第43話 封筒を開ける
勝った翌朝、スマホの画面は思ったより騒がしかった。
サビツキノエンジン。
柴田拓海。
大井千四百。
逃げ切り。
そして、また三上か。
検索欄に馬名を入れただけで、昨夜のレース映像、短い記事、誰かの感想、馬券を外した人間の悲鳴がずらりと並ぶ。
荒尾じゃなくても走った。
柴田、あれは代役じゃない。
いや荒尾が作った馬だろ。
次どうすんだよ、あの馬。
そこまで読んで、俺はスマホを伏せた。
見たくないわけじゃない。
褒められていれば嬉しいし、疑われていれば少し気になる。馬券の恨み言まで含めて、サビツキノエンジンが無視されない馬になった証拠でもあった。
けれど、画面の中で馬は歩かない。
昨日、先頭を譲らなかった黒鹿毛は、今日も馬房の中にいる。脚に熱がないか見られ、飼い葉を食べ、耳を動かし、次を走るかどうかを人間に決められる。
勝ったから終わり、ではない。
勝ったから、また難しくなる。
黒川厩舎に着くと、レース翌日の朝らしい匂いがした。湿った藁、土、飼い葉、馬の体温。祝勝会の空気なんてものはない。あるのは、いつも通りの仕事だけだった。
サビツキノエンジンは馬房の奥にいた。
俺を見るなり、顔を上げる。
寄ってはこない。
ただ、耳だけがこちらを向いた。
「偉そうですね」
俺が言うと、馬房の前にいた梅田さんが笑った。
「昨日よりは落ち着いてますよ。ただ、ちょっと“俺はやった”みたいな顔してます」
「顔に出ますか」
「出ますねえ。人間よりずっと正直です」
エンジンが鼻を鳴らした。
褒められていると分かっているのか、単に朝から人間がうるさいと思っているのかは分からない。
俺が少し近づくと、エンジンは顔を背けた。
いつものことだ。
けれど、前とは少しだけ違う。
来るな、ではない。
好きにしろ。ただし、触らせるとは言っていない。
そんな距離だった。
「大丈夫か」
小さく声をかける。
エンジンは答えない。
代わりに、耳が一度だけ動いた。
「今のところ脚元は問題なし」
背後から黒川先生の声がした。
振り向くと、先生は手元のメモを見ながら歩いてきた。表情はいつも通り。勝った翌日でも、特に甘くはならない。
「飼い葉も食べてる。テンションも、この馬としては許容範囲。ただ、昨日のレースが楽だったわけじゃない」
「はい」
「勝ったからって、すぐ次とは言わないわよ」
「分かってます」
「本当に?」
「半分くらいは」
先生が目だけでこちらを見た。
「それ、便利に使いすぎ」
「黒川先生の影響です」
「人のせいにしない」
そう言ってから、先生はエンジンの首筋に視線を戻した。
「柴田くんは上手く乗ったわ」
「はい」
「荒尾の形を壊さなかった。かといって、ただ真似をしただけでもない。内が来た時に譲らなかったのは、本人の判断ね」
俺は昨日の直線を思い出した。
先頭に立ったエンジン。
外から迫る馬。
柴田騎手の手綱。
そして、譲らなかった一完歩。
「ただし、だから次も柴田くんでいい、とはならない」
先生の言葉は、静かだった。
荒尾迅は、サビツキノエンジンに“前へ行っていい”と教えた騎手だ。
抑え込まれて怒っていた馬に、走り方を返した。
あの最初の一戦がなければ、今のエンジンはない。
柴田拓海は、その形を壊さずに乗った。
代役として手綱を取り、代役で終わらない結果を出した。
どちらが正しくて、どちらが間違いという話ではない。
だからこそ、難しい。
「荒尾騎手の席も、柴田騎手の席もできましたね」
「ええ」
「でも、エンジンの席は一つしかない」
先生が少しだけ口元を緩めた。
「馬主らしい悩みになってきたじゃない」
「もう少し安い悩みがよかったです」
「馬を持つって、そういうことよ」
その時、エンジンが馬房の壁を軽く蹴った。
梅田さんが「あー、はいはい」と慣れた声でなだめる。
勝った馬の前で、人間だけが難しい顔をしている。
それが少しだけ、おかしかった。
事務所に移ると、黒川先生はコーヒーを淹れた。
湯気の立つカップが置かれる。
いつも通り、苦い。
ひと口飲んで、俺は眉を動かした。先生はそれを見逃さない。
「まだ慣れない?」
「慣れたら負けな気がしてます」
「何と戦ってるの」
「苦味とです」
「馬主、暇そうね」
「暇ではないです」
そう言いながら、俺の視線は机の端で止まった。
白い封筒。
厚みのあるそれは、以前からそこにあった。
繁殖馬セールの案内。
ハルサメノツキを放牧に出す前後、先生から渡されたものだ。あの時、俺は開けなかった。ハルを休ませること。エンジンの次走を決めること。その方が先だった。
けれど、エンジンの一戦は終わった。
終わってしまった、というより。
一つ、片づいてしまった。
先生が俺の視線に気づく。
「開けるの?」
「見るだけです」
「馬主の“見るだけ”は、だいたい危ないわよ」
「見るだけで買えるほど、お金はないです」
「それを分かってる人間ほど、変な馬を買ってくるのよ」
否定できなかった。
ハルサメノツキは二十万円だった。
サビツキノエンジンも、中央で見切られた馬だった。
俺は高い馬を買ってきたわけではない。
ただ、安い馬を買うことが安全だと思ったこともない。
安いには理由がある。
見られていないにも理由がある。
その理由が、正しいとは限らないだけだ。
封筒を手に取る。
中には一覧表と資料が入っていた。繁殖牝馬の名前、生年、父、母、競走成績、繁殖成績、受胎の有無、備考。
現役馬のセリ名簿とは、見え方が違う。
そこに書かれているのは、今走る馬ではない。
これから生まれるかもしれない馬の、さらに前にいる存在だった。
「先に言っておくけど」
先生が向かいに座った。
「繁殖牝馬は、買って終わりじゃないわよ」
「分かってます」
「種付け、預託、出産、仔馬の管理。そこからデビューするまで何年もかかる。現役馬なら、早ければ数か月で答えが出る。でも繁殖は違う」
先生の声は淡々としていた。
「間違えた答えが分かるのは、何年も後よ」
俺は一覧に目を落とした。
名前が並んでいる。
数字が並んでいる。
血統が並んでいる。
備考欄には、短い言葉で馬の事情が押し込められている。
空胎。
不受胎。
初供用。
産駒未勝利。
地方一勝。
繋養先変更予定。
紙の上に、馬はいない。
ハルサメノツキを初めて見た時のような、体の奥を引っかかれる感覚は薄かった。サビツキノエンジンを見た時のような、抑え込まれた熱もない。
当然だ。
ここにあるのは、馬そのものではなく記録だ。
記録は嘘をつかない。
けれど、全部も言わない。
「高いですね」
「高い馬は高いわよ」
「安い馬もいます」
「安い理由があるの」
「はい」
ページをめくるたびに、予算の現実が指先に刺さった。
良血の若い繁殖牝馬には、最初から手が届かない。重賞馬の近親、人気種牡馬を受胎した馬、未供用で馬体のいい牝馬。そういう名前は、名簿の上でも光って見えた。
きっと、俺が見なくても誰かが見る。
俺が買わなくても、誰かが手を上げる。
そういう馬は、俺の馬ではない。
ページを戻しかけた時、指が止まった。
上場番号の端。
少しだけ小さく印刷された名前。
――ミズノカケラ。
父はアオバセイバー。母はユキノミナモ。
競走成績は中央未勝利、地方で一勝。
繁殖入り後の産駒は三頭。いずれも未勝利。
備考欄には、短く「空胎」とあった。
派手なところは何もない。
父系も流行からは外れている。母系に古いダート血統が残っているが、表に出るほどではない。産駒の成績も良くない。年齢も若くはない。
買われない理由なら、いくつも見つかった。
ただ、俺の目はそこから動かなかった。
「……どうしたの」
先生が気づく。
「この馬」
「ミズノカケラ?」
「はい」
先生は資料を横から覗き込んだ。
そして、すぐに眉を寄せる。
「また渋いところ見るわね」
「渋いですか」
「渋いというか、普通は流すわ」
「ですよね」
「中央未勝利。地方で一つ勝っただけ。産駒は三頭とも勝ち上がれてない。空胎。年齢も若くない。血統も、今の市場で強く押せるものじゃない」
先生は容赦なく並べる。
どれも正しい。
正しいから、反論できない。
「買う理由、ある?」
俺は資料に目を落とした。
ミズノカケラの産駒成績。
一頭目、芝千二。
二頭目、芝千四。
三頭目、ダート千二。
短い。
どれも短い。
母自身も、中央時代は芝の短距離を使われていた。地方で勝った一戦だけが、ダートの千七百。
資料の隅に、小さく書かれた一行があった。
地方転入後、距離延長二戦目で勝利。
それだけだった。
けれど、その一行だけが、妙に紙の上で浮いて見えた。
ミズノカケラは、本当に走らなかったのか。
それとも、走る場所を見つける前に、終わったことにされたのか。
産駒たちも、同じように短いところばかりを使われている。
もちろん、それだけで決める話ではない。
馬体を見ていない。歩様も見ていない。性格も知らない。繁殖としての状態も、紙だけでは分からない。
分からないことだらけだ。
それでも、引っかかった。
「まだ、理由とは言えません」
俺は正直に言った。
「でしょうね」
「でも」
「でも?」
「見ない理由も、まだ見つかりません」
先生は黙った。
怒られるかと思った。
呆れられるかと思った。
けれど先生は、カップに口をつけただけだった。
「……現地で見るだけなら、止めない」
「ありがとうございます」
「買うなら止めるかもしれない」
「そこは、止めてください」
「止めても買う時があるでしょう、あなたは」
「半分くらいは」
「またそれ」
先生はため息をついた。
けれど、その声は本気で突き放すものではなかった。
俺はもう一度、ミズノカケラの欄を見た。
名前の横に並んだ数字は、決してきれいではない。むしろ、買われない理由を丁寧に説明しているように見える。
勝っていない。
産駒も走っていない。
若くもない。
空胎。
流行でもない。
それでも、短い備考欄の奥に、まだ誰も開けていない扉がある気がした。
ハルサメノツキを見た時ほど、はっきりとは見えない。
サビツキノエンジンを見た時ほど、熱くもない。
ただ、静かだった。
静かすぎて、誰も耳を澄ませていないだけかもしれなかった。
「三上さん」
先生が言った。
「はい」
「繁殖を見るってことは、今いる馬を見るのとは違うわよ」
「分かってます」
「その馬一頭じゃなく、その先を見ることになる。生まれてもいない馬に、お金と時間を使うことになる」
先生の言葉が、事務所の空気に落ちる。
「何年も待つのよ」
ハルサメノツキのことを思い出した。
走らせたい気持ちを抑えて、放牧に出した。
勝った馬ほど、走らせてはいけない時があると知った。
待つことは、何もしないことではない。
それを、少しだけ分かり始めていた。
「待つのは、苦手です」
「知ってる」
「でも、少しは覚えました」
先生が、わずかに目を細めた。
「誰のおかげ?」
「ハルと、エンジンと、黒川先生のおかげです」
「最後だけ余計ね」
「そこは受け取ってください」
「半分くらい受け取るわ」
俺は笑った。
そして、封筒の中の資料をもう一度そろえた。
今すぐ買うわけではない。
買えると決まったわけでもない。
そもそも、買うべき馬かどうかも分からない。
けれど、見に行く理由はできた。
誰も見ない馬。
誰も選ばない血。
結果だけを見れば、終わったと判断されても仕方のない繁殖牝馬。
それでも、紙の上の小さな名前から、俺は目を離せなかった。
封筒を閉じる。
その白い紙の向こうで、誰にも選ばれなかった血が、静かにこちらを見ている気がした。




