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安馬しか買えない弱小馬主の俺、スキル《相馬眼》で“勝てる場所”を見抜く  作者: ペンは休み休みもて(ペンもて)
第五章 待つ馬、走る馬

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第40話 先頭はまだ遠い

 出走表の騎手欄に、荒尾迅の名前はなかった。


 サビツキノエンジン。大井、ダート千四百。五枠六番。鞍上、柴田拓海。


 その文字を見た瞬間、分かっていたはずのことが、改めて現実になった。荒尾騎手ではない。前走でサビツキノエンジンを逃がし切った騎手ではない。あの馬の首が沈む瞬間を知っている騎手ではない。


 けれど、騎手欄はもう空白ではなかった。


「見るたびに固まるの、やめなさい」

「固まってました?」

「かなり」

「顔に出ますね」

「出るわね。馬主としては、もう少し隠せるようになった方がいい」

「努力します」

「半分くらい期待しておくわ」


 いつもの半分だった。


 大井競馬場の空は、薄く曇っていた。雨はない。馬場発表は良。前走と極端に違う条件ではない。


 違うのは、鞍上。そして、周囲の見方だった。


 パドックにサビツキノエンジンが出てくると、柵沿いのざわめきが少しだけ増えた。


「エンジン出てきた」

「前走逃げ切ったやつだろ」

「今日、荒尾じゃないんだよな」

「柴田で逃げられる?」

「馬が覚えてるかどうかじゃね」

「いや、逃げ馬は騎手大事だぞ」


 聞こうとしなくても、聞こえてしまう。それくらい、今の俺は外の声に敏感になっていた。


 黒川先生が横目でこちらを見る。


「聞くなとは言わないわ。でも、馬より先に人間が揺れないこと」

「……はい」


 サビツキノエンジンは、パドックを歩いていた。落ち着いている、とは言いづらい。首は少し高い。目も鋭い。時折、前へ出ようとして厩務員の手を少し引っ張る。


 だが、悪い感じではない。走りたい気持ちはある。前へ行く気持ちもある。


 問題は、その気持ちを騎手がどう扱うかだった。


「気合い、入りすぎですか」

「入りすぎる一歩手前」

「いいんですか、それ」

「良くはない。でも悪くもない。この馬が眠そうにしてたら、それはそれで困るわ」

「分かりやすいですね」

「分かりやすいから難しいの」


 前にも言われた気がする。


 サビツキノエンジンは、隠さない。嫌なら嫌。行きたいなら行きたい。その代わり、こちらが少しでも扱いを間違えると、すぐに走りで返ってくる。


 パドックの向こう側に、柴田拓海騎手の姿が見えた。勝負服に着替えている。顔は硬い。ただ、目は逃げていなかった。


 柴田騎手は、こちらへ歩いてきて、黒川先生に頭を下げた。


「よろしくお願いします」

「今日、何をするかは分かってるわね」

「はい」

「出して。ハナを取って。取った後に、追いすぎない」

「はい」

「言うのは簡単よ」

「はい。簡単じゃないのも分かってます」


 柴田騎手の返事は短かった。緊張はしている。でも、迷ってはいない。


「緊張してますか」


 俺が聞くと、柴田騎手は少しだけ苦笑した。


「してます。でも、控える理由にはならないです」


 その言葉で、黒川先生の眉がわずかに動いた。


「荒尾さんからも、今朝もう一回連絡が来ました」

「何て?」

「最初の一完歩で迷うなって。それと、ハナを取ってから勝とうとするなって」

「ハナを取ってから勝とうとするな?」

「先頭に立った瞬間に勝ちに行こうとすると早くなるから、だそうです」


 柴田騎手は、サビツキノエンジンを見た。


「まずは、この馬の形に入れる。勝つかどうかは、その後だって」


 荒尾迅らしい言葉だった。自分が乗れない馬のことを、まだ考えている。その事実が、少しだけ胸を軽くした。


 柴田騎手が、サビツキノエンジンの横に立つ。馬は、一度だけ耳を伏せかけた。


 柴田騎手は触らない。ただ、鐙を確認し、腹帯を見て、少し距離を保ったまま準備する。


「まだ触らないんですね」

「今は嫌がられそうなので」


 黒川先生が、低く言う。


「本番で嫌われなければいいわ」

「はい」


 騎乗合図がかかる。柴田騎手が跨がった瞬間、サビツキノエンジンの首が少し上がった。


 柴田騎手の手が動く。押さえ込まない。ただ、馬が前へ行こうとする気持ちを潰さない位置で、ぎりぎり止めている。


 パドックから馬場へ向かう通路で、周囲の声がまた聞こえた。


「お、柴田乗った」

「エンジン、気合い入ってんな」

「これ出していけるか?」

「出していかないと終わるだろ」

「でも柴田、逃げ切り甘いんだよなあ」


 柴田騎手の耳にも入っているかもしれない。入っていたとしても、彼は振り向かなかった。


 返し馬。


 サビツキノエンジンは、最初から前へ行こうとした。柴田騎手が促す。少し強い。追い切りの時と同じように、馬の首が一瞬上がりかけた。


 俺の手に力が入る。


 黒川先生が低く言った。


「まだ強い」


 柴田騎手の手が、すぐに変わった。引かない。抑え込まない。ただ、押しすぎをやめる。


 サビツキノエンジンの首が、少しずつ下がった。蹄がダートを叩く音が変わる。速すぎない。でも、前へ行く気持ちは消えていない。


「……分かってはいる。本番でできるかは別だけど」

「ですよね」

「でも、返し馬で控える騎手じゃないことは分かった」


 それだけでも、今の俺には大きかった。


 今日の相手には、内に速い馬がいる。


 一枠一番、ハヤテノライン。スタートが速く、前に行きたい馬だ。内枠を引いた以上、陣営も下げる理由がない。


 その外に、二番手でも競馬ができるマルヨシグラン。さらに外から被せてくる馬もいるかもしれない。


 サビツキノエンジンは五枠六番。悪くない。ただし、迷えば内に行かれる。行かれれば、砂を被る。砂を被れば、前走で取り戻したものが崩れるかもしれない。


「先生」

「何?」

「ハヤテノライン、速いですね」

「速いわね」

「ハナを取れなかったら」

「そこで終わり、とは言わない。でも、かなり苦しくなる」


 黒川先生は、サビツキノエンジンを見た。


「あの馬にとって、先頭はただの位置じゃない。呼吸する場所よ」


 呼吸する場所。


 その言葉が、妙に残った。


 サビツキノエンジンは、前に行きたいだけではない。先頭でしか、うまく息ができない。


 だから、先頭を取る。


 それは作戦ではなく、この馬の走り方だった。


 各馬がゲート裏へ向かう。サビツキノエンジンは、少しうるさくなった。


 柴田騎手が声をかける。何を言っているかは聞こえない。でも、強く叱ってはいない。馬の気分を削らないように、短く、低く。


 係員に誘導され、ゲートへ入る。


 サビツキノエンジンは五枠六番。隣の馬が少し暴れた。耳が動く。柴田騎手の手が、馬の首の位置を整える。


 ゲートの前で終わらせない。


 彼が馬房の前で言った言葉を、俺は思い出した。


 大井の場内が、少し静かになる。ファンファーレの余韻が消える。最後の一頭がゲートに収まった。


 息が詰まる。


 俺は、無意識に出走表を握りしめていた。


「三上さん」

「はい」

「ここから先は、祈っても変わらないわよ」

「分かってます」

「でも、祈るのは自由」


 その言い方が、先生らしくなかった。俺は少しだけ笑いそうになって、結局、笑えなかった。


 ゲートが開いた。


 サビツキノエンジンは出た。悪くない。むしろ、前走より反応は良い。柴田拓海の手も迷っていない。最初の一完歩から、前へ行かせている。


 行ける。


 そう思った瞬間、内のハヤテノラインも鋭く飛び出した。一番枠から、まっすぐ主張してくる。


 速い。


 サビツキノエンジンの前に、内から影が伸びる。柴田騎手の手が動いた。強い。少し強い。それでも、引かない。


 サビツキノエンジンの首が上がりかける。


 まだだ。


 まだ、先頭ではない。


 内のハヤテノラインが、半馬身前。外からサビツキノエンジンが並びかける。


 最初のコーナーまで、時間はない。


 先頭は、まだ取れていなかった。


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