第44話 見ない理由
ミズノカケラ、という名前は、画面の上でも地味だった。
検索しても、派手な記事は出てこない。重賞の見出しも、引退時の特集も、産駒デビューを期待するような牧場の宣伝文句もない。
出てくるのは、古い出走表と、短い戦績と、淡々とした繁殖成績だけだった。
中央未勝利。
地方一勝。
繁殖入り後、産駒三頭。
勝ち上がりなし。
空胎。
買わない理由なら、もう十分に並んでいる。
俺はノートパソコンの画面を見ながら、冷めたコーヒーに手を伸ばした。黒川先生の淹れるものほどではないが、自分で淹れたコーヒーも大してうまくはない。
動画の再生ボタンを押す。
画面の中で、若いミズノカケラがゲートに入る。中央の芝千二百。内枠。スタートは悪くない。ただ、二の脚が速い馬ではなかった。周りが前へ行く中で、少しずつ位置を下げていく。
直線に向いても、切れる脚はない。止まっているわけではない。ただ、伸びているようにも見えない。
結果は八着。
次の映像も、似たようなものだった。芝千四百。やや外を回り、直線でじわじわとしか伸びない。実況に名前を呼ばれる時間は短い。
派手な敗因はない。
だからこそ、弱く見える。
俺は一度、動画を止めた。
「これだけなら、普通に買わないよな」
独り言が部屋に落ちる。
誰かに聞かせるための言葉ではない。自分の中に残りそうになった都合のいい期待を、一度押さえるための言葉だった。
安い馬には理由がある。
見られない馬にも理由がある。
その理由を無視したら、それは目利きではなく、ただの願望だ。
次の動画を開く。
地方転入後。ダート千二百。
ミズノカケラはここでも忙しそうだった。砂を被って嫌がるような仕草はない。ただ、追走に余裕がない。前へ行く馬たちの流れに乗り切れず、最後も同じ脚で流れ込む。
六着。
俺は戦績表を見直した。
芝千二百。
芝千四百。
ダート千二百。
ダート千四百。
ダート千二百。
短いところばかりだ。
そして、一つだけ違う行がある。
地方ダート千七百、一着。
その映像だけ、画質が少し荒かった。
ゲートが開く。ミズノカケラは速くない。先行集団の後ろ、内に一頭置いた位置。無理に押していない。向こう正面で少しずつリズムが整い、三角から四角で、前の馬が苦しくなったところを外へ出す。
直線。
切れない。
弾けない。
派手に交わすわけでもない。
ただ、止まらなかった。
一完歩ずつ、前の馬との差を削る。最後は半馬身。実況も驚いたように名前を呼ぶ。
ミズノカケラ、一着。
俺は巻き戻して、もう一度見た。
速い馬ではない。
強い馬にも見えない。
けれど、あの距離でだけ、走り方が少し違う。
追いかけているのではなく、待てている。
削られているのではなく、残っている。
ハルサメノツキのような外差しではない。サビツキノエンジンのような逃げでもない。
もっと地味だ。
地味で、長い。
翌朝、黒川厩舎の事務所に着くと、先生は俺の顔を見るなり言った。
「寝不足?」
「顔に出てますか」
「出てる」
「生まれつきです」
「その返し、便利に使いすぎ」
先生は呆れたように言い、机の上に資料を置いた。
俺が持ってきたミズノカケラの戦績表と、昨夜まとめた産駒成績。プリントした紙が、思ったより多い。
先生はそれを見て、すぐに眉を寄せた。
「まだ見てるの?」
「見るだけです」
「昨日も聞いた」
「今日は少し深く見るだけです」
「悪化してるじゃない」
反論できなかった。
先生は椅子に座り、資料を一枚ずつめくる。読む速度が速い。馬を見る人間は、紙も早く見る。
「中央未勝利。地方で一勝。産駒三頭未勝利。空胎。若くない。流行血統でもない」
「はい」
「買えない理由じゃなくて、買った後に困る理由が多いのよ」
その言葉は、きれいに刺さった。
買う時の金額だけではない。
買った後に、金がかかる。時間がかかる。場所がいる。人がいる。
「現役馬なら、まだ分かりやすいわ。状態を見て、番組を選んで、数か月後にはある程度の答えが出る。でも繁殖は違う」
先生は資料の端を指で押さえた。
「種付け相手をどうするのか。どこの牧場に預けるのか。受胎するのか。無事に産まれるのか。その仔を売るのか、持つのか。持つなら、どこの厩舎に入れるのか」
言葉が一つ増えるたびに、現実も一つ増える。
「あなた、そこまで考えてる?」
「考え始めたところです」
「それは、考えてないって言うの」
「はい」
正直に認めると、先生は少しだけため息をついた。
「そこだけは素直ね」
「そこだけですか」
「だいたい馬のことになると変な頑固さが出る」
それも否定できない。
俺は資料の一枚を先生の方へ滑らせた。
「ただ、ここが気になります」
「地方の千七百?」
「はい。唯一勝ったレースです」
「見たの?」
「何度か」
「何度?」
「六回くらい」
「寝なさい」
先生の声は冷たかったが、資料を見る目は真面目だった。
「勝ち方は地味です。切れ味はない。前を一気に飲み込むような脚でもない。ただ、止まってない」
「母自身が距離を延ばして良かった可能性はあるわね」
「産駒も見ました」
俺は別の紙を出す。
一頭目。芝千二百中心。
二頭目。芝千四百中心。
三頭目。ダート千二百中心。
どれも勝てていない。掲示板に載ったことはあるが、決め手不足、追走一杯、最後甘い、そんな短評が並んでいた。
「母と同じ間違いを、産駒でも繰り返した可能性はあります」
「可能性はね」
先生はすぐに言った。
「証拠じゃないわ」
俺は黙った。
分かっている。
俺が見つけたのは、答えではない。
ただの引っかかりだ。
産駒が短距離で走らなかったからといって、距離を延ばせば走ったとは限らない。母の唯一の勝利が千七百だったからといって、その血が全部そうだとも限らない。
そう見たいだけかもしれない。
見られなかった馬を、見つけたいと思いすぎているのかもしれない。
「三上さん」
「はい」
「仮に、その見立てが合っていたとして」
先生は資料から目を上げた。
「あなた、その血を何年待てるの?」
すぐには答えられなかった。
今いる馬を待つのとは違う。
ハルサメノツキを放牧に出す時、俺は待つことを覚えたつもりでいた。勝った馬をすぐ次へ出さない。調子が戻るまで待つ。馬が走れる場所に戻ってくるまで、急がない。
けれど、繁殖はもっと遠い。
まだ生まれてもいない馬を待つ。
受胎するかも分からない。無事に産まれるかも分からない。走るかどうかは、その何年も先だ。
待つというより、見えない場所に金と時間を置いてくるようなものだった。
「分かりません」
俺は言った。
先生は何も言わない。
「正直、まだ分かりません。何年待てるかも、どこまで背負えるかも」
「なら、買う理由にはならないわね」
「はい」
そこで一度、資料を見る。
ミズノカケラ。
買わない理由が並ぶ名前。
「でも、見ずに終わらせるには、少し引っかかりすぎています」
先生の目が細くなる。
「買う理由じゃないわね」
「だから、見に行きます」
「……順番だけはまともね」
「そこは褒めてください」
「半分くらいね」
「ありがとうございます」
「まだ褒めてない」
先生はそう言いながらも、セール会社のページを開いた。上場馬の問い合わせフォームを確認し、名簿の備考と照らし合わせる。
ミズノカケラの繋養先は、小さな牧場だった。セール前に移動予定あり。下見は事前連絡なら可能。問い合わせは、今のところ多くないらしい。
先生が画面を見ながら、ぽつりと言う。
「本当に誰も見てないみたいね」
「なら、見に行く意味はあります」
「その理屈、危ないわよ」
「自覚はあります」
「自覚があるなら、もう少し止まりなさい」
「止まるためにも、見ます」
「言い方だけ整えても駄目」
先生は小さく首を振り、それでも問い合わせの文面を作ってくれた。
馬主としての下見希望。
同行者あり。
日時の候補。
確認したい項目。
文字になっていくと、急に現実味が増した。
ミズノカケラは、もう名簿の中だけの馬ではない。
どこかの牧場で、今も立っている。
俺が見るかどうかに関係なく、朝を迎え、飼い葉を食べ、誰かに手入れされている。
送信前に、先生の手が止まった。
「一つ、追加のメモがある」
「何ですか」
先生は画面の端を指さした。
小さな備考。
見落としそうなくらい短い一文。
歩様にやや硬さあり。
俺はその文字を見た。
買わない理由が、また一つ増えた。
産駒未勝利。
空胎。
若くない。
流行血統ではない。
歩様に硬さ。
先生が椅子にもたれる。
「三上さん。これ、普通は避ける情報よ」
「はい」
「繁殖牝馬として買うなら、馬体の状態は大事。歩様の硬さがどこから来てるのかも分からない。年齢的なものか、過去の故障か、管理で変わるものか。紙だけでは判断できない」
「はい」
「それでも行くの?」
俺はもう一度、資料を見た。
ミズノカケラ。
水の欠片。
名前だけなら、きれいだ。
けれど、資料の上では、きれいなものばかりではない。
むしろ、傷の方が目立つ。
選ばれなかった理由が、ちゃんとある。
だからこそ、紙の上で終わらせるのが怖かった。
数字だけで終わった馬を、俺は一頭知っている。
条件を間違えられて、勝てる場所を教えてもらえなかった馬を、忘れられない。
もちろん、ミズノカケラがそうだとは限らない。
全部ただの思い込みかもしれない。
でも、確かめる前に切るには、まだ早い。
「はい」
俺は言った。
「だから、ちゃんと見ます」
先生はしばらく俺を見ていた。
やがて、短く息を吐く。
「分かった。下見の段取りは取る」
「ありがとうございます」
「買うかどうかは別」
「分かってます」
「現地で見て、駄目だと思ったら帰る」
「はい」
「そこで変な情を出さない」
「努力します」
「そこは即答しなさい」
俺は返事に詰まった。
先生は呆れたように笑い、送信ボタンを押した。
画面に、問い合わせを受け付けました、という表示が出る。
たったそれだけのことなのに、何かが一歩進んだ気がした。
ミズノカケラは、まだ俺の馬ではない。
買う理由も、まだない。
けれど、見に行く理由だけはできた。
買わない理由が増えるたびに、俺はその馬を見ないまま終わらせるのが、少しだけ怖くなっていた。




