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安馬しか買えない弱小馬主の俺、スキル《相馬眼》で“勝てる場所”を見抜く  作者: ペンは休み休みもて(ペンもて)
第六章 誰も見ない血

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第45話 水の欠片

 北海道の風は、思っていたより乾いていた。


 空港からレンタカーに乗り、日高の方へ向かう。窓の外には、広い牧草地と、低い雲と、遠くに見える馬の影が流れていく。


 観光なら、きっと綺麗だと思えた。


 けれど、助手席の黒川先生は地図を見ながら言った。


「旅費も馬主の出費よ」


「勉強代です」


「高い勉強にしないで」


「努力します」


「そこで即答しないのが怖いのよ」


 俺はハンドルを握ったまま、少しだけ苦笑した。


 ミズノカケラ。


 中央未勝利。地方一勝。産駒三頭未勝利。空胎。若くない。流行血統でもない。歩様にやや硬さあり。


 買わない理由なら、もう十分にある。


 それでも、俺はその馬を見に来ていた。


 見ないまま終わらせるには、少しだけ引っかかりすぎていた。


 目的地の牧場は、大きな道路から少し入った場所にあった。


 立派な看板や、新しい厩舎が並ぶ牧場ではない。木製の看板は少し色が褪せていて、厩舎も新しくはない。ただ、古びているだけではなかった。柵は直されているし、通路は掃かれている。小さくても、手は抜かれていない場所だと分かる。


 車を停めると、作業着姿の男がこちらに歩いてきた。


「黒川先生ですか」


「はい。今日はお世話になります」


「久坂です。わざわざ遠くからどうも」


 久坂洋平と名乗ったその人は、三十代後半くらいに見えた。日に焼けた顔で、笑うと目尻に皺が寄る。


 俺も名刺を出す。


「三上です」


「ああ、馬主さん。ミズノカケラですよね」


「はい」


 久坂さんは、少しだけ不思議そうに笑った。


「見に来る人、珍しいですよ」


 その一言で、だいたいの評価は分かった。


 ミズノカケラは、やはり誰もが見たい馬ではない。


 久坂さんに案内され、厩舎の奥へ向かう。


 馬房の前で足を止めた時、中にいた牝馬がゆっくりと顔を上げた。


 芦毛の牝馬だった。


 ただ、若い馬のような白さではない。ところどころに暗い毛が残り、冬の水面に薄く灰を溶かしたような色をしている。


 顔立ちは悪くない。けれど、目を引く華やかさはない。若い繁殖牝馬のような張りも薄い。腹袋はあるが、全体に少し寂しく見える。


 こちらを見たが、寄ってはこない。


 警戒しているわけではない。人間に期待していない、という方が近かった。


「ミズノカケラです」


 久坂さんが言う。


 黒川先生は、黙って馬体を見ていた。首、肩、背、腰、脚元。視線が速い。


「出せますか」


「はい」


 久坂さんが無口に頷き、無口頭絡をつける。


 馬房から出てきたミズノカケラは、最初の数歩で少し硬さを見せた。


 大きな異常ではない。

 けれど、見れば分かる。


 脚の出が、わずかに重い。


「硬いわね」


 先生が短く言った。


「はい」


 俺も否定しなかった。


 ここで見なかったことにしたら、何のために北海道まで来たのか分からない。


 久坂さんも、取り繕わなかった。


「出始めはいつもこんな感じです。しばらく歩かせると、少しほどけますけど」


「故障歴は?」


「大きなものは聞いてません。ただ、若い頃から急がせるとあんまり良くない馬でしたね」


「急がせると?」


「真面目なんです。言われたら走ろうとする。でも、速い脚があるタイプじゃない。短いところだと忙しくなって、形が崩れる」


 俺はその言葉を頭の中で繰り返した。


 急がせると、形が崩れる。


「産駒はどうでしたか」


 先生が聞く。


「気は悪くなかったです。ただ、みんな決め手がないって言われました。速い脚がない、最後甘い、って」


 資料で見た短評と同じだった。


 芝千二百。

 芝千四百。

 ダート千二百。


 短いところを使われて、追走に忙しくなって、最後に甘いと言われる。


 母も、同じように言われていた。


 久坂さんがミズノカケラを引いて歩き出す。


 最初の一周は、やはり硬い。


 黒川先生の目が厳しくなる。


「この硬さは、買う側からすれば怖いわよ」


「分かってます」


「本当に?」


「今日は半分じゃなく、ちゃんと分かってます」


「ならいいけど」


 歩く。

 蹄が地面を叩く音が、厩舎脇の通路に響く。


 ミズノカケラは急がない。頭を低くしすぎることもなく、かといって気持ちよく前へ弾む感じでもない。


 地味だ。


 本当に、地味だった。


 ただ、二周目に入ったあたりで、少しだけ変わった。


 脚の運びが、大きくなったわけではない。見違えるほど柔らかくなったわけでもない。黒川先生が一目で頷くような、分かりやすい変化ではない。


 けれど、リズムが途切れなくなった。


 歩き出しにあった引っかかりが、ほんの少し薄れる。

 一歩目より、十歩目。

 十歩目より、二十歩目。


 急がず、乱れず、淡々と続く。


 俺の中で、古い映像が重なった。


 地方ダート千七百。

 切れない。弾けない。実況に大きく名前を呼ばれるような脚でもない。


 ただ、止まらなかった。


「……この馬」


 思わず口に出しかけて、止めた。


 まだ早い。


 見たいものを見ているだけかもしれない。

 そう思いたいだけかもしれない。


 黒川先生の言葉が頭に残っている。


 可能性は、証拠じゃない。


 久坂さんがミズノカケラを止めた。


「どうですか」


 聞かれて、俺はすぐには答えなかった。


 代わりに、一つだけ確認する。


「普段から、歩かせると変わりますか」


 久坂さんが少し目を開いた。


「ええ。出始めは硬いんですけど、しばらく歩くとほどける感じはあります。若い頃からそうでしたね。最初からビューッと行く馬じゃない」


 黒川先生が、俺を見た。


 責める目ではない。

 ただ、見つけたものをどう扱うのか、確かめる目だった。


「急がせると良くない。でも、歩かせてリズムが出れば止まりにくい」


 俺は言った。


 久坂さんは頷く。


「そんな感じです。だから、悪い馬じゃないんです。ただ、売れる馬かって言われると……難しいですね」


 正直な言葉だった。


 悪く言わない。

 けれど、美化もしない。


 それがかえって信じられた。


 ミズノカケラに近づく。


 逃げない。

 寄ってもこない。


 俺が手を差し出すと、鼻先で少しだけ匂いを確認した。それから、興味をなくしたように横を向く。


 拒絶ではない。

 期待でもない。


 もう人間に何かを求めるのをやめているような、静かな横顔だった。


 芦毛の薄い毛並みが、曇った空の下で少しだけ淡く見えた。


「悪くないところを探すのと、買う理由を作るのは違うわよ」


 先生が言う。


「分かってます」


「本当に?」


「半分くらいは」


「そこで半分にしない」


「……ちゃんと分かってます」


 言い直すと、先生は小さく息を吐いた。


 牧場の風が、ミズノカケラのたてがみを揺らす。派手な馬ではない。目を奪われる馬体でもない。セール会場で並んだら、多くの人は一度見て、すぐ隣へ移るだろう。


 買わない理由は消えていない。


 むしろ、目の前で見たことで、はっきりした。


 硬さはある。

 年齢もある。

 繁殖成績もない。

 空胎。

 市場で人気になる要素も少ない。


 それでも。


 紙に書かれていた一勝と、目の前の歩き方が、俺の中で細く繋がっていた。


「買う理由は、まだ足りません」


 俺は言った。


 先生は黙って続きを待った。


「でも、紙だけで切らなくてよかったとは思います」


「それは、私も否定しない」


 少し意外だった。


 先生はミズノカケラを見ている。


「ただし、買うなら別。今見えたものより、見えなかったリスクの方が大きい可能性もある」


「はい」


「情で買わない」


「はい」


「名前がきれいだから買わない」


「それは少し危なかったです」


「危なかったんじゃない」


 先生の声が一段低くなる。


「危ないのよ」


 俺は黙って頷いた。


 下見を終え、久坂さんに礼を言う。


「ありがとうございました」


「いえ。正直、あまり目立つ馬じゃないんで、ちゃんと見てもらえるだけでもありがたいです」


 久坂さんはミズノカケラの首を軽く撫でた。


 ミズノカケラは、やはり大きな反応をしない。ただ、耳だけを少し動かした。


「明日も一組、見に来るそうですし」


 俺は足を止めた。


 黒川先生も、わずかに顔を上げる。


「ミズノカケラをですか」


「ええ。まあ、何頭かまとめて見るみたいですけど。安い繁殖を探してる方らしくて」


 誰も見ない馬。


 そう思っていた。


 少なくとも、そういう馬としてここまで来た。


 けれど、本当に誰も見ないわけではない。安い馬には、安い馬を探す人間がいる。理由があって避けられる馬にも、別の理由で手を伸ばす人間がいる。


 ミズノカケラがその人にとって本命かどうかは分からない。


 ただ、明日、誰かがこの馬を見る。


 その事実だけで、胸の奥が少しだけ詰まった。


 買わない理由は、何一つ消えていない。


 それなのに、明日誰かがこの馬を見ると聞いた瞬間、俺は少しだけ、息をするのを忘れていた。


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