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安馬しか買えない弱小馬主の俺、スキル《相馬眼》で“勝てる場所”を見抜く  作者: ペンは休み休みもて(ペンもて)
第五章 待つ馬、走る馬

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第39話 逃げ切れなかった騎手

「会えば分かる」


 黒川先生はそう言った。だから俺は、会う前に少しだけ調べることになった。


 事務所の机に置かれた端末には、柴田拓海という騎手の過去映像が並んでいる。荒尾迅騎手が紹介した、サビツキノエンジンの代役候補。


 代役。言葉にすると簡単だ。だが、サビツキノエンジンにとっては簡単ではない。


 あの馬は、ただ誰かを背に乗せれば走る馬じゃない。ハナを切る。先頭で息をする。そこで初めて、錆びていたエンジンが回る。


「まずはこれ」


 黒川先生が、一本目の映像を再生した。


 大井のダート千二百。柴田拓海は五番人気の馬に乗っていた。


 ゲートが開く。出た。迷いがない。内の馬が速い。それでも、柴田騎手は引かなかった。押して、押して、最初のコーナーまでにハナを取り切る。


「前に行く気はありますね」

「あるわ」


 黒川先生は、腕を組んだまま画面を見ていた。


「そこは荒尾に近い」


 向こう正面。馬は気分よく逃げている。だが、三コーナーの手前で、柴田騎手の手が少し動いた。


 早い。


 馬はまだ走れている。けれど、騎手が先に不安になったように見えた。


 四コーナーで差が詰まる。直線。逃げ馬は粘った。粘ったが、最後の百メートルで捕まった。


 二着。


 悪い競馬ではない。だが、逃げ切れてはいなかった。


「次」


 黒川先生が、別の映像を出す。


 今度は千四百。柴田騎手はまた前へ行った。ハナは切れなかったが、二番手で引かなかった。外から被せに行き、向こう正面では先頭に並ぶ。


 強気だ。だが、また少し早い。


 馬を動かすタイミングが、ほんの少しだけ前のめりになる。直線、脚が甘くなる。


 三着。


 三本目も似ていた。前に行く。逃げる。見せ場は作る。


 だが、最後に何かが足りない。


 俺は画面を止めた。


「逃げる覚悟はある」

「ええ」

「でも、先頭で待つのが少し怖い」


 黒川先生が、こちらを見た。


「そう見えた?」

「はい。前に行くのは怖がってない。でも、ハナに立った後、捕まる前に自分から動きすぎている気がします」

「正解に近いわ」


 先生は端末を机に置いた。


「柴田拓海は、前に行く競馬が好き。スタートしてから引かない。そこは評価できる。ただ、逃げ切る競馬はまだ上手くない」

「逃げ切る競馬」

「逃げはね、出して終わりじゃないの」


 黒川先生は、コーヒーに口をつけた。


「ハナを取った後、どこで息を入れるか。どこまで馬に任せるか。どこで後ろを待つか。そこができないと、ただの早仕掛けになる」


 俺は、画面に映ったままのゴール前を見た。


 前に行ける騎手。でも、逃げ切れない騎手。


 それは、サビツキノエンジンと少し似ている気がした。


 前に行く力はある。自分の形もある。けれど、誰かが間違えれば最後に崩れる。


「先生は、柴田騎手をどう見ているんですか」

「危ない選択肢」


 即答だった。


「でも、なしではない」

「理由は?」

「控えさせて錆びるより、行きすぎて止まる方がまだ修正できる」


 その言葉は、妙に腑に落ちた。


 サビツキノエンジンに一番やってはいけないのは、控えることだ。砂をかぶること。馬群の中で我慢させること。あの馬の走り方を、また分からなくさせること。


 柴田拓海は、少なくとも前へ行く。


 そこだけは、映像が証明していた。


「会わせるわよ」

「今日ですか」

「今日。向こうも来る気でいる。荒尾から話は通ってるから」

「急ですね」

「番組は待ってくれないの」


 先生は、資料の空白の騎手欄を指で叩いた。


「ここを埋めるなら、早い方がいい」


 昼前。


 柴田拓海は、思っていたより硬い顔で厩舎に現れた。


 年齢は若い。ただ、軽い雰囲気ではなかった。背筋を伸ばし、黒川先生に深く頭を下げる。


「柴田拓海です。本日はよろしくお願いします」

「黒川です。こっちが三上オーナー」

「三上オーナー。荒尾さんから話は聞いています」

「三上透です。今日はありがとうございます」

「いえ。こちらこそ」


 柴田騎手は、少しだけ視線を落とした。


「正直、僕でいいのかとは思っています」


 いきなりそれを言うのか。


 俺が少し驚くと、黒川先生は平然としていた。


「そう思う理由は?」

「荒尾さんが乗って勝った馬です。形もできている。そこに僕が乗って崩したら、馬にも陣営にも迷惑がかかります」

「分かってるならいいわ」


 黒川先生は容赦がない。


「この馬、ただ出せばいい馬じゃないわよ」

「はい」

「出すだけなら、前にもできてた。問題は、ハナを取った後」

「そこが、僕の下手なところです」


 柴田騎手は、すぐに言った。隠さなかった。


「僕、逃げるのは好きです。でも、逃げ切るのが下手です」


 事務所の空気が少しだけ止まる。


 自分で言うには、かなり痛い言葉だ。だが、柴田騎手の声は卑屈ではなかった。逃げて失敗したことを、ごまかさずに持っている声だった。


「荒尾さんから、前走の映像を見ろと言われました」

「何回見ました?」


 俺が聞くと、柴田騎手は少し迷ってから答えた。


「十回くらいです」

「多いですね」

「足りないと思っています」


 その返事で、少し印象が変わった。自信がないのではない。足りないことを分かった上で、足そうとしている。


 黒川先生も、わずかに目を細めた。


「荒尾から何を言われた?」

「一完歩目で迷わせるな。出していけ。ハナを取った後に手綱で喧嘩するな。追うのは最後でいい」


 柴田騎手は、暗記しているように言った。


「それと、馬が首を下げたら邪魔するな、と」

「ちゃんと聞いてるわね」

「聞いただけでできるなら、苦労しません」

「そこも分かってるならいい」


 やっぱり容赦がない。だが、柴田騎手は逃げなかった。


「馬を見せてもらってもいいですか」


 俺たちは、サビツキノエンジンの馬房へ向かった。


 サビツキノエンジンは、いつものように愛想がなかった。柵の向こうから、こちらを睨むように見る。


 柴田騎手が馬房の前で立ち止まった。触ろうとはしない。声もかけない。ただ、少し距離を取って立っている。


 サビツキノエンジンが鼻を鳴らした。不機嫌そうな音だった。


「触らないんですか」

「今触ったら、嫌われそうなので」

「分かるんですか」

「分かるというか……逃げ馬に嫌われると、ゲートの前に終わるので」


 黒川先生が、横で少しだけ口元を緩めた。


「そこは分かってるのね」

「そこだけは」


 柴田騎手が苦笑した。


 サビツキノエンジンは、もう一度鼻を鳴らした。


 荒尾騎手の時のように、すっと納得した感じはない。だが、拒絶でもない。嫌ってはいない。少なくとも、馬房の奥へ下がらなかった。


 俺には、それが少しだけ気になった。


 午後。


 追い切りで確認することになった。


 目的は時計ではない。柴田拓海が、サビツキノエンジンを控えさせずに前へ主張できるか。そして、ハナに立った後、馬と喧嘩しないか。


 相手役の馬が一頭、内から来る形を作る。サビツキノエンジンは外。少しでも迷えば、被される。被されれば、この馬は嫌がる。


 荒尾騎手なら迷わなかった。


 柴田騎手は、どうするか。


「乗り替わりの確認にしては、条件がきつくないですか」

「本番はもっときついわよ」

「ですよね」

「ここで曖昧に動くなら、出さない」


 それが現場の答えだった。


 柴田騎手が跨がる。サビツキノエンジンの耳が動いた。落ち着いてはいない。だが、暴れてもいない。


 スタート地点へ向かう間、柴田騎手は手綱を短く持ちすぎなかった。少し外へ出す。馬の首を押さえ込まない。


 そのまま、追い切りが始まった。


 内の馬が出る。サビツキノエンジンも出る。


 柴田騎手の手が動いた。


 強い。


 少し強い。


 サビツキノエンジンの首が上がりかけた。


 黒川先生が、低く言う。


「強いわね」


 俺も同じことを思った。前へ行く意識はある。だが、馬を急かしすぎている。


 サビツキノエンジンの走りが、ほんの一瞬だけ硬くなった。


 駄目か。


 そう思った瞬間、柴田騎手の手が変わった。


 引いたのではない。押しすぎるのをやめた。


 馬の前進気勢を殺さず、少しだけ手綱に余裕を作る。


 サビツキノエンジンの首が、ふっと下がった。


 内の馬より半馬身前。


 ハナを取った。


 そこから、空気が変わった。サビツキノエンジンが、自分で走り始める。


 荒尾騎手の時ほど滑らかではない。まだ硬い。柴田騎手の背中にも、少し力が入っている。


 それでも、控えてはいない。馬と喧嘩してもいない。先頭に立った馬を、先頭のまま走らせている。


 四コーナー。柴田騎手の手が、また少し動きかけた。


 早い。


 だが、今度はこらえた。追い出さない。馬を信じるように、ほんの一拍だけ待つ。


 直線。最後に軽く促す。


 サビツキノエンジンは、派手に伸びたわけではない。だが、最後まで止まらなかった。


 追い切りが終わる。


 時計だけなら、目立つものではなかった。ただ、戻ってきたサビツキノエンジンの目は死んでいない。怒ってもいない。


 少しだけ、不満そうだった。


 もっと行けた。


 そう言っているような顔だった。


 柴田騎手が下馬して、深く息を吐く。


「すみません。最初、強かったです」


 第一声がそれだった。


 黒川先生は、すぐには答えなかった。


「自分で分かった?」

「はい。出さなきゃと思いすぎました。途中で、馬が怒りかけたので」

「そこで引かなかったのは?」

「引いたら終わると思いました。押すのをやめるだけにしました」


 黒川先生が、少しだけ目を細める。


「荒尾とは違うわね」

「駄目ですか」

「違うと言っただけ。駄目とは言ってない」


 柴田騎手は、少しだけ肩の力を抜いた。


 俺は、サビツキノエンジンを見た。


 荒尾迅は、この馬の火を知っている騎手だった。


 柴田拓海は、まだ火傷の仕方を知らない騎手だ。


 でも、火の方へ手を伸ばすことはできる。


 それは、今日分かった。


 事務所に戻ると、黒川先生は資料を机に置いた。


 大井、ダート千四百。候補番組。空白の騎手欄。


「安全策なら、荒尾を待つ」

「はい」

「でも、今日の追い切りで一つ分かった」

「何ですか」

「柴田は、控えない」


 その言葉は、短かった。だが、サビツキノエンジンにとっては大きい。


 この馬にとって最悪なのは、控えさせることだ。砂を被らせることだ。自分の走り方をまた忘れさせることだ。


 柴田拓海は、完璧ではない。荒尾迅でもない。


 けれど、控える騎手ではなかった。


 俺は、窓の外を見た。


 ハルサメノツキの馬房は空いている。


 あの馬には、待つ判断をした。休ませる勇気が必要だった。


 では、サビツキノエンジンはどうか。


 待たせすぎれば、前走で掴んだ逃げの感覚が薄れるかもしれない。今、走らせる形を作ること。それが、この馬にとっての正解かもしれない。


「先生」

「何?」

「出します」


 黒川先生は、俺を見た。


「柴田で?」

「はい」

「荒尾を待たない?」

「待つ馬と、待たない方がいい馬がいると思います」


 言ってから、少しだけ照れた。


 黒川先生は、しばらく黙っていた。それから、ふっと息を吐く。


「それ、馬主っぽいこと言ってるわね」

「褒めてます?」

「半分くらい」

「半分ですか」

「残り半分は、レースが終わってから」


 先生はペンを取った。


 空白だった騎手欄。


 そこに、荒尾迅の名前は入らない。


 代わりに、まだ逃げ切れなかった騎手の名前が入る。


『柴田拓海』


 その名前が書かれた瞬間、サビツキノエンジンの次走は、ただの次走ではなくなった。


 荒尾迅の逃げを、馬が覚えているのか。


 それとも、あの勝利は荒尾迅だけのものだったのか。


 答えは、大井の千四百で出る。

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