表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
安馬しか買えない弱小馬主の俺、スキル《相馬眼》で“勝てる場所”を見抜く  作者: ペンは休み休みもて(ペンもて)
第五章 待つ馬、走る馬

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

41/49

第41話 譲らない先頭



内のハヤテノラインが、半馬身前に出た。


一番枠から、まっすぐ先頭を取りに来ている。鞍上も迷っていない。内枠を引いた逃げ馬が、下げる理由などない。


サビツキノエンジンは外から並びかける。柴田拓海騎手の手が動く。強い。少し強い。けれど、引かない。


最初のコーナーまで、時間はなかった。


「押しすぎるな」


俺は声に出していないつもりだった。


だが、隣で黒川先生が低く言った。


「聞こえてるわよ」


「すみません」


「謝る暇があるなら、見てなさい」


見るしかなかった。


内のハヤテノラインが一頭分だけ前にいる。サビツキノエンジンの首が上がりかける。前へ行きたい気持ちと、鞍上の扶助がぶつかりかけている。


ここで怒らせたら終わる。


ここで引いても終わる。


柴田騎手は、ほんの一瞬だけ姿勢を低くした。


追うのではなく、馬の首の動きに合わせるように手綱を譲る。押し切るのではない。けれど、諦めてもいない。


サビツキノエンジンの首が、ふっと下がった。


「あ」


俺の口から、短い声が漏れた。


黒い馬体が、内のハヤテノラインに並ぶ。


ハヤテノラインの鞍上が押す。内から譲らない。柴田騎手も押す。ただし、さっきより強くない。馬の気分を前へ向けたまま、手だけで喧嘩しない。


二頭が並んだまま、最初のコーナーへ入る。


大井の砂が跳ねた。


外を回るぶん、サビツキノエンジンの方が少し苦しい。普通なら内の馬に利がある。けれど、サビツキノエンジンにとって、内で砂を被るよりずっといい。


砂を浴びない。


前を見る。


自分のリズムで走る。


それだけで、この馬の走りは変わる。


コーナーを抜ける手前で、ハヤテノラインの鞍上の手が動いた。


先に苦しくなったのは、内だった。


半馬身。


クビ。


そして、サビツキノエンジンの鼻先が前に出た。


『サビツキノエンジン、外から先頭! 内ハヤテノラインも食い下がる! 先頭争いは五枠六番サビツキノエンジン!』


実況の声が場内に響いた瞬間、俺は出走表を握る手に力を入れていた。


先頭を取った。


だが、まだ勝ってはいない。


「ここからよ」


黒川先生の声は、まったく緩まなかった。


「はい」


「ここで勝ちに行ったら、止まる」


柴田騎手にも同じことが分かっているはずだった。


ハナを取った瞬間に勝とうとするな。


荒尾騎手が今朝、柴田騎手に言った言葉が頭をよぎる。


先頭に立ったから終わりではない。むしろ、ここからが逃げだった。逃げ切れなかった騎手にとって、一番難しい場所。


向こう正面。


サビツキノエンジンは先頭で走っていた。ハヤテノラインは内で少し下がり、二番手。外からマルヨシグランがじわっと上がってくる。後ろも離れてはいない。


柴田騎手の背中には、まだ硬さがある。


それでも、手は動かない。


追い切りの時なら、ここで少し早く動きかけていた。映像で見た過去のレースなら、ここで不安になって馬を急かしていた。


でも今は違う。


柴田騎手は、サビツキノエンジンの首が下がったまま走るのを邪魔していない。


「待ててる」


俺が言うと、黒川先生は目を細めた。


「今のところはね」


「先生、厳しいですね」


「逃げ馬に甘い言葉をかけると、だいたい直線で裏切られるの」


「経験談ですか」


「嫌なことを聞くわね」


それでも、先生の声は少しだけ柔らかかった。


三コーナーに入る。


外からマルヨシグランが迫った。二番手のハヤテノラインはまだ抵抗している。後ろから差し馬も来ている。


サビツキノエンジンの耳が動いた。


柴田騎手の手も、動きかけた。


早い。


俺はそう思った。


たぶん、黒川先生も同じことを思った。


柴田騎手の右手が、一瞬だけ前へ出る。追いたくなる場面だった。後ろが来る。外が迫る。逃げ馬に乗っている騎手なら、そこで不安にならない方が難しい。


だが、柴田騎手は追わなかった。


ほんの一拍。


待った。


その一拍で、サビツキノエンジンの走りが崩れなかった。


『三コーナーから四コーナー! 先頭はサビツキノエンジン! ハヤテノライン食い下がる! 外からマルヨシグラン! 後方からノーブルリードも追い込んでくる!』


四コーナー。


柴田騎手が、そこで初めて促した。


強すぎない。


遅すぎない。


サビツキノエンジンの首が、もう一度沈む。


黒い馬体が、砂を蹴った。


「行け」


今度は、声が出た。


「行け、エンジン」


直線に入る。


サビツキノエンジンは先頭だった。


だが、差はない。外からマルヨシグラン。さらに外からノーブルリード。内ではハヤテノラインが苦しくなりながらも、まだ完全には下がっていない。


スタンドの声が大きくなる。


「六番残るか!」


「柴田、待った!」


「外来てる!」


「ノーブル差せ!」


「エンジン粘れ!」


いろいろな声が混ざって、砂の音に溶けた。


柴田騎手は追う。


サビツキノエンジンは応える。


派手な末脚ではない。ハルサメノツキのように、外から景色を変える脚ではない。


ただ、前を譲らない。


先頭で息をしている馬が、その場所を守ろうとしている。


残り二百。


マルヨシグランが迫る。


柴田騎手のムチが入った。サビツキノエンジンの耳が動く。怒ったのではない。反応した。


もう一度、脚を使う。


『残り二百! サビツキノエンジン先頭! 外マルヨシグラン! さらにノーブルリード! サビツキノエンジン、粘る!』


「まだ」


黒川先生が言った。


俺は何も言えなかった。


まだ。


本当に、その通りだった。


残り百。


マルヨシグランが半馬身まで来る。ノーブルリードも外から伸びている。サビツキノエンジンの脚色は、もう楽ではない。


柴田騎手の体が揺れる。


荒尾騎手ほど、最後の追い方は滑らかではない。少し硬い。少し必死だ。


でも、控えていない。


馬と喧嘩していない。


そして、先頭を諦めていない。


「譲るな」


俺は、今度こそはっきり言った。


「譲るな、エンジン」


サビツキノエンジンの首が下がった。


黒い馬体が、もう一度だけ前へ出る。


『サビツキノエンジン! マルヨシグラン! 外ノーブルリード! 三頭横に広がる! サビツキノエンジン粘る! マルヨシグラン迫る!』


ゴール板が近づく。


一完歩。


もう一完歩。


マルヨシグランの鼻先が並びかける。


だが、サビツキノエンジンは譲らなかった。


『サビツキノエンジン! サビツキノエンジン、先頭でゴールイン! 二着はマルヨシグランか、外ノーブルリードか! サビツキノエンジン、逃げ切りました!』


一瞬、音が遠くなった。


それから、場内のざわめきが戻ってくる。


「残った!」


「柴田で残したぞ!」


「荒尾じゃなくても逃げた!」


「マジかよ、エンジン二連勝?」


「また三上の馬かよ!」


俺は、出走表を握ったまま立っていた。


勝った。


サビツキノエンジンが、もう一度逃げ切った。


荒尾迅ではない鞍上で。


柴田拓海という、まだ逃げ切れなかった騎手で。


「先生」


「何?」


「勝ちました」


「見れば分かるわ」


黒川先生はそう言ったが、目はまだゴール板の方を向いていた。


「……でも、危なかった」


「はい」


「最初は強い。向こう正面も少し硬い。直線の追い方も、まだ荒尾の方が上」


「はい」


「でも」


先生は、そこで短く息を吐いた。


「控えなかった。待った。最後まで馬と喧嘩しなかった」


その言葉で、ようやく胸の奥が熱くなった。


勝ったことより、その評価が大きかった。


サビツキノエンジンは、荒尾騎手だけの馬ではなかった。


荒尾騎手が教えた逃げを、馬が覚えていた。柴田騎手がそれを壊さなかった。未完成の騎手と、癖の強い逃げ馬が、ぎりぎりのところで同じ方向を向いた。


だから、残った。


だから、勝った。


引き上げてくるサビツキノエンジンは、砂まみれだった。息は荒い。目つきも鋭い。愛想など当然ない。


それでも、前走の時と同じように、どこか満足げに見えた。


柴田騎手は、馬上で何度も息を吐いていた。笑っていない。勝った騎手の顔というより、ようやく落とさずに運べた人間の顔だった。


下馬して、黒川先生の前に来る。


「ありがとうございました」


第一声が、それだった。


黒川先生は腕を組んだ。


「勝った騎手の第一声にしては、暗いわね」


「怖かったです」


柴田騎手は正直に言った。


「三コーナーで追いそうになりました」


「見てたわ」


「追ってたら、たぶん止まってました」


「でしょうね」


容赦がなかった。


だが、柴田騎手は逃げなかった。深く頭を下げる。


「馬に助けられました」


その言葉に、俺はサビツキノエンジンを見た。


黒い馬は、こちらを見ていない。鼻を鳴らし、首を少し振っている。人間の感謝など知らない顔だった。


でも、今日のレースで一つ分かった。


この馬は、前走だけの馬ではない。


一度覚えた走り方を、まだ手放していない。


「柴田騎手」


俺が声をかけると、彼はすぐにこちらを向いた。


「はい」


「ありがとうございました。エンジンを、先頭に置いてくれて」


柴田騎手は一瞬だけ黙った。


それから、少しだけ表情を崩した。


「……逃げ切れました」


「はい」


「僕、逃げ切れました」


それは、勝利騎手の言葉というより、自分に言い聞かせるような声だった。


黒川先生が横から言う。


「一回逃げ切ったくらいで、逃げ切りが上手い騎手になったと思わないこと」


「はい」


「でも、今日の騎乗は悪くなかった」


柴田騎手の背筋が、少しだけ伸びた。


「ありがとうございます」


「半分くらいね」


「半分ですか」


「残り半分は、次に同じことができたら」


柴田騎手は、なぜか少し嬉しそうに頷いた。


俺は思わず笑ってしまった。


黒川先生の半分は、意外と重い。


検量を終え、正式に着順が確定した。


一着、サビツキノエンジン。


二着、マルヨシグラン。


三着、ノーブルリード。


ハヤテノラインは、直線で苦しくなって着外に沈んでいた。最初に先頭を取りに来た代償だった。


サビツキノエンジンも楽ではなかった。外から無理に取りに行ったぶん、消耗はあった。次に同じ形で勝てる保証はない。


それでも、今日の勝ちは大きい。


荒尾迅がいなければ走れない馬ではない。


ただし、誰でもいい馬でもない。


そこが分かった。


厩舎へ戻る途中、スマホが震えた。


画面を見る。


荒尾迅。


通話ではなく、短いメッセージだった。


『柴田、残しましたね』


その後に、もう一通。


『俺の席、なくなってませんよね?』


俺は少しだけ笑った。


黒川先生が横から画面を覗く。


「荒尾?」


「はい」


「何て?」


「席がなくなってないか心配してます」


「調子いいわね」


「でも、見てくれてたみたいです」


「でしょうね」


先生はそれだけ言って、前を向いた。


俺は返信を打った。


『なくなってません。でも、柴田騎手の席もできました』


送信してから、少しだけ不思議な気分になった。


サビツキノエンジンという馬を中心に、荒尾迅と柴田拓海という二人の騎手がつながった。


馬主としては、難しい。


どちらを乗せるか。どの番組を使うか。勝った後にどう休ませるか。次はもっと相手が強くなる。マークもきつくなる。逃げ馬は、覚えられた瞬間から苦しくなる。


それでも。


馬の走れる場所が、一つではなくなった。


それは、たぶん悪いことではない。


厩舎に戻ると、サビツキノエンジンは相変わらず愛想がなかった。梅田さんが馬体を拭いている間も、顔をそむけている。


俺が近づくと、鼻を鳴らした。


「勝ったな」


返事はない。


「荒尾騎手じゃなくても、走れたな」


サビツキノエンジンは、ちらりとこちらを見た。


ほんの一瞬だけだった。


それから、また顔を背ける。


俺はそれだけで十分だった。


「錆びてなかったな」


黒川先生が、少し離れた場所から言った。


「三上さん」


「はい」


「勝った馬ほど、次が難しいわよ」


「分かってます」


「本当に?」


「半分くらいは」


先生がこちらを見た。


「そこで私の真似をしない」


「すみません」


「でも、まあ」


先生はサビツキノエンジンの馬体を見た。


「今日のところは、半分以上は褒めてもいいわ」


俺は少しだけ息を吐いた。


それは、勝ったことへの評価ではない。


待つ馬を待たせたこと。


走る馬を走らせたこと。


そして、荒尾迅だけに頼らず、この馬自身が覚えた走りを信じたこと。


その全部に対する、半分以上だった。


夜、厩舎の外に出ると、大井の空は曇ったままだった。


月は見えない。


雨も降っていない。


ただ、乾いた砂の匂いが残っている。


サビツキノエンジンは、今日も先頭で息をした。


その事実だけが、胸の奥でまだ熱を持っていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ