第60話 混合の朝
当日の朝は早かった。
厩舎に着いたのは、六時前。
黒川先生はすでにいた。
作業着の袖をまくり、ハルの馬房の前で腕を組んでいる。
俺の気配に、一度だけ視線を向けた。
「おはようございます」
「来るの早いわね」
「眠れなかったので」
「馬主らしくない理由ね」
先生はハルの脚を一本ずつ確認していく。
四本、順番に。
ハルは嫌がらなかった。耳だけパタパタ動かして、また止まる。
「今日は問題ない」
先生が立ち上がって言った。
それだけだった。
だが、その一言で俺の心拍数が少しだけ落ち着いた。
ーーーーーーーーーーーーー
八時過ぎ。浅倉君が来た。
厩舎に入ってきて、真っ先にハルへ歩み寄る。
「久しぶりっす」
ハルは、スッと顔を背けた。
(……相変わらずだな、お前)
浅倉君が苦笑いする。
「変わらないな」
「あなたが変わったんじゃないの」
黒川先生の言葉に、浅倉君の背筋が伸びた。
三人で事務所に入り、最終の作戦を詰める。
「外を通る。砂を被らせない。前半は無理に動かさない。直線で外に出せれば止まらない」
地方の深いダート。
揉まれればそれだけで体力を削られる。
先生の指示は、ハルを信じた「一撃必殺」のプランだった。
「ペース、速くなりますよね。混合だと」
「なるわ。牡馬のペースに合わせない。ハルのリズムで行く」
「じゃあ、後ろからになりますね」
「構わない。あの馬は後ろからでも届く脚がある。……ただし、外は絶対に確保して」
浅倉君が、ハルの馬房の方をじっと見つめた。
「了解しました」
きれいな返事じゃなかった。
少しの間。覚悟を胃の底に沈めるような、重い返事。
それでいい。
ーーーーーーーーーーーーー
パドックに出ると、ハルが小さかった。
最初から小柄な馬だ。わかっていたことだ。
だが、屈強な牡馬たちに囲まれるとその差は際立った。
隣を歩く栗毛の牡馬が首を高く上げるたびに、ハルとの体格差が嫌でも目に入る。
「あれ、牝馬か」
「地方の混合に牝馬……? 無謀だろ」
ファンの声が聞こえる。
悪意はない。ただの驚きだ。
それが余計に、俺の胸に冷たく刺さった。
(……ビビってるのは、俺だけか)
ハルはいつも通りだった。
周囲の牡馬を気にする様子もない。
顔を背け、自分のリズムで一歩一歩を踏みしめている。
ーーーーーーーーーーーーー
パドックの反対側に、鳳条さんがいた。
ロードグランシャリオの後ろで、腕を組んで立っている。
スーツ姿。靴に泥ひとつない。いつも通り。
目が合った。
鳳条さんが小さく頷いた。
俺も、短く頷き返す。
言葉はいらなかった。言うべきことは、レースが終わってから決まる。
ロードグランシャリオは王者の風格だった。
栗毛の馬体がカクテル光線を受けて輝いている。
強い馬の歩き方。
それでも、俺はハルから目を離さなかった。
ーーーーーーーーーーーーー
浅倉君がハルに跨った。
返し馬。コースへ出ていく。
跨った瞬間、ハルの背中が少し沈み、スッと首が伸びた。
いつもの、戦闘形態だ。
俺はスタンドの最前列で、手すりを握りしめた。
隣に黒川先生が来る。
「先生」
「なに」
「勝てますか」
先生が少し黙った。
「さあ」
「さあ、ですか」
「馬に聞きなさい。あの子は、もう行く気よ」
それだけ言って、先生は上段へ移動した。
俺はコースを凝視する。
ハルがゲートに向かっていく。
一頭ずつ、巨大な牡馬たちが檻に吸い込まれていくたび、鉄の塊が揺れた。
ハルの番になった。
スッと入った。
文句も言わず、暴れもせず。
自分が何をすべきか決めているように、静かに。
ゲートが閉まった。
一瞬の、静寂。
ーーーーーーーーーーーーー
俺は息を止めた。
(ハル、行け……!)
電磁ブザーが、鼓膜を突き破った。




