表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
安馬しか買えない弱小馬主の俺、スキル《相馬眼》で“勝てる場所”を見抜く  作者: ペンは休み休みもて(ペンもて)
第六章 誰も見ない血

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

43/49

第43話 封筒を開ける

 勝った翌朝、スマホの画面は思ったより騒がしかった。


 サビツキノエンジン。

 柴田拓海。

 大井千四百。

 逃げ切り。

 そして、また三上か。


 検索欄に馬名を入れただけで、昨夜のレース映像、短い記事、誰かの感想、馬券を外した人間の悲鳴がずらりと並ぶ。


 荒尾じゃなくても走った。

 柴田、あれは代役じゃない。

 いや荒尾が作った馬だろ。

 次どうすんだよ、あの馬。


 そこまで読んで、俺はスマホを伏せた。


 見たくないわけじゃない。

 褒められていれば嬉しいし、疑われていれば少し気になる。馬券の恨み言まで含めて、サビツキノエンジンが無視されない馬になった証拠でもあった。


 けれど、画面の中で馬は歩かない。


 昨日、先頭を譲らなかった黒鹿毛は、今日も馬房の中にいる。脚に熱がないか見られ、飼い葉を食べ、耳を動かし、次を走るかどうかを人間に決められる。


 勝ったから終わり、ではない。


 勝ったから、また難しくなる。


 黒川厩舎に着くと、レース翌日の朝らしい匂いがした。湿った藁、土、飼い葉、馬の体温。祝勝会の空気なんてものはない。あるのは、いつも通りの仕事だけだった。


 サビツキノエンジンは馬房の奥にいた。


 俺を見るなり、顔を上げる。

 寄ってはこない。

 ただ、耳だけがこちらを向いた。


「偉そうですね」


 俺が言うと、馬房の前にいた梅田さんが笑った。


「昨日よりは落ち着いてますよ。ただ、ちょっと“俺はやった”みたいな顔してます」


「顔に出ますか」


「出ますねえ。人間よりずっと正直です」


 エンジンが鼻を鳴らした。


 褒められていると分かっているのか、単に朝から人間がうるさいと思っているのかは分からない。


 俺が少し近づくと、エンジンは顔を背けた。


 いつものことだ。

 けれど、前とは少しだけ違う。


 来るな、ではない。

 好きにしろ。ただし、触らせるとは言っていない。


 そんな距離だった。


「大丈夫か」


 小さく声をかける。


 エンジンは答えない。

 代わりに、耳が一度だけ動いた。


「今のところ脚元は問題なし」


 背後から黒川先生の声がした。


 振り向くと、先生は手元のメモを見ながら歩いてきた。表情はいつも通り。勝った翌日でも、特に甘くはならない。


「飼い葉も食べてる。テンションも、この馬としては許容範囲。ただ、昨日のレースが楽だったわけじゃない」


「はい」


「勝ったからって、すぐ次とは言わないわよ」


「分かってます」


「本当に?」


「半分くらいは」


 先生が目だけでこちらを見た。


「それ、便利に使いすぎ」


「黒川先生の影響です」


「人のせいにしない」


 そう言ってから、先生はエンジンの首筋に視線を戻した。


「柴田くんは上手く乗ったわ」


「はい」


「荒尾の形を壊さなかった。かといって、ただ真似をしただけでもない。内が来た時に譲らなかったのは、本人の判断ね」


 俺は昨日の直線を思い出した。


 先頭に立ったエンジン。

 外から迫る馬。

 柴田騎手の手綱。

 そして、譲らなかった一完歩。


「ただし、だから次も柴田くんでいい、とはならない」


 先生の言葉は、静かだった。


 荒尾迅は、サビツキノエンジンに“前へ行っていい”と教えた騎手だ。


 抑え込まれて怒っていた馬に、走り方を返した。

 あの最初の一戦がなければ、今のエンジンはない。


 柴田拓海は、その形を壊さずに乗った。

 代役として手綱を取り、代役で終わらない結果を出した。


 どちらが正しくて、どちらが間違いという話ではない。


 だからこそ、難しい。


「荒尾騎手の席も、柴田騎手の席もできましたね」


「ええ」


「でも、エンジンの席は一つしかない」


 先生が少しだけ口元を緩めた。


「馬主らしい悩みになってきたじゃない」


「もう少し安い悩みがよかったです」


「馬を持つって、そういうことよ」


 その時、エンジンが馬房の壁を軽く蹴った。


 梅田さんが「あー、はいはい」と慣れた声でなだめる。


 勝った馬の前で、人間だけが難しい顔をしている。

 それが少しだけ、おかしかった。


 事務所に移ると、黒川先生はコーヒーを淹れた。


 湯気の立つカップが置かれる。

 いつも通り、苦い。


 ひと口飲んで、俺は眉を動かした。先生はそれを見逃さない。


「まだ慣れない?」


「慣れたら負けな気がしてます」


「何と戦ってるの」


「苦味とです」


「馬主、暇そうね」


「暇ではないです」


 そう言いながら、俺の視線は机の端で止まった。


 白い封筒。


 厚みのあるそれは、以前からそこにあった。

 繁殖馬セールの案内。


 ハルサメノツキを放牧に出す前後、先生から渡されたものだ。あの時、俺は開けなかった。ハルを休ませること。エンジンの次走を決めること。その方が先だった。


 けれど、エンジンの一戦は終わった。


 終わってしまった、というより。


 一つ、片づいてしまった。


 先生が俺の視線に気づく。


「開けるの?」


「見るだけです」


「馬主の“見るだけ”は、だいたい危ないわよ」


「見るだけで買えるほど、お金はないです」


「それを分かってる人間ほど、変な馬を買ってくるのよ」


 否定できなかった。


 ハルサメノツキは二十万円だった。

 サビツキノエンジンも、中央で見切られた馬だった。


 俺は高い馬を買ってきたわけではない。

 ただ、安い馬を買うことが安全だと思ったこともない。


 安いには理由がある。

 見られていないにも理由がある。


 その理由が、正しいとは限らないだけだ。


 封筒を手に取る。


 中には一覧表と資料が入っていた。繁殖牝馬の名前、生年、父、母、競走成績、繁殖成績、受胎の有無、備考。


 現役馬のセリ名簿とは、見え方が違う。


 そこに書かれているのは、今走る馬ではない。

 これから生まれるかもしれない馬の、さらに前にいる存在だった。


「先に言っておくけど」


 先生が向かいに座った。


「繁殖牝馬は、買って終わりじゃないわよ」


「分かってます」


「種付け、預託、出産、仔馬の管理。そこからデビューするまで何年もかかる。現役馬なら、早ければ数か月で答えが出る。でも繁殖は違う」


 先生の声は淡々としていた。


「間違えた答えが分かるのは、何年も後よ」


 俺は一覧に目を落とした。


 名前が並んでいる。

 数字が並んでいる。

 血統が並んでいる。

 備考欄には、短い言葉で馬の事情が押し込められている。


 空胎。

 不受胎。

 初供用。

 産駒未勝利。

 地方一勝。

 繋養先変更予定。


 紙の上に、馬はいない。


 ハルサメノツキを初めて見た時のような、体の奥を引っかかれる感覚は薄かった。サビツキノエンジンを見た時のような、抑え込まれた熱もない。


 当然だ。


 ここにあるのは、馬そのものではなく記録だ。

 記録は嘘をつかない。


 けれど、全部も言わない。


「高いですね」


「高い馬は高いわよ」


「安い馬もいます」


「安い理由があるの」


「はい」


 ページをめくるたびに、予算の現実が指先に刺さった。


 良血の若い繁殖牝馬には、最初から手が届かない。重賞馬の近親、人気種牡馬を受胎した馬、未供用で馬体のいい牝馬。そういう名前は、名簿の上でも光って見えた。


 きっと、俺が見なくても誰かが見る。


 俺が買わなくても、誰かが手を上げる。


 そういう馬は、俺の馬ではない。


 ページを戻しかけた時、指が止まった。


 上場番号の端。

 少しだけ小さく印刷された名前。


 ――ミズノカケラ。


 父はアオバセイバー。母はユキノミナモ。

 競走成績は中央未勝利、地方で一勝。

 繁殖入り後の産駒は三頭。いずれも未勝利。

 備考欄には、短く「空胎」とあった。


 派手なところは何もない。


 父系も流行からは外れている。母系に古いダート血統が残っているが、表に出るほどではない。産駒の成績も良くない。年齢も若くはない。


 買われない理由なら、いくつも見つかった。


 ただ、俺の目はそこから動かなかった。


「……どうしたの」


 先生が気づく。


「この馬」


「ミズノカケラ?」


「はい」


 先生は資料を横から覗き込んだ。

 そして、すぐに眉を寄せる。


「また渋いところ見るわね」


「渋いですか」


「渋いというか、普通は流すわ」


「ですよね」


「中央未勝利。地方で一つ勝っただけ。産駒は三頭とも勝ち上がれてない。空胎。年齢も若くない。血統も、今の市場で強く押せるものじゃない」


 先生は容赦なく並べる。


 どれも正しい。

 正しいから、反論できない。


「買う理由、ある?」


 俺は資料に目を落とした。


 ミズノカケラの産駒成績。

 一頭目、芝千二。

 二頭目、芝千四。

 三頭目、ダート千二。


 短い。

 どれも短い。


 母自身も、中央時代は芝の短距離を使われていた。地方で勝った一戦だけが、ダートの千七百。


 資料の隅に、小さく書かれた一行があった。


 地方転入後、距離延長二戦目で勝利。


 それだけだった。


 けれど、その一行だけが、妙に紙の上で浮いて見えた。


 ミズノカケラは、本当に走らなかったのか。

 それとも、走る場所を見つける前に、終わったことにされたのか。


 産駒たちも、同じように短いところばかりを使われている。


 もちろん、それだけで決める話ではない。

 馬体を見ていない。歩様も見ていない。性格も知らない。繁殖としての状態も、紙だけでは分からない。


 分からないことだらけだ。


 それでも、引っかかった。


「まだ、理由とは言えません」


 俺は正直に言った。


「でしょうね」


「でも」


「でも?」


「見ない理由も、まだ見つかりません」


 先生は黙った。


 怒られるかと思った。

 呆れられるかと思った。


 けれど先生は、カップに口をつけただけだった。


「……現地で見るだけなら、止めない」


「ありがとうございます」


「買うなら止めるかもしれない」


「そこは、止めてください」


「止めても買う時があるでしょう、あなたは」


「半分くらいは」


「またそれ」


 先生はため息をついた。


 けれど、その声は本気で突き放すものではなかった。


 俺はもう一度、ミズノカケラの欄を見た。


 名前の横に並んだ数字は、決してきれいではない。むしろ、買われない理由を丁寧に説明しているように見える。


 勝っていない。

 産駒も走っていない。

 若くもない。

 空胎。

 流行でもない。


 それでも、短い備考欄の奥に、まだ誰も開けていない扉がある気がした。


 ハルサメノツキを見た時ほど、はっきりとは見えない。

 サビツキノエンジンを見た時ほど、熱くもない。


 ただ、静かだった。


 静かすぎて、誰も耳を澄ませていないだけかもしれなかった。


「三上さん」


 先生が言った。


「はい」


「繁殖を見るってことは、今いる馬を見るのとは違うわよ」


「分かってます」


「その馬一頭じゃなく、その先を見ることになる。生まれてもいない馬に、お金と時間を使うことになる」


 先生の言葉が、事務所の空気に落ちる。


「何年も待つのよ」


 ハルサメノツキのことを思い出した。


 走らせたい気持ちを抑えて、放牧に出した。

 勝った馬ほど、走らせてはいけない時があると知った。


 待つことは、何もしないことではない。


 それを、少しだけ分かり始めていた。


「待つのは、苦手です」


「知ってる」


「でも、少しは覚えました」


 先生が、わずかに目を細めた。


「誰のおかげ?」


「ハルと、エンジンと、黒川先生のおかげです」


「最後だけ余計ね」


「そこは受け取ってください」


「半分くらい受け取るわ」


 俺は笑った。


 そして、封筒の中の資料をもう一度そろえた。


 今すぐ買うわけではない。

 買えると決まったわけでもない。

 そもそも、買うべき馬かどうかも分からない。


 けれど、見に行く理由はできた。


 誰も見ない馬。

 誰も選ばない血。

 結果だけを見れば、終わったと判断されても仕方のない繁殖牝馬。


 それでも、紙の上の小さな名前から、俺は目を離せなかった。


 封筒を閉じる。


 その白い紙の向こうで、誰にも選ばれなかった血が、静かにこちらを見ている気がした。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ