第40話 先頭はまだ遠い
出走表の騎手欄に、荒尾迅の名前はなかった。
サビツキノエンジン。大井、ダート千四百。五枠六番。鞍上、柴田拓海。
その文字を見た瞬間、分かっていたはずのことが、改めて現実になった。荒尾騎手ではない。前走でサビツキノエンジンを逃がし切った騎手ではない。あの馬の首が沈む瞬間を知っている騎手ではない。
けれど、騎手欄はもう空白ではなかった。
「見るたびに固まるの、やめなさい」
「固まってました?」
「かなり」
「顔に出ますね」
「出るわね。馬主としては、もう少し隠せるようになった方がいい」
「努力します」
「半分くらい期待しておくわ」
いつもの半分だった。
大井競馬場の空は、薄く曇っていた。雨はない。馬場発表は良。前走と極端に違う条件ではない。
違うのは、鞍上。そして、周囲の見方だった。
パドックにサビツキノエンジンが出てくると、柵沿いのざわめきが少しだけ増えた。
「エンジン出てきた」
「前走逃げ切ったやつだろ」
「今日、荒尾じゃないんだよな」
「柴田で逃げられる?」
「馬が覚えてるかどうかじゃね」
「いや、逃げ馬は騎手大事だぞ」
聞こうとしなくても、聞こえてしまう。それくらい、今の俺は外の声に敏感になっていた。
黒川先生が横目でこちらを見る。
「聞くなとは言わないわ。でも、馬より先に人間が揺れないこと」
「……はい」
サビツキノエンジンは、パドックを歩いていた。落ち着いている、とは言いづらい。首は少し高い。目も鋭い。時折、前へ出ようとして厩務員の手を少し引っ張る。
だが、悪い感じではない。走りたい気持ちはある。前へ行く気持ちもある。
問題は、その気持ちを騎手がどう扱うかだった。
「気合い、入りすぎですか」
「入りすぎる一歩手前」
「いいんですか、それ」
「良くはない。でも悪くもない。この馬が眠そうにしてたら、それはそれで困るわ」
「分かりやすいですね」
「分かりやすいから難しいの」
前にも言われた気がする。
サビツキノエンジンは、隠さない。嫌なら嫌。行きたいなら行きたい。その代わり、こちらが少しでも扱いを間違えると、すぐに走りで返ってくる。
パドックの向こう側に、柴田拓海騎手の姿が見えた。勝負服に着替えている。顔は硬い。ただ、目は逃げていなかった。
柴田騎手は、こちらへ歩いてきて、黒川先生に頭を下げた。
「よろしくお願いします」
「今日、何をするかは分かってるわね」
「はい」
「出して。ハナを取って。取った後に、追いすぎない」
「はい」
「言うのは簡単よ」
「はい。簡単じゃないのも分かってます」
柴田騎手の返事は短かった。緊張はしている。でも、迷ってはいない。
「緊張してますか」
俺が聞くと、柴田騎手は少しだけ苦笑した。
「してます。でも、控える理由にはならないです」
その言葉で、黒川先生の眉がわずかに動いた。
「荒尾さんからも、今朝もう一回連絡が来ました」
「何て?」
「最初の一完歩で迷うなって。それと、ハナを取ってから勝とうとするなって」
「ハナを取ってから勝とうとするな?」
「先頭に立った瞬間に勝ちに行こうとすると早くなるから、だそうです」
柴田騎手は、サビツキノエンジンを見た。
「まずは、この馬の形に入れる。勝つかどうかは、その後だって」
荒尾迅らしい言葉だった。自分が乗れない馬のことを、まだ考えている。その事実が、少しだけ胸を軽くした。
柴田騎手が、サビツキノエンジンの横に立つ。馬は、一度だけ耳を伏せかけた。
柴田騎手は触らない。ただ、鐙を確認し、腹帯を見て、少し距離を保ったまま準備する。
「まだ触らないんですね」
「今は嫌がられそうなので」
黒川先生が、低く言う。
「本番で嫌われなければいいわ」
「はい」
騎乗合図がかかる。柴田騎手が跨がった瞬間、サビツキノエンジンの首が少し上がった。
柴田騎手の手が動く。押さえ込まない。ただ、馬が前へ行こうとする気持ちを潰さない位置で、ぎりぎり止めている。
パドックから馬場へ向かう通路で、周囲の声がまた聞こえた。
「お、柴田乗った」
「エンジン、気合い入ってんな」
「これ出していけるか?」
「出していかないと終わるだろ」
「でも柴田、逃げ切り甘いんだよなあ」
柴田騎手の耳にも入っているかもしれない。入っていたとしても、彼は振り向かなかった。
返し馬。
サビツキノエンジンは、最初から前へ行こうとした。柴田騎手が促す。少し強い。追い切りの時と同じように、馬の首が一瞬上がりかけた。
俺の手に力が入る。
黒川先生が低く言った。
「まだ強い」
柴田騎手の手が、すぐに変わった。引かない。抑え込まない。ただ、押しすぎをやめる。
サビツキノエンジンの首が、少しずつ下がった。蹄がダートを叩く音が変わる。速すぎない。でも、前へ行く気持ちは消えていない。
「……分かってはいる。本番でできるかは別だけど」
「ですよね」
「でも、返し馬で控える騎手じゃないことは分かった」
それだけでも、今の俺には大きかった。
今日の相手には、内に速い馬がいる。
一枠一番、ハヤテノライン。スタートが速く、前に行きたい馬だ。内枠を引いた以上、陣営も下げる理由がない。
その外に、二番手でも競馬ができるマルヨシグラン。さらに外から被せてくる馬もいるかもしれない。
サビツキノエンジンは五枠六番。悪くない。ただし、迷えば内に行かれる。行かれれば、砂を被る。砂を被れば、前走で取り戻したものが崩れるかもしれない。
「先生」
「何?」
「ハヤテノライン、速いですね」
「速いわね」
「ハナを取れなかったら」
「そこで終わり、とは言わない。でも、かなり苦しくなる」
黒川先生は、サビツキノエンジンを見た。
「あの馬にとって、先頭はただの位置じゃない。呼吸する場所よ」
呼吸する場所。
その言葉が、妙に残った。
サビツキノエンジンは、前に行きたいだけではない。先頭でしか、うまく息ができない。
だから、先頭を取る。
それは作戦ではなく、この馬の走り方だった。
各馬がゲート裏へ向かう。サビツキノエンジンは、少しうるさくなった。
柴田騎手が声をかける。何を言っているかは聞こえない。でも、強く叱ってはいない。馬の気分を削らないように、短く、低く。
係員に誘導され、ゲートへ入る。
サビツキノエンジンは五枠六番。隣の馬が少し暴れた。耳が動く。柴田騎手の手が、馬の首の位置を整える。
ゲートの前で終わらせない。
彼が馬房の前で言った言葉を、俺は思い出した。
大井の場内が、少し静かになる。ファンファーレの余韻が消える。最後の一頭がゲートに収まった。
息が詰まる。
俺は、無意識に出走表を握りしめていた。
「三上さん」
「はい」
「ここから先は、祈っても変わらないわよ」
「分かってます」
「でも、祈るのは自由」
その言い方が、先生らしくなかった。俺は少しだけ笑いそうになって、結局、笑えなかった。
ゲートが開いた。
サビツキノエンジンは出た。悪くない。むしろ、前走より反応は良い。柴田拓海の手も迷っていない。最初の一完歩から、前へ行かせている。
行ける。
そう思った瞬間、内のハヤテノラインも鋭く飛び出した。一番枠から、まっすぐ主張してくる。
速い。
サビツキノエンジンの前に、内から影が伸びる。柴田騎手の手が動いた。強い。少し強い。それでも、引かない。
サビツキノエンジンの首が上がりかける。
まだだ。
まだ、先頭ではない。
内のハヤテノラインが、半馬身前。外からサビツキノエンジンが並びかける。
最初のコーナーまで、時間はない。
先頭は、まだ取れていなかった。




