぶ牧場ではない。木製の看板は少し色が褪せていて、厩舎も新しくはない。ただ、古びているだけではなかった。柵は直されているし、通路は掃かれている。小さくても、手は抜かれていない場所だと分かる。
車を停めると、作業着姿の男がこちらに歩いてきた。
「黒川先生ですか」
「はい。今日はお世話になります」
「久坂です。わざわざ遠くからどうも」
久坂洋平と名乗ったその人は、三十代後半くらいに見えた。日に焼けた顔で、笑うと目尻に皺が寄る。
俺も名刺を出す。
「三上です」
「ああ、馬主さん。ミズノカケラですよね」
「はい」
久坂さんは、少しだけ不思議そうに笑った。
「見に来る人、珍しいですよ」
その一言で、だいたいの評価は分かった。
ミズノカケラは、やはり誰もが見たい馬ではない。
久坂さんに案内され、厩舎の奥へ向かう。
馬房の前で足を止めた時、中にいた牝馬がゆっくりと顔を上げた。
芦毛の牝馬だった。
ただ、若い馬のような白さではない。ところどころに暗い毛が残り、冬の水面に薄く灰を溶かしたような色をしている。
顔立ちは悪くない。けれど、目を引く華やかさはない。若い繁殖牝馬のような張りも薄い。腹袋はあるが、全体に少し寂しく見える。
こちらを見たが、寄ってはこない。
警戒しているわけではない。人間に期待していない、という方が近かった。
「ミズノカケラです」
久坂さんが言う。
黒川先生は、黙って馬体を見ていた。首、肩、背、腰、脚元。視線が速い。
「出せますか」
「はい」
久坂さんが無口に頷き、無口頭絡をつける。
馬房から出てきたミズノカケラは、最初の数歩で少し硬さを見せた。
大きな異常ではない。
けれど、見れば分かる。
脚の出が、わずかに重い。
「硬いわね」
先生が短く言った。
「はい」
俺も否定しなかった。
ここで見なかったことにしたら、何のために北海道まで来たのか分からない。
久坂さんも、取り繕わなかった。
「出始めはいつもこんな感じです。しばらく歩かせると、少しほどけますけど」
「故障歴は?」
「大きなものは聞いてません。ただ、若い頃から急がせるとあんまり良くない馬でしたね」
「急がせると?」
「真面目なんです。言われたら走ろうとする。でも、速い脚があるタイプじゃない。短いところだと忙しくなって、形が崩れる」
俺はその言葉を頭の中で繰り返した。
急がせると、形が崩れる。
「産駒はどうでしたか」
先生が聞く。
「気は悪くなかったです。ただ、みんな決め手がないって言われました。速い脚がない、最後甘い、って」
資料で見た短評と同じだった。
芝千二百。
芝千四百。
ダート千二百。
短いところを使われて、追走に忙しくなって、最後に甘いと言われる。
母も、同じように言われていた。
久坂さんがミズノカケラを引いて歩き出す。
最初の一周は、やはり硬い。
黒川先生の目が厳しくなる。
「この硬さは、買う側からすれば怖いわよ」
「分かってます」
「本当に?」
「今日は半分じゃなく、ちゃんと分かってます」
「ならいいけど」
歩く。
蹄が地面を叩く音が、厩舎脇の通路に響く。
ミズノカケラは急がない。頭を低くしすぎることもなく、かといって気持ちよく前へ弾む感じでもない。
地味だ。
本当に、地味だった。
ただ、二周目に入ったあたりで、少しだけ変わった。
脚の運びが、大きくなったわけではない。見違えるほど柔らかくなったわけでもない。黒川先生が一目で頷くような、分かりやすい変化ではない。
けれど、リズムが途切れなくなった。
歩き出しにあった引っかかりが、ほんの少し薄れる。
一歩目より、十歩目。
十歩目より、二十歩目。
急がず、乱れず、淡々と続く。
俺の中で、古い映像が重なった。
地方ダート千七百。
切れない。弾けない。実況に大きく名前を呼ばれるような脚でもない。
ただ、止まらなかった。
「……この馬」
思わず口に出しかけて、止めた。
まだ早い。
見たいものを見ているだけかもしれない。
そう思いたいだけかもしれない。
黒川先生の言葉が頭に残っている。
可能性は、証拠じゃない。
久坂さんがミズノカケラを止めた。
「どうですか」
聞かれて、俺はすぐには答えなかった。
代わりに、一つだけ確認する。
「普段から、歩かせると変わりますか」
久坂さんが少し目を開いた。
「ええ。出始めは硬いんですけど、しばらく歩くとほどける感じはあります。若い頃からそうでしたね。最初からビューッと行く馬じゃない」
黒川先生が、俺を見た。
責める目ではない。
ただ、見つけたものをどう扱うのか、確かめる目だった。
「急がせると良くない。でも、歩かせてリズムが出れば止まりにくい」
俺は言った。
久坂さんは頷く。
「そんな感じです。だから、悪い馬じゃないんです。ただ、売れる馬かって言われると……難しいですね」
正直な言葉だった。
悪く言わない。
けれど、美化もしない。
それがかえって信じられた。
ミズノカケラに近づく。
逃げない。
寄ってもこない。
俺が手を差し出すと、鼻先で少しだけ匂いを確認した。それから、興味をなくしたように横を向く。
拒絶ではない。
期待でもない。
もう人間に何かを求めるのをやめているような、静かな横顔だった。
芦毛の薄い毛並みが、曇った空の下で少しだけ淡く見えた。
「悪くないところを探すのと、買う理由を作るのは違うわよ」
先生が言う。
「分かってます」
「本当に?」
「半分くらいは」
「そこで半分にしない」
「……ちゃんと分かってます」
言い直すと、先生は小さく息を吐いた。
牧場の風が、ミズノカケラのたてがみを揺らす。派手な馬ではない。目を奪われる馬体でもない。セール会場で並んだら、多くの人は一度見て、すぐ隣へ移るだろう。
買わない理由は消えていない。
むしろ、目の前で見たことで、はっきりした。
硬さはある。
年齢もある。
繁殖成績もない。
空胎。
市場で人気になる要素も少ない。
それでも。
紙に書かれていた一勝と、目の前の歩き方が、俺の中で細く繋がっていた。
「買う理由は、まだ足りません」
俺は言った。
先生は黙って続きを待った。
「でも、紙だけで切らなくてよかったとは思います」
「それは、私も否定しない」
少し意外だった。
先生はミズノカケラを見ている。
「ただし、買うなら別。今見えたものより、見えなかったリスクの方が大きい可能性もある」
「はい」
「情で買わない」
「はい」
「名前がきれいだから買わない」
「それは少し危なかったです」
「危なかったんじゃない」
先生の声が一段低くなる。
「危ないのよ」
俺は黙って頷いた。
下見を終え、久坂さんに礼を言う。
「ありがとうございました」
「いえ。正直、あまり目立つ馬じゃないんで、ちゃんと見てもらえるだけでもありがたいです」
久坂さんはミズノカケラの首を軽く撫でた。
ミズノカケラは、やはり大きな反応をしない。ただ、耳だけを少し動かした。
「明日も一組、見に来るそうですし」
俺は足を止めた。
黒川先生も、わずかに顔を上げる。
「ミズノカケラをですか」
「ええ。まあ、何頭かまとめて見るみたいですけど。安い繁殖を探してる方らしくて」
誰も見ない馬。
そう思っていた。
少なくとも、そういう馬としてここまで来た。
けれど、本当に誰も見ないわけではない。安い馬には、安い馬を探す人間がいる。理由があって避けられる馬にも、別の理由で手を伸ばす人間がいる。
ミズノカケラがその人にとって本命かどうかは分からない。
ただ、明日、誰かがこの馬を見る。
その事実だけで、胸の奥が少しだけ詰まった。
買わない理由は、何一つ消えていない。
それなのに、明日誰かがこの馬を見ると聞いた瞬間、俺は少しだけ、息をするのを忘れていた。




