第41話 譲らない先頭
内のハヤテノラインが、半馬身前に出た。
一番枠から、まっすぐ先頭を取りに来ている。鞍上も迷っていない。内枠を引いた逃げ馬が、下げる理由などない。
サビツキノエンジンは外から並びかける。柴田拓海騎手の手が動く。強い。少し強い。けれど、引かない。
最初のコーナーまで、時間はなかった。
「押しすぎるな」
俺は声に出していないつもりだった。
だが、隣で黒川先生が低く言った。
「聞こえてるわよ」
「すみません」
「謝る暇があるなら、見てなさい」
見るしかなかった。
内のハヤテノラインが一頭分だけ前にいる。サビツキノエンジンの首が上がりかける。前へ行きたい気持ちと、鞍上の扶助がぶつかりかけている。
ここで怒らせたら終わる。
ここで引いても終わる。
柴田騎手は、ほんの一瞬だけ姿勢を低くした。
追うのではなく、馬の首の動きに合わせるように手綱を譲る。押し切るのではない。けれど、諦めてもいない。
サビツキノエンジンの首が、ふっと下がった。
「あ」
俺の口から、短い声が漏れた。
黒い馬体が、内のハヤテノラインに並ぶ。
ハヤテノラインの鞍上が押す。内から譲らない。柴田騎手も押す。ただし、さっきより強くない。馬の気分を前へ向けたまま、手だけで喧嘩しない。
二頭が並んだまま、最初のコーナーへ入る。
大井の砂が跳ねた。
外を回るぶん、サビツキノエンジンの方が少し苦しい。普通なら内の馬に利がある。けれど、サビツキノエンジンにとって、内で砂を被るよりずっといい。
砂を浴びない。
前を見る。
自分のリズムで走る。
それだけで、この馬の走りは変わる。
コーナーを抜ける手前で、ハヤテノラインの鞍上の手が動いた。
先に苦しくなったのは、内だった。
半馬身。
クビ。
そして、サビツキノエンジンの鼻先が前に出た。
『サビツキノエンジン、外から先頭! 内ハヤテノラインも食い下がる! 先頭争いは五枠六番サビツキノエンジン!』
実況の声が場内に響いた瞬間、俺は出走表を握る手に力を入れていた。
先頭を取った。
だが、まだ勝ってはいない。
「ここからよ」
黒川先生の声は、まったく緩まなかった。
「はい」
「ここで勝ちに行ったら、止まる」
柴田騎手にも同じことが分かっているはずだった。
ハナを取った瞬間に勝とうとするな。
荒尾騎手が今朝、柴田騎手に言った言葉が頭をよぎる。
先頭に立ったから終わりではない。むしろ、ここからが逃げだった。逃げ切れなかった騎手にとって、一番難しい場所。
向こう正面。
サビツキノエンジンは先頭で走っていた。ハヤテノラインは内で少し下がり、二番手。外からマルヨシグランがじわっと上がってくる。後ろも離れてはいない。
柴田騎手の背中には、まだ硬さがある。
それでも、手は動かない。
追い切りの時なら、ここで少し早く動きかけていた。映像で見た過去のレースなら、ここで不安になって馬を急かしていた。
でも今は違う。
柴田騎手は、サビツキノエンジンの首が下がったまま走るのを邪魔していない。
「待ててる」
俺が言うと、黒川先生は目を細めた。
「今のところはね」
「先生、厳しいですね」
「逃げ馬に甘い言葉をかけると、だいたい直線で裏切られるの」
「経験談ですか」
「嫌なことを聞くわね」
それでも、先生の声は少しだけ柔らかかった。
三コーナーに入る。
外からマルヨシグランが迫った。二番手のハヤテノラインはまだ抵抗している。後ろから差し馬も来ている。
サビツキノエンジンの耳が動いた。
柴田騎手の手も、動きかけた。
早い。
俺はそう思った。
たぶん、黒川先生も同じことを思った。
柴田騎手の右手が、一瞬だけ前へ出る。追いたくなる場面だった。後ろが来る。外が迫る。逃げ馬に乗っている騎手なら、そこで不安にならない方が難しい。
だが、柴田騎手は追わなかった。
ほんの一拍。
待った。
その一拍で、サビツキノエンジンの走りが崩れなかった。
『三コーナーから四コーナー! 先頭はサビツキノエンジン! ハヤテノライン食い下がる! 外からマルヨシグラン! 後方からノーブルリードも追い込んでくる!』
四コーナー。
柴田騎手が、そこで初めて促した。
強すぎない。
遅すぎない。
サビツキノエンジンの首が、もう一度沈む。
黒い馬体が、砂を蹴った。
「行け」
今度は、声が出た。
「行け、エンジン」
直線に入る。
サビツキノエンジンは先頭だった。
だが、差はない。外からマルヨシグラン。さらに外からノーブルリード。内ではハヤテノラインが苦しくなりながらも、まだ完全には下がっていない。
スタンドの声が大きくなる。
「六番残るか!」
「柴田、待った!」
「外来てる!」
「ノーブル差せ!」
「エンジン粘れ!」
いろいろな声が混ざって、砂の音に溶けた。
柴田騎手は追う。
サビツキノエンジンは応える。
派手な末脚ではない。ハルサメノツキのように、外から景色を変える脚ではない。
ただ、前を譲らない。
先頭で息をしている馬が、その場所を守ろうとしている。
残り二百。
マルヨシグランが迫る。
柴田騎手のムチが入った。サビツキノエンジンの耳が動く。怒ったのではない。反応した。
もう一度、脚を使う。
『残り二百! サビツキノエンジン先頭! 外マルヨシグラン! さらにノーブルリード! サビツキノエンジン、粘る!』
「まだ」
黒川先生が言った。
俺は何も言えなかった。
まだ。
本当に、その通りだった。
残り百。
マルヨシグランが半馬身まで来る。ノーブルリードも外から伸びている。サビツキノエンジンの脚色は、もう楽ではない。
柴田騎手の体が揺れる。
荒尾騎手ほど、最後の追い方は滑らかではない。少し硬い。少し必死だ。
でも、控えていない。
馬と喧嘩していない。
そして、先頭を諦めていない。
「譲るな」
俺は、今度こそはっきり言った。
「譲るな、エンジン」
サビツキノエンジンの首が下がった。
黒い馬体が、もう一度だけ前へ出る。
『サビツキノエンジン! マルヨシグラン! 外ノーブルリード! 三頭横に広がる! サビツキノエンジン粘る! マルヨシグラン迫る!』
ゴール板が近づく。
一完歩。
もう一完歩。
マルヨシグランの鼻先が並びかける。
だが、サビツキノエンジンは譲らなかった。
『サビツキノエンジン! サビツキノエンジン、先頭でゴールイン! 二着はマルヨシグランか、外ノーブルリードか! サビツキノエンジン、逃げ切りました!』
一瞬、音が遠くなった。
それから、場内のざわめきが戻ってくる。
「残った!」
「柴田で残したぞ!」
「荒尾じゃなくても逃げた!」
「マジかよ、エンジン二連勝?」
「また三上の馬かよ!」
俺は、出走表を握ったまま立っていた。
勝った。
サビツキノエンジンが、もう一度逃げ切った。
荒尾迅ではない鞍上で。
柴田拓海という、まだ逃げ切れなかった騎手で。
「先生」
「何?」
「勝ちました」
「見れば分かるわ」
黒川先生はそう言ったが、目はまだゴール板の方を向いていた。
「……でも、危なかった」
「はい」
「最初は強い。向こう正面も少し硬い。直線の追い方も、まだ荒尾の方が上」
「はい」
「でも」
先生は、そこで短く息を吐いた。
「控えなかった。待った。最後まで馬と喧嘩しなかった」
その言葉で、ようやく胸の奥が熱くなった。
勝ったことより、その評価が大きかった。
サビツキノエンジンは、荒尾騎手だけの馬ではなかった。
荒尾騎手が教えた逃げを、馬が覚えていた。柴田騎手がそれを壊さなかった。未完成の騎手と、癖の強い逃げ馬が、ぎりぎりのところで同じ方向を向いた。
だから、残った。
だから、勝った。
引き上げてくるサビツキノエンジンは、砂まみれだった。息は荒い。目つきも鋭い。愛想など当然ない。
それでも、前走の時と同じように、どこか満足げに見えた。
柴田騎手は、馬上で何度も息を吐いていた。笑っていない。勝った騎手の顔というより、ようやく落とさずに運べた人間の顔だった。
下馬して、黒川先生の前に来る。
「ありがとうございました」
第一声が、それだった。
黒川先生は腕を組んだ。
「勝った騎手の第一声にしては、暗いわね」
「怖かったです」
柴田騎手は正直に言った。
「三コーナーで追いそうになりました」
「見てたわ」
「追ってたら、たぶん止まってました」
「でしょうね」
容赦がなかった。
だが、柴田騎手は逃げなかった。深く頭を下げる。
「馬に助けられました」
その言葉に、俺はサビツキノエンジンを見た。
黒い馬は、こちらを見ていない。鼻を鳴らし、首を少し振っている。人間の感謝など知らない顔だった。
でも、今日のレースで一つ分かった。
この馬は、前走だけの馬ではない。
一度覚えた走り方を、まだ手放していない。
「柴田騎手」
俺が声をかけると、彼はすぐにこちらを向いた。
「はい」
「ありがとうございました。エンジンを、先頭に置いてくれて」
柴田騎手は一瞬だけ黙った。
それから、少しだけ表情を崩した。
「……逃げ切れました」
「はい」
「僕、逃げ切れました」
それは、勝利騎手の言葉というより、自分に言い聞かせるような声だった。
黒川先生が横から言う。
「一回逃げ切ったくらいで、逃げ切りが上手い騎手になったと思わないこと」
「はい」
「でも、今日の騎乗は悪くなかった」
柴田騎手の背筋が、少しだけ伸びた。
「ありがとうございます」
「半分くらいね」
「半分ですか」
「残り半分は、次に同じことができたら」
柴田騎手は、なぜか少し嬉しそうに頷いた。
俺は思わず笑ってしまった。
黒川先生の半分は、意外と重い。
検量を終え、正式に着順が確定した。
一着、サビツキノエンジン。
二着、マルヨシグラン。
三着、ノーブルリード。
ハヤテノラインは、直線で苦しくなって着外に沈んでいた。最初に先頭を取りに来た代償だった。
サビツキノエンジンも楽ではなかった。外から無理に取りに行ったぶん、消耗はあった。次に同じ形で勝てる保証はない。
それでも、今日の勝ちは大きい。
荒尾迅がいなければ走れない馬ではない。
ただし、誰でもいい馬でもない。
そこが分かった。
厩舎へ戻る途中、スマホが震えた。
画面を見る。
荒尾迅。
通話ではなく、短いメッセージだった。
『柴田、残しましたね』
その後に、もう一通。
『俺の席、なくなってませんよね?』
俺は少しだけ笑った。
黒川先生が横から画面を覗く。
「荒尾?」
「はい」
「何て?」
「席がなくなってないか心配してます」
「調子いいわね」
「でも、見てくれてたみたいです」
「でしょうね」
先生はそれだけ言って、前を向いた。
俺は返信を打った。
『なくなってません。でも、柴田騎手の席もできました』
送信してから、少しだけ不思議な気分になった。
サビツキノエンジンという馬を中心に、荒尾迅と柴田拓海という二人の騎手がつながった。
馬主としては、難しい。
どちらを乗せるか。どの番組を使うか。勝った後にどう休ませるか。次はもっと相手が強くなる。マークもきつくなる。逃げ馬は、覚えられた瞬間から苦しくなる。
それでも。
馬の走れる場所が、一つではなくなった。
それは、たぶん悪いことではない。
厩舎に戻ると、サビツキノエンジンは相変わらず愛想がなかった。梅田さんが馬体を拭いている間も、顔をそむけている。
俺が近づくと、鼻を鳴らした。
「勝ったな」
返事はない。
「荒尾騎手じゃなくても、走れたな」
サビツキノエンジンは、ちらりとこちらを見た。
ほんの一瞬だけだった。
それから、また顔を背ける。
俺はそれだけで十分だった。
「錆びてなかったな」
黒川先生が、少し離れた場所から言った。
「三上さん」
「はい」
「勝った馬ほど、次が難しいわよ」
「分かってます」
「本当に?」
「半分くらいは」
先生がこちらを見た。
「そこで私の真似をしない」
「すみません」
「でも、まあ」
先生はサビツキノエンジンの馬体を見た。
「今日のところは、半分以上は褒めてもいいわ」
俺は少しだけ息を吐いた。
それは、勝ったことへの評価ではない。
待つ馬を待たせたこと。
走る馬を走らせたこと。
そして、荒尾迅だけに頼らず、この馬自身が覚えた走りを信じたこと。
その全部に対する、半分以上だった。
夜、厩舎の外に出ると、大井の空は曇ったままだった。
月は見えない。
雨も降っていない。
ただ、乾いた砂の匂いが残っている。
サビツキノエンジンは、今日も先頭で息をした。
その事実だけが、胸の奥でまだ熱を持っていた。




