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安馬しか買えない弱小馬主の俺、スキル《相馬眼》で“勝てる場所”を見抜く  作者: ペンは休み休みもて(ペンもて)
第四章 東京湾牝馬賞

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第35話 勝った馬ほど、走らせてはいけない

 重賞を勝った翌々日。


 ハルサメノツキの馬房の前には、見慣れない花が置かれていた。


 大きなものではない。


 厩舎の通路を塞がないように、控えめな籠に入った白い花。


 添えられた札には、俺の知らない会社名が書かれている。


 競馬関係の会社か、馬主関係者か、どこかの牧場か。


 それすら、すぐには分からなかった。


「……花って、馬は食べませんよね」


 俺が言うと、黒川桐子は呆れたようにこちらを見た。


「食べさせないで」


「いや、さすがに食べさせません」


「ならいいけど。あなた、たまに変なところで天然だから」


「そこまで信用ないですか」


「勝った後の馬主は全員信用しないことにしてるの」


 ひどい。


 けれど、反論はできなかった。


 重賞勝利の余韻は、俺の想像より長く続いていた。


 祝福の連絡。


 取材依頼。


 売却の打診。


 次走予想の記事。


 掲示板の盛り上がり。


 そして、よく知らない人間からの「次は中央ですか」という言葉。


 昨日までは、笑って流せた。


 だが、何度も何度も聞かれると、言葉が少しずつ重くなる。


 中央。


 交流重賞。


 牝馬路線。


 古馬挑戦。


 文字だけなら、どれも華やかだった。


 けれど、その文字の下には、全部、ハルサメノツキの脚がある。


 馬体がある。


 疲労がある。


「歩様、見ましょう」


 黒川先生が言った。


 ハルサメノツキが馬房から出される。


 厩務員に引かれ、通路をゆっくり歩く。


 俺は、その一歩一歩を見た。


 右前。


 左前。


 後肢の踏み込み。


 首の揺れ。


 耳の向き。


 素人目に大きな違和感はない。


 ただ、いつもより少しだけ、体の奥に重さが残っているように見えた。


「どう見える?」


 黒川先生が聞く。


 試す声ではなかった。


 現場で共有するための声だった。


「悪くはないです。でも、まだ中に疲れが残ってる気がします」


「どこに?」


「脚元というより、全体に。昨日よりは目に力がありますけど、張りが戻り切ってないというか」


 黒川先生は、返事をせずにハルサメノツキを見た。


 それから、厩務員にもう一周させる。


 馬は素直に歩く。


 勝った翌日ほど眠そうではない。


 けれど、すぐに次へ向かえる馬の雰囲気でもなかった。


「同感」


 先生が短く言った。


「脚元に熱はない。食いも戻ってる。でも、芯の疲れが抜けてない。あの競馬をした馬としては普通よ」


「どれくらい休ませますか」


「最低でも軽めで様子見。時計を出すのは急がない」


 その答えに、俺は頷いた。


 頷いたはずなのに、胸の奥で何かが小さく引っかかる。


 焦りではない、と言いたかった。


 でも、完全に焦りではないとも言い切れなかった。


 周囲が次を見ている。


 鳳条怜央が見ている。


 記者が見ている。


 馬券勢が見ている。


 そして、俺自身も見てしまっている。


 この馬が、次にどこまで行けるのか。


 黒川先生が、俺の顔を見てため息を吐いた。


「今、頭の中でレース名を並べたでしょ」


「……少し」


「三上さん」


「はい」


「勝った馬ほど、走らせちゃ駄目な時がある」


 その言葉は、静かだった。


「負けた馬は、原因を探す。次で変えようとする。条件を替えたり、距離を変えたり、騎手を替えたりね。でも、勝った馬は違う。勝ったからこそ、人間が理由を作って次へ行きたくなる」


 黒川先生は、ハルサメノツキの首筋を撫でた。


「“今なら勢いがある”。“注目されているうちに”。“賞金を積めるうちに”。“話題性があるうちに”。全部、人間の都合よ」


 俺は黙って聞いた。


 痛いところを突かれている。


 俺はハルサメノツキを道具だとは思っていない。


 でも、結果が出た瞬間から、頭の中に数字や路線が浮かんでいた。


 賞金。


 格。


 相手関係。


 次の舞台。


 それは馬主として必要な思考だ。


 けれど、それだけになったら終わる。


「先生」


「何?」


「俺、たぶん浮かれてます」


「知ってる」


 即答された。


「隠せてませんか」


「隠せてないわね。顔に“中央”って書いてある」


「そんなに?」


「ついでに“交流重賞”も薄く見える」


「それはまずいですね」


「まずいわよ」


 黒川先生は、少しだけ笑った。


 それで、少しだけ空気が緩んだ。


 そこへ、厩舎の奥から別の鼻息が響いた。


 サビツキノエンジンが、馬房の柵に鼻先を押しつけている。


 朝運動の順番を待ちきれないらしい。


 こちらは相変わらず、分かりやすい。


「エンジン、うるさいですね」


「元気な証拠よ」


 黒川先生はちらりとそちらを見た。


「荒尾騎手からも連絡が来てたわ。次に乗れるなら早めに教えてほしいって」


「ありがたいですね」


「ただ、あの子も急がない。逃げ馬は気分が整っている時ほど使いたくなるけど、逃げて勝った後は消耗もある」


 先生は、指を二本立てた。


「ハルサメノツキも、サビツキノエンジンも、一度走りを証明した。だからこそ、次で雑に使ったら全部台無し」


 重い言葉だった。


 証明した馬ほど、壊してはいけない。


 それは当たり前のようで、当たり前に守るのが難しい。


 厩舎の事務所に戻ると、机の上には新聞が広げられていた。


 地方競馬欄。


 そこに、ハルサメノツキの写真が載っている。


 ゴール前。


 泥を跳ね上げながら、外から首を伸ばす瞬間。


 見出しは、分かりやすかった。


『二十万円牝馬、重賞制覇』


 その下に、小さな文字でこう続いている。


『次走は未定も、交流重賞挑戦の声』


「声って、誰の声ですか」


 俺が言うと、黒川先生は新聞を畳んだ。


「だいたい記者の声ね」


「ですよね」


「でも、読んだ人は“そういう話があるんだ”と思う」


「怖いですね」


「だから言葉は選ぶの」


 先生は、別の資料を机に置いた。


 そこには、候補になり得るレースの名前が並んでいた。


 地方牝馬限定戦。


 古馬牝馬との対戦。


 距離延長案。


 交流重賞の欄。


 そして、まだ薄い鉛筆書きで残された中央挑戦の文字。


 俺は思わず、そこに目を止めてしまう。


「見るだけならいいわよ」


 黒川先生が言った。


「見るだけなら」


「今、声が怖かったです」


「決めるなって言ってるの」


 先生は椅子に座り、腕を組んだ。


「この子の適性は、まだ全部見えたわけじゃない。大井千八で重賞を勝った。外を回して長く脚を使えた。稍重もこなした。浅倉騎手との相性もいい。ここまでは分かる」


「はい」


「でも、次に同じことができるとは限らない。斤量も変わる。相手も変わる。マークもきつくなる。重賞馬として見られる」


 重賞馬として見られる。


 その言葉で、俺は昨日の鳳条の声を思い出した。


 選択を見られる側になった。


 まさに、それだった。


「ハルサメノツキは、次から追われる馬になるんですね」


「そう。人気薄で気楽に外から差す馬じゃなくなる」


「厳しいですね」


「厳しいわよ。勝つってそういうことだから」


 黒川先生は、淡々と言った。


 そこへ、事務所の扉がノックされた。


「失礼します」


 顔を出したのは、浅倉蓮騎手だった。


 昨日までの勝負服姿ではなく、私服に近い格好だ。少し疲れているようにも見えるが、目は明るい。


「浅倉騎手」


 俺が立ち上がると、浅倉騎手は軽く頭を下げた。


「ハルの様子を見に来ました」


 ハル。


 自然に出た呼び方に、黒川先生が少しだけ目を細める。


「騎手が勝った馬に情を入れすぎるのは危ないわよ」


「分かってます。でも、気になるものは気になります」


 浅倉騎手は苦笑した。


 その素直さが、この騎手らしかった。


 馬房の前へ行くと、ハルサメノツキは浅倉騎手を見た。


 耳が少し動く。


 派手な反応ではない。


 だが、知らない人間を見る時とは違う。


「疲れてますね」


 浅倉騎手はすぐに言った。


 黒川先生が頷く。


「分かる?」


「はい。表には出してないですけど、昨日の最後、かなり使ってます」


 浅倉騎手は馬房の柵越しに、少し距離を取ってハルサメノツキを見た。


「乗っていて、ゴール前でまだ伸びようとしてました。でも、余力があったというより、気持ちで伸びていた感じです」


 その言葉に、俺の胸が詰まった。


 気持ちで伸びた。


 人間が聞けば美談だ。


 でも、馬にとっては負担でもある。


「次、急がない方がいいと思います」


 浅倉騎手が言った。


 黒川先生は、少し意外そうな顔をした。


「騎手からそれを言う?」


「言います。乗りたいからこそ、無理してほしくないです」


 浅倉騎手は、まっすぐだった。


「正直、また乗りたいです。もっと上でも、この馬ならやれるかもしれないと思いました。でも、今すぐじゃない。今すぐ使ったら、たぶんこの馬は応えてしまう」


 応えてしまう。


 黒川先生と同じことを、浅倉騎手も言った。


 ハルサメノツキは、求められたら走ってしまう馬だ。


 だからこそ、人間が求めすぎてはいけない。


「三上オーナー」


 浅倉騎手が俺を見る。


「次も、乗せてもらえるなら乗りたいです」


「もちろん、そのつもりです」


 言ってから、黒川先生を見た。


 先生は何も言わない。


 だが、否定もしなかった。


 浅倉騎手は、少しだけ安心したように笑った。


「ありがとうございます。ただ、次を決める時は、馬の状態を一番にしてください」


「はい」


「それと」


 浅倉騎手は、一瞬だけ言いよどんだ。


「外から、いろいろ言われると思います。中央とか、交流とか。でも、この馬は派手な言葉より、静かなリズムの方が合う気がします」


 静かなリズム。


 ハルサメノツキらしい言葉だった。


 俺は頷いた。


「覚えておきます」


 浅倉騎手が帰った後、黒川先生は事務所でコーヒーを淹れた。


 俺にも紙コップが渡される。


 苦い。


 でも、今はその苦さがちょうどよかった。


「浅倉、いいこと言ったわね」


「はい」


「騎手って、普通は次に乗りたいから使ってほしいって言うものよ」


「そうなんですか」


「全員じゃないけどね。少なくとも、乗り替わりの多い世界では、チャンスは逃したくない。だから“使うなら乗ります”が普通。でも、あの子は“急がない方がいい”と言った」


 黒川先生は、紙コップを机に置いた。


「信用していい材料が増えたわ」


 浅倉蓮。


 ハルサメノツキの背中で、最後まで馬を信じた騎手。


 その騎手が、次を急ぐなと言った。


 俺の中の浮ついた部分が、少しずつ沈んでいく。


 夕方近く。


 厩舎に、一人の男が訪ねてきた。


 初老の、背筋の伸びた男だった。


 服装は地味だが、靴がきれいに磨かれている。競馬場に慣れている人間の歩き方。だが、記者のような軽さはない。


 黒川先生が応対に出ると、男は深く頭を下げた。


「突然申し訳ありません。以前、ハルサメノツキを所有していた者です」


 空気が、少し変わった。


 俺は思わず立ち上がった。


 以前の所有者。


 二十万円でこの馬を手放した側。


 男は、俺を見るともう一度頭を下げた。


「三上オーナーですね。東京湾牝馬賞、おめでとうございます」


「ありがとうございます」


「……正直、驚きました」


 男の声には、悔しさと、安堵と、少しの照れが混じっていた。


「うちにいた頃は、こんなところまで行く馬だとは思えませんでした。いや、思おうとしなかったのかもしれません」


 黒川先生は黙っていた。


 俺も、すぐには言葉が出なかった。


 男はハルサメノツキの馬房へ視線を向ける。


 ハルサメノツキは、いつものように静かに立っている。


 昔の所有者だと分かっているのかどうか。


 分からない。


「会わせていただくことはできますか」


 黒川先生は少しだけ考えた。


「触るのは控えてください。疲れがあります」


「もちろんです」


 男は馬房の前に立った。


 柵から一歩離れた位置で、ただ馬を見る。


 長い沈黙。


 やがて、男は小さく笑った。


「いい顔になったな」


 その言葉は、誰に聞かせるでもない独り言だった。


 ハルサメノツキは、ほんの少しだけ耳を向けた。


「手放した馬が走ると、悔しいです」


 男は静かに言った。


「でも、それ以上に、ほっとしました。私のところにいたままなら、この馬はたぶん、重賞を勝てなかった」


 その言葉は、責任の告白のようにも聞こえた。


「三上オーナー」


「はい」


「この馬を買ってくださって、ありがとうございます」


 俺は、慌てて首を振った。


「俺だけじゃありません。黒川先生や、浅倉騎手や、厩舎の皆さんが」


「ええ。もちろんです」


 男は頷いた。


「でも、最初にこの馬をもう一度見ようとした人がいたから、昨日があった」


 胸の奥が、熱くなる。


 ただ、その熱は勝利の興奮とは違った。


 この馬には、前の場所があった。


 前の人間がいた。


 見切られたのではなく、見つけられなかっただけの時間があった。


 俺はそれを、勝ったからといって簡単に踏み越えてはいけない。


「まだ、終わりじゃないと思っています」


 俺が言うと、男は少し目を細めた。


「そうでしょうね」


「でも、急ぎません」


「その方がいい」


 男は、ハルサメノツキを見た。


「この馬は、派手な馬ではありません。でも、自分の中に雨を持っているような馬です。降るべき場所で降れば、景色を変える」


 不思議な言い方だった。


 でも、妙に腑に落ちた。


 ハルサメノツキ。


 春雨の月。


 静かに降り、気づいた時には地面を濡らしている。


 そんな馬。


 男が帰った後、黒川先生はしばらく黙っていた。


 やがて、ぽつりと言う。


「今日だけで、ずいぶん言葉をもらったわね」


「はい」


「私から。浅倉から。前の所有者から」


「多いですね」


「全部、同じことを言ってる」


 俺は頷いた。


 急ぐな。


 馬を見ろ。


 値段でも、記事でも、次走予想でもなく。


 目の前の馬を。


 夜、厩舎を出る前に、俺はもう一度ハルサメノツキの馬房へ寄った。


 馬は、静かに立っていた。


 通路の灯りに、目が少しだけ光る。


「少し休もう」


 俺は小さく言った。


「次のことは、休んでから考える」


 ハルサメノツキは、答えない。


 ただ、ゆっくり息を吐いた。


 それで十分だった。


 事務所に戻ると、黒川先生が一枚の紙を机に置いていた。


 次走候補の一覧。


 その一番上に、赤いペンで大きく書かれている。


『休養優先』


 その下に、いくつかの候補。


 地方牝馬路線。


 古馬混合。


 交流重賞。


 中央挑戦。


 そして、端に小さく書かれた新しい文字。


『放牧先候補、要確認』


 俺は、その文字を見て息を呑んだ。


 勝った馬を、あえて厩舎から離す。


 それは、今までとは違う決断だった。


 黒川先生が、静かに言う。


「この子を本当に上へ連れていきたいなら、一度、休ませる勇気も必要よ」


 外では、また記者らしき人影が門の向こうに見えた。


 世間は、次を待っている。


 馬券勢も、記者も、馬主たちも、鳳条怜央も。


 けれど、ハルサメノツキはまだ、馬房の中で静かに息をしている。


 俺は紙の一番上に書かれた赤い文字を見た。


 休養優先。


 重賞馬になったハルサメノツキに、最初に与えるもの。


 それは、次のレースではなかった。

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