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安馬しか買えない弱小馬主の俺、スキル《相馬眼》で“勝てる場所”を見抜く  作者: ペンは休み休みもて(ペンもて)
第六章 誰も見ない血

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第44話 見ない理由

 ミズノカケラ、という名前は、画面の上でも地味だった。


 検索しても、派手な記事は出てこない。重賞の見出しも、引退時の特集も、産駒デビューを期待するような牧場の宣伝文句もない。


 出てくるのは、古い出走表と、短い戦績と、淡々とした繁殖成績だけだった。


 中央未勝利。

 地方一勝。

 繁殖入り後、産駒三頭。

 勝ち上がりなし。

 空胎。


 買わない理由なら、もう十分に並んでいる。


 俺はノートパソコンの画面を見ながら、冷めたコーヒーに手を伸ばした。黒川先生の淹れるものほどではないが、自分で淹れたコーヒーも大してうまくはない。


 動画の再生ボタンを押す。


 画面の中で、若いミズノカケラがゲートに入る。中央の芝千二百。内枠。スタートは悪くない。ただ、二の脚が速い馬ではなかった。周りが前へ行く中で、少しずつ位置を下げていく。


 直線に向いても、切れる脚はない。止まっているわけではない。ただ、伸びているようにも見えない。


 結果は八着。


 次の映像も、似たようなものだった。芝千四百。やや外を回り、直線でじわじわとしか伸びない。実況に名前を呼ばれる時間は短い。


 派手な敗因はない。

 だからこそ、弱く見える。


 俺は一度、動画を止めた。


「これだけなら、普通に買わないよな」


 独り言が部屋に落ちる。


 誰かに聞かせるための言葉ではない。自分の中に残りそうになった都合のいい期待を、一度押さえるための言葉だった。


 安い馬には理由がある。

 見られない馬にも理由がある。


 その理由を無視したら、それは目利きではなく、ただの願望だ。


 次の動画を開く。


 地方転入後。ダート千二百。

 ミズノカケラはここでも忙しそうだった。砂を被って嫌がるような仕草はない。ただ、追走に余裕がない。前へ行く馬たちの流れに乗り切れず、最後も同じ脚で流れ込む。


 六着。


 俺は戦績表を見直した。


 芝千二百。

 芝千四百。

 ダート千二百。

 ダート千四百。

 ダート千二百。


 短いところばかりだ。


 そして、一つだけ違う行がある。


 地方ダート千七百、一着。


 その映像だけ、画質が少し荒かった。


 ゲートが開く。ミズノカケラは速くない。先行集団の後ろ、内に一頭置いた位置。無理に押していない。向こう正面で少しずつリズムが整い、三角から四角で、前の馬が苦しくなったところを外へ出す。


 直線。


 切れない。

 弾けない。

 派手に交わすわけでもない。


 ただ、止まらなかった。


 一完歩ずつ、前の馬との差を削る。最後は半馬身。実況も驚いたように名前を呼ぶ。


 ミズノカケラ、一着。


 俺は巻き戻して、もう一度見た。


 速い馬ではない。

 強い馬にも見えない。


 けれど、あの距離でだけ、走り方が少し違う。


 追いかけているのではなく、待てている。

 削られているのではなく、残っている。


 ハルサメノツキのような外差しではない。サビツキノエンジンのような逃げでもない。


 もっと地味だ。


 地味で、長い。


 翌朝、黒川厩舎の事務所に着くと、先生は俺の顔を見るなり言った。


「寝不足?」


「顔に出てますか」


「出てる」


「生まれつきです」


「その返し、便利に使いすぎ」


 先生は呆れたように言い、机の上に資料を置いた。


 俺が持ってきたミズノカケラの戦績表と、昨夜まとめた産駒成績。プリントした紙が、思ったより多い。


 先生はそれを見て、すぐに眉を寄せた。


「まだ見てるの?」


「見るだけです」


「昨日も聞いた」


「今日は少し深く見るだけです」


「悪化してるじゃない」


 反論できなかった。


 先生は椅子に座り、資料を一枚ずつめくる。読む速度が速い。馬を見る人間は、紙も早く見る。


「中央未勝利。地方で一勝。産駒三頭未勝利。空胎。若くない。流行血統でもない」


「はい」


「買えない理由じゃなくて、買った後に困る理由が多いのよ」


 その言葉は、きれいに刺さった。


 買う時の金額だけではない。

 買った後に、金がかかる。時間がかかる。場所がいる。人がいる。


「現役馬なら、まだ分かりやすいわ。状態を見て、番組を選んで、数か月後にはある程度の答えが出る。でも繁殖は違う」


 先生は資料の端を指で押さえた。


「種付け相手をどうするのか。どこの牧場に預けるのか。受胎するのか。無事に産まれるのか。その仔を売るのか、持つのか。持つなら、どこの厩舎に入れるのか」


 言葉が一つ増えるたびに、現実も一つ増える。


「あなた、そこまで考えてる?」


「考え始めたところです」


「それは、考えてないって言うの」


「はい」


 正直に認めると、先生は少しだけため息をついた。


「そこだけは素直ね」


「そこだけですか」


「だいたい馬のことになると変な頑固さが出る」


 それも否定できない。


 俺は資料の一枚を先生の方へ滑らせた。


「ただ、ここが気になります」


「地方の千七百?」


「はい。唯一勝ったレースです」


「見たの?」


「何度か」


「何度?」


「六回くらい」


「寝なさい」


 先生の声は冷たかったが、資料を見る目は真面目だった。


「勝ち方は地味です。切れ味はない。前を一気に飲み込むような脚でもない。ただ、止まってない」


「母自身が距離を延ばして良かった可能性はあるわね」


「産駒も見ました」


 俺は別の紙を出す。


 一頭目。芝千二百中心。

 二頭目。芝千四百中心。

 三頭目。ダート千二百中心。


 どれも勝てていない。掲示板に載ったことはあるが、決め手不足、追走一杯、最後甘い、そんな短評が並んでいた。


「母と同じ間違いを、産駒でも繰り返した可能性はあります」


「可能性はね」


 先生はすぐに言った。


「証拠じゃないわ」


 俺は黙った。


 分かっている。


 俺が見つけたのは、答えではない。

 ただの引っかかりだ。


 産駒が短距離で走らなかったからといって、距離を延ばせば走ったとは限らない。母の唯一の勝利が千七百だったからといって、その血が全部そうだとも限らない。


 そう見たいだけかもしれない。


 見られなかった馬を、見つけたいと思いすぎているのかもしれない。


「三上さん」


「はい」


「仮に、その見立てが合っていたとして」


 先生は資料から目を上げた。


「あなた、その血を何年待てるの?」


 すぐには答えられなかった。


 今いる馬を待つのとは違う。


 ハルサメノツキを放牧に出す時、俺は待つことを覚えたつもりでいた。勝った馬をすぐ次へ出さない。調子が戻るまで待つ。馬が走れる場所に戻ってくるまで、急がない。


 けれど、繁殖はもっと遠い。


 まだ生まれてもいない馬を待つ。

 受胎するかも分からない。無事に産まれるかも分からない。走るかどうかは、その何年も先だ。


 待つというより、見えない場所に金と時間を置いてくるようなものだった。


「分かりません」


 俺は言った。


 先生は何も言わない。


「正直、まだ分かりません。何年待てるかも、どこまで背負えるかも」


「なら、買う理由にはならないわね」


「はい」


 そこで一度、資料を見る。


 ミズノカケラ。

 買わない理由が並ぶ名前。


「でも、見ずに終わらせるには、少し引っかかりすぎています」


 先生の目が細くなる。


「買う理由じゃないわね」


「だから、見に行きます」


「……順番だけはまともね」


「そこは褒めてください」


「半分くらいね」


「ありがとうございます」


「まだ褒めてない」


 先生はそう言いながらも、セール会社のページを開いた。上場馬の問い合わせフォームを確認し、名簿の備考と照らし合わせる。


 ミズノカケラの繋養先は、小さな牧場だった。セール前に移動予定あり。下見は事前連絡なら可能。問い合わせは、今のところ多くないらしい。


 先生が画面を見ながら、ぽつりと言う。


「本当に誰も見てないみたいね」


「なら、見に行く意味はあります」


「その理屈、危ないわよ」


「自覚はあります」


「自覚があるなら、もう少し止まりなさい」


「止まるためにも、見ます」


「言い方だけ整えても駄目」


 先生は小さく首を振り、それでも問い合わせの文面を作ってくれた。


 馬主としての下見希望。

 同行者あり。

 日時の候補。

 確認したい項目。


 文字になっていくと、急に現実味が増した。


 ミズノカケラは、もう名簿の中だけの馬ではない。

 どこかの牧場で、今も立っている。


 俺が見るかどうかに関係なく、朝を迎え、飼い葉を食べ、誰かに手入れされている。


 送信前に、先生の手が止まった。


「一つ、追加のメモがある」


「何ですか」


 先生は画面の端を指さした。


 小さな備考。

 見落としそうなくらい短い一文。


 歩様にやや硬さあり。


 俺はその文字を見た。


 買わない理由が、また一つ増えた。


 産駒未勝利。

 空胎。

 若くない。

 流行血統ではない。

 歩様に硬さ。


 先生が椅子にもたれる。


「三上さん。これ、普通は避ける情報よ」


「はい」


「繁殖牝馬として買うなら、馬体の状態は大事。歩様の硬さがどこから来てるのかも分からない。年齢的なものか、過去の故障か、管理で変わるものか。紙だけでは判断できない」


「はい」


「それでも行くの?」


 俺はもう一度、資料を見た。


 ミズノカケラ。


 水の欠片。


 名前だけなら、きれいだ。

 けれど、資料の上では、きれいなものばかりではない。


 むしろ、傷の方が目立つ。

 選ばれなかった理由が、ちゃんとある。


 だからこそ、紙の上で終わらせるのが怖かった。


 数字だけで終わった馬を、俺は一頭知っている。

 条件を間違えられて、勝てる場所を教えてもらえなかった馬を、忘れられない。


 もちろん、ミズノカケラがそうだとは限らない。

 全部ただの思い込みかもしれない。


 でも、確かめる前に切るには、まだ早い。


「はい」


 俺は言った。


「だから、ちゃんと見ます」


 先生はしばらく俺を見ていた。


 やがて、短く息を吐く。


「分かった。下見の段取りは取る」


「ありがとうございます」


「買うかどうかは別」


「分かってます」


「現地で見て、駄目だと思ったら帰る」


「はい」


「そこで変な情を出さない」


「努力します」


「そこは即答しなさい」


 俺は返事に詰まった。


 先生は呆れたように笑い、送信ボタンを押した。


 画面に、問い合わせを受け付けました、という表示が出る。


 たったそれだけのことなのに、何かが一歩進んだ気がした。


 ミズノカケラは、まだ俺の馬ではない。

 買う理由も、まだない。


 けれど、見に行く理由だけはできた。


 買わない理由が増えるたびに、俺はその馬を見ないまま終わらせるのが、少しだけ怖くなっていた。

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