第39話 逃げ切れなかった騎手
「会えば分かる」
黒川先生はそう言った。だから俺は、会う前に少しだけ調べることになった。
事務所の机に置かれた端末には、柴田拓海という騎手の過去映像が並んでいる。荒尾迅騎手が紹介した、サビツキノエンジンの代役候補。
代役。言葉にすると簡単だ。だが、サビツキノエンジンにとっては簡単ではない。
あの馬は、ただ誰かを背に乗せれば走る馬じゃない。ハナを切る。先頭で息をする。そこで初めて、錆びていたエンジンが回る。
「まずはこれ」
黒川先生が、一本目の映像を再生した。
大井のダート千二百。柴田拓海は五番人気の馬に乗っていた。
ゲートが開く。出た。迷いがない。内の馬が速い。それでも、柴田騎手は引かなかった。押して、押して、最初のコーナーまでにハナを取り切る。
「前に行く気はありますね」
「あるわ」
黒川先生は、腕を組んだまま画面を見ていた。
「そこは荒尾に近い」
向こう正面。馬は気分よく逃げている。だが、三コーナーの手前で、柴田騎手の手が少し動いた。
早い。
馬はまだ走れている。けれど、騎手が先に不安になったように見えた。
四コーナーで差が詰まる。直線。逃げ馬は粘った。粘ったが、最後の百メートルで捕まった。
二着。
悪い競馬ではない。だが、逃げ切れてはいなかった。
「次」
黒川先生が、別の映像を出す。
今度は千四百。柴田騎手はまた前へ行った。ハナは切れなかったが、二番手で引かなかった。外から被せに行き、向こう正面では先頭に並ぶ。
強気だ。だが、また少し早い。
馬を動かすタイミングが、ほんの少しだけ前のめりになる。直線、脚が甘くなる。
三着。
三本目も似ていた。前に行く。逃げる。見せ場は作る。
だが、最後に何かが足りない。
俺は画面を止めた。
「逃げる覚悟はある」
「ええ」
「でも、先頭で待つのが少し怖い」
黒川先生が、こちらを見た。
「そう見えた?」
「はい。前に行くのは怖がってない。でも、ハナに立った後、捕まる前に自分から動きすぎている気がします」
「正解に近いわ」
先生は端末を机に置いた。
「柴田拓海は、前に行く競馬が好き。スタートしてから引かない。そこは評価できる。ただ、逃げ切る競馬はまだ上手くない」
「逃げ切る競馬」
「逃げはね、出して終わりじゃないの」
黒川先生は、コーヒーに口をつけた。
「ハナを取った後、どこで息を入れるか。どこまで馬に任せるか。どこで後ろを待つか。そこができないと、ただの早仕掛けになる」
俺は、画面に映ったままのゴール前を見た。
前に行ける騎手。でも、逃げ切れない騎手。
それは、サビツキノエンジンと少し似ている気がした。
前に行く力はある。自分の形もある。けれど、誰かが間違えれば最後に崩れる。
「先生は、柴田騎手をどう見ているんですか」
「危ない選択肢」
即答だった。
「でも、なしではない」
「理由は?」
「控えさせて錆びるより、行きすぎて止まる方がまだ修正できる」
その言葉は、妙に腑に落ちた。
サビツキノエンジンに一番やってはいけないのは、控えることだ。砂をかぶること。馬群の中で我慢させること。あの馬の走り方を、また分からなくさせること。
柴田拓海は、少なくとも前へ行く。
そこだけは、映像が証明していた。
「会わせるわよ」
「今日ですか」
「今日。向こうも来る気でいる。荒尾から話は通ってるから」
「急ですね」
「番組は待ってくれないの」
先生は、資料の空白の騎手欄を指で叩いた。
「ここを埋めるなら、早い方がいい」
昼前。
柴田拓海は、思っていたより硬い顔で厩舎に現れた。
年齢は若い。ただ、軽い雰囲気ではなかった。背筋を伸ばし、黒川先生に深く頭を下げる。
「柴田拓海です。本日はよろしくお願いします」
「黒川です。こっちが三上オーナー」
「三上オーナー。荒尾さんから話は聞いています」
「三上透です。今日はありがとうございます」
「いえ。こちらこそ」
柴田騎手は、少しだけ視線を落とした。
「正直、僕でいいのかとは思っています」
いきなりそれを言うのか。
俺が少し驚くと、黒川先生は平然としていた。
「そう思う理由は?」
「荒尾さんが乗って勝った馬です。形もできている。そこに僕が乗って崩したら、馬にも陣営にも迷惑がかかります」
「分かってるならいいわ」
黒川先生は容赦がない。
「この馬、ただ出せばいい馬じゃないわよ」
「はい」
「出すだけなら、前にもできてた。問題は、ハナを取った後」
「そこが、僕の下手なところです」
柴田騎手は、すぐに言った。隠さなかった。
「僕、逃げるのは好きです。でも、逃げ切るのが下手です」
事務所の空気が少しだけ止まる。
自分で言うには、かなり痛い言葉だ。だが、柴田騎手の声は卑屈ではなかった。逃げて失敗したことを、ごまかさずに持っている声だった。
「荒尾さんから、前走の映像を見ろと言われました」
「何回見ました?」
俺が聞くと、柴田騎手は少し迷ってから答えた。
「十回くらいです」
「多いですね」
「足りないと思っています」
その返事で、少し印象が変わった。自信がないのではない。足りないことを分かった上で、足そうとしている。
黒川先生も、わずかに目を細めた。
「荒尾から何を言われた?」
「一完歩目で迷わせるな。出していけ。ハナを取った後に手綱で喧嘩するな。追うのは最後でいい」
柴田騎手は、暗記しているように言った。
「それと、馬が首を下げたら邪魔するな、と」
「ちゃんと聞いてるわね」
「聞いただけでできるなら、苦労しません」
「そこも分かってるならいい」
やっぱり容赦がない。だが、柴田騎手は逃げなかった。
「馬を見せてもらってもいいですか」
俺たちは、サビツキノエンジンの馬房へ向かった。
サビツキノエンジンは、いつものように愛想がなかった。柵の向こうから、こちらを睨むように見る。
柴田騎手が馬房の前で立ち止まった。触ろうとはしない。声もかけない。ただ、少し距離を取って立っている。
サビツキノエンジンが鼻を鳴らした。不機嫌そうな音だった。
「触らないんですか」
「今触ったら、嫌われそうなので」
「分かるんですか」
「分かるというか……逃げ馬に嫌われると、ゲートの前に終わるので」
黒川先生が、横で少しだけ口元を緩めた。
「そこは分かってるのね」
「そこだけは」
柴田騎手が苦笑した。
サビツキノエンジンは、もう一度鼻を鳴らした。
荒尾騎手の時のように、すっと納得した感じはない。だが、拒絶でもない。嫌ってはいない。少なくとも、馬房の奥へ下がらなかった。
俺には、それが少しだけ気になった。
午後。
追い切りで確認することになった。
目的は時計ではない。柴田拓海が、サビツキノエンジンを控えさせずに前へ主張できるか。そして、ハナに立った後、馬と喧嘩しないか。
相手役の馬が一頭、内から来る形を作る。サビツキノエンジンは外。少しでも迷えば、被される。被されれば、この馬は嫌がる。
荒尾騎手なら迷わなかった。
柴田騎手は、どうするか。
「乗り替わりの確認にしては、条件がきつくないですか」
「本番はもっときついわよ」
「ですよね」
「ここで曖昧に動くなら、出さない」
それが現場の答えだった。
柴田騎手が跨がる。サビツキノエンジンの耳が動いた。落ち着いてはいない。だが、暴れてもいない。
スタート地点へ向かう間、柴田騎手は手綱を短く持ちすぎなかった。少し外へ出す。馬の首を押さえ込まない。
そのまま、追い切りが始まった。
内の馬が出る。サビツキノエンジンも出る。
柴田騎手の手が動いた。
強い。
少し強い。
サビツキノエンジンの首が上がりかけた。
黒川先生が、低く言う。
「強いわね」
俺も同じことを思った。前へ行く意識はある。だが、馬を急かしすぎている。
サビツキノエンジンの走りが、ほんの一瞬だけ硬くなった。
駄目か。
そう思った瞬間、柴田騎手の手が変わった。
引いたのではない。押しすぎるのをやめた。
馬の前進気勢を殺さず、少しだけ手綱に余裕を作る。
サビツキノエンジンの首が、ふっと下がった。
内の馬より半馬身前。
ハナを取った。
そこから、空気が変わった。サビツキノエンジンが、自分で走り始める。
荒尾騎手の時ほど滑らかではない。まだ硬い。柴田騎手の背中にも、少し力が入っている。
それでも、控えてはいない。馬と喧嘩してもいない。先頭に立った馬を、先頭のまま走らせている。
四コーナー。柴田騎手の手が、また少し動きかけた。
早い。
だが、今度はこらえた。追い出さない。馬を信じるように、ほんの一拍だけ待つ。
直線。最後に軽く促す。
サビツキノエンジンは、派手に伸びたわけではない。だが、最後まで止まらなかった。
追い切りが終わる。
時計だけなら、目立つものではなかった。ただ、戻ってきたサビツキノエンジンの目は死んでいない。怒ってもいない。
少しだけ、不満そうだった。
もっと行けた。
そう言っているような顔だった。
柴田騎手が下馬して、深く息を吐く。
「すみません。最初、強かったです」
第一声がそれだった。
黒川先生は、すぐには答えなかった。
「自分で分かった?」
「はい。出さなきゃと思いすぎました。途中で、馬が怒りかけたので」
「そこで引かなかったのは?」
「引いたら終わると思いました。押すのをやめるだけにしました」
黒川先生が、少しだけ目を細める。
「荒尾とは違うわね」
「駄目ですか」
「違うと言っただけ。駄目とは言ってない」
柴田騎手は、少しだけ肩の力を抜いた。
俺は、サビツキノエンジンを見た。
荒尾迅は、この馬の火を知っている騎手だった。
柴田拓海は、まだ火傷の仕方を知らない騎手だ。
でも、火の方へ手を伸ばすことはできる。
それは、今日分かった。
事務所に戻ると、黒川先生は資料を机に置いた。
大井、ダート千四百。候補番組。空白の騎手欄。
「安全策なら、荒尾を待つ」
「はい」
「でも、今日の追い切りで一つ分かった」
「何ですか」
「柴田は、控えない」
その言葉は、短かった。だが、サビツキノエンジンにとっては大きい。
この馬にとって最悪なのは、控えさせることだ。砂を被らせることだ。自分の走り方をまた忘れさせることだ。
柴田拓海は、完璧ではない。荒尾迅でもない。
けれど、控える騎手ではなかった。
俺は、窓の外を見た。
ハルサメノツキの馬房は空いている。
あの馬には、待つ判断をした。休ませる勇気が必要だった。
では、サビツキノエンジンはどうか。
待たせすぎれば、前走で掴んだ逃げの感覚が薄れるかもしれない。今、走らせる形を作ること。それが、この馬にとっての正解かもしれない。
「先生」
「何?」
「出します」
黒川先生は、俺を見た。
「柴田で?」
「はい」
「荒尾を待たない?」
「待つ馬と、待たない方がいい馬がいると思います」
言ってから、少しだけ照れた。
黒川先生は、しばらく黙っていた。それから、ふっと息を吐く。
「それ、馬主っぽいこと言ってるわね」
「褒めてます?」
「半分くらい」
「半分ですか」
「残り半分は、レースが終わってから」
先生はペンを取った。
空白だった騎手欄。
そこに、荒尾迅の名前は入らない。
代わりに、まだ逃げ切れなかった騎手の名前が入る。
『柴田拓海』
その名前が書かれた瞬間、サビツキノエンジンの次走は、ただの次走ではなくなった。
荒尾迅の逃げを、馬が覚えているのか。
それとも、あの勝利は荒尾迅だけのものだったのか。
答えは、大井の千四百で出る。




