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安馬しか買えない弱小馬主の俺、スキル《相馬眼》で“勝てる場所”を見抜く  作者: ペンは休み休みもて(ペンもて)
第四章 東京湾牝馬賞

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第34話 重賞馬になった朝

 勝った馬の朝は、案外、静かだった。


 大井競馬場を揺らした歓声も、写真判定を待つ間のざわめきも、掲示板で荒れに荒れた馬券民の悲鳴も、ここにはない。


 黒川厩舎の馬房にあるのは、湿った藁の匂いと、飼い葉桶を覗き込む馬の息と、いつもより少しだけ多い人の足音だけだった。


 ハルサメノツキは、馬房の中で首を下げていた。


 東京湾牝馬賞。


 大井、ダート千八百。


 稍重。


 外から長く脚を使って、最後は写真判定。


 そして、一着。


 二十万円で買われた牝馬が、地方重賞馬になった。


 そう言葉にすると、あまりに出来すぎている。


 けれど、目の前にいるハルサメノツキは、昨日と同じように鼻先で藁を寄せ、時々こちらを見て、また目を伏せる。


 重賞馬になったからといって、馬房の中で胸を張るわけではない。


 賞金の額を理解するわけでもない。


 周囲がどれだけ騒いでいるかなんて、たぶん知らない。


「……脚元、もう一回見ます」


 黒川桐子の声は、いつもより低かった。


 俺――三上透は、馬房の前で頷いた。


「お願いします」


「お願いされなくても見るわよ。勝った後こそ、見るの」


 黒川先生は、ハルサメノツキの肢をそっと取った。


 触り方は丁寧だった。


 だが、視線は厳しい。


 管。球節。蹄。熱感。張り。わずかな変化も見逃さないように、指先で確かめていく。


 勝利の余韻に浸る顔ではない。


 調教師の顔だった。


「どうですか」


「今のところ、大きな異常はない」


 その言葉に、俺は息を吐きかけた。


 しかし、黒川先生はすぐに続けた。


「ただし、疲れはある。そりゃそうよ。あの競馬をしたんだから」


「……ですよね」


「外を回して、長く脚を使って、最後まで気持ちを切らさなかった。勝ったから美談になるけど、馬にとって楽な競馬じゃない」


 黒川先生は、ハルサメノツキの首筋を撫でた。


 ハルサメノツキは、少しだけ耳を動かした。


「この子、こっちが思ってるより根性あるわ」


「はい」


「だから怖いの」


 先生の声が、さらに低くなる。


「根性のある馬は、苦しくても走っちゃう。痛くても我慢する。人間が浮かれて次を急がせたら、馬の方が先に壊れる」


 俺は返事ができなかった。


 昨日から、祝福の連絡は止まっていない。


 知り合いの馬主。競馬ファン。記事を書きたいという記者。よく分からない番号からの着信。


 そして、画面の向こうにある言葉。


 二十万円の牝馬、重賞制覇。


 弱小馬主の奇跡。


 ハルサメノツキ、次はどこへ。


 その文字を見るたびに、胸の奥が熱くなる。


 だが、その熱と同じくらい、怖さもあった。


 次を見たい。


 もっと上へ行けるかもしれない。


 そう思った瞬間、目の前の馬を置き去りにしそうになる。


「三上さん」


「はい」


「今、次走のこと考えたでしょ」


 図星だった。


「……少しだけ」


「馬主としては当然。でも、今は半分にして」


「半分?」


「半分は喜んでいい。重賞を勝ったんだから。残り半分は、この子の馬体を見るのに使って」


 黒川先生は、ハルサメノツキの額を軽く撫でた。


「この子は、あなたの物語を走る道具じゃない。馬よ」


「分かっています」


「分かってる人ほど、勝った後に間違える」


 その言葉は、重かった。


 俺はハルサメノツキを見る。


 静かな目。


 湿度のある馬名に似合う、どこか薄曇りのような雰囲気。


 けれど、その奥には昨日、ゴール前で見せた火が残っている。


 この馬は、走る。


 走れてしまう。


 だから、人間が止めなければならない時もある。


「しばらく楽をさせましょう」


 俺が言うと、黒川先生はやっと少しだけ口元を緩めた。


「それを聞きたかった」


「先生、最初からそのつもりでしたよね」


「当たり前でしょ。馬主の口から言わせたかったの」


「試されてますね」


「勝った後の馬主ほど試しがいのあるものはないわ」


 ひどい言い方だ。


 でも、否定できなかった。


 厩舎の外が、また少し騒がしくなる。


 見ると、門の向こうに記者が数人立っていた。


 昨日より増えている。


 スマホを構えた競馬ファンらしき姿もある。


 関係者用の通路に入ってくることはないが、遠巻きにこちらを見ているのが分かった。


「……増えましたね」


「重賞馬の厩舎ですもの」


 黒川先生は、まったく嬉しくなさそうに言った。


「正確には、重賞を勝ったばかりの話題馬の厩舎ね」


「違うんですか」


「全然違うわ。前者は実績。後者は騒ぎ」


 先生は窓の外を一瞥する。


「騒ぎは、馬の都合なんて考えない」


 その時、厩舎の奥から荒い鼻息が聞こえた。


 サビツキノエンジンだった。


 馬房の前を通った厩務員に、早く出せと言わんばかりに首を伸ばしている。


 大井の千四百で逃げ切った、もう一頭の俺の持ち馬。


 抑えると錆びる。


 ハナに立てば回る。


 荒尾迅騎手が腹を括って逃がし、ようやく本来の姿を見せた馬だ。


「エンジンも元気ですね」


 俺が言うと、黒川先生が呆れたように笑った。


「あの子は元気すぎるくらいでちょうどいいのよ。錆びさせたら面倒だから」


「次も荒尾騎手ですか」


「そのつもり。あの馬の逃げ方を分かってる騎手を、わざわざ替える理由がない」


 そこまで言って、先生は俺を見た。


「ただ、今はハルサメの話が先」


「はい」


「サビツキノエンジンも勝った。ハルサメノツキも重賞を勝った。あなたの馬は二頭とも、もう“変な安馬”では済まない」


 変な安馬。


 ひどい言い方なのに、少し懐かしい。


 つい最近まで、周囲の目はそうだった。


 安かった馬。


 訳ありの馬。


 条件を間違えられていた馬。


 笑われるほどではないが、真剣に見られてもいなかった。


 それが今は違う。


 勝った。


 それも、偶然では片付けにくい形で。


 だから、周囲は理由を探し始める。


 三上透は何を見ているのか。


 黒川厩舎は何を変えたのか。


 あの馬たちは、なぜ急に走り出したのか。


 俺が一番答えにくい質問ばかりだ。


「三上さん、取材はどうする?」


 黒川先生が聞いた。


「先生に任せます」


「全部押しつける気?」


「変なことを言いそうなので」


「自覚があるのはいいことね」


 先生は書類の束を机に置いた。


「まず、公式コメントは短く。馬の状態を見ながら今後を決める。次走は未定。無理はさせない。これだけ」


「中央とか交流重賞とか聞かれたら?」


「聞かれるでしょうね」


「どう答えれば」


「答えない」


 即答だった。


「でも」


「今は答えない。夢を見るのは自由。でも、外に出した言葉は勝手に独り歩きする。中央挑戦、交流重賞、牝馬路線、古馬相手……どれも言った瞬間に記事の見出しになる」


 黒川先生は淡々としていた。


「ハルサメノツキは、まだ三歳。しかも連戦で結果を出した直後。ここで人間の都合を前に出したら、この子に失礼よ」


 俺は頷いた。


 重賞を勝てば、道は開ける。


 でも、開いた道を全部走れるわけではない。


 選ばなければならない。


 今まで以上に慎重に。


 その時、厩舎の入口から声がした。


「黒川先生、少しだけよろしいですか」


 記者の一人だった。


 黒川先生が俺に視線を向ける。


 出るな。


 目がそう言っていた。


 俺は素直に一歩下がった。


 先生は外へ出て、門の手前で記者たちに対応する。


 距離があるため、声は断片的にしか聞こえない。


「馬の状態を最優先に」


「次走は白紙」


「馬主さんと相談して」


「無理なローテは考えていません」


 完璧だった。


 面白いことは何も言っていない。


 だが、今はそれでいい。


 むしろ、それがいい。


 俺が出れば、きっと余計なことを言う。


 この馬はまだ上に行ける気がします、とか。


 もっと合う条件があると思います、とか。


 そういう言葉は、俺の中では馬を信じる言葉でも、外に出れば期待を煽る燃料になる。


 ハルサメノツキの耳が動いた。


 外の声を聞いているのかもしれない。


 俺は馬房の前へ戻り、小さく言った。


「お前、有名になったぞ」


 ハルサメノツキは、ちらりとこちらを見た。


 そして、何もなかったように目を伏せた。


 興味がなさそうだった。


 俺は少し笑った。


「そうだよな。お前には関係ないよな」


 関係あるのは、次にどれだけ食べられるか。


 脚が痛くないか。


 走りたい時に走れるか。


 人間が勝手につける値段や評判ではない。


 それでも、世界は変わってしまう。


 昼前。


 黒川先生のスマホに一本の電話が入った。


 話している間、先生の表情が少しずつ険しくなる。


 切った後、先生は深いため息を吐いた。


「何かありました?」


「売却の打診」


 俺は、一瞬意味が分からなかった。


「誰をですか」


「ハルサメノツキに決まってるでしょ」


 胸の奥が、妙に冷えた。


「もう、ですか」


「勝った直後だからよ。今なら話題性がある。重賞馬の肩書きもある。牝馬だから将来の繁殖価値も見る人は見る」


「……いくらって?」


 聞いてから、少し後悔した。


 だが、黒川先生は隠さなかった。


「二千万円」


 厩舎の空気が、少し遠くなった気がした。


 二十万円で買った馬に、二千万円。


 百倍。


 普通に考えれば、信じられない話だ。


 弱小馬主にとっては、大金どころではない。


 サビツキノエンジンの維持費。今後の出走費用。新しい馬の購入資金。厩舎への預託料。先のことを考えれば、喉から手が出るほど欲しい金額だ。


 黒川先生は、何も言わなかった。


 俺に考えさせる顔だった。


 ハルサメノツキは、馬房の中で静かに立っている。


 自分に値段がつけられたことなど、知らない。


 俺は拳を握った。


 金額は大きい。


 現実的に考えれば、検討すべき話だ。


 馬主は夢だけでは続けられない。


 馬を持つには金がいる。


 勝ち続けるにも、負けた馬を支えるにも、全部金がいる。


 でも。


「断ってください」


 言葉は、思ったより早く出た。


 黒川先生の眉が動く。


「即答?」


「はい」


「馬主としては、かなり大きい話よ」


「分かっています」


「分かってない顔よ」


「顔は生まれつきです」


「その返し、前にも聞いたわ」


 先生は呆れたように言ったが、目は笑っていなかった。


「理由は?」


「この馬を、まだ俺がどこへ連れていけるか見ていないからです」


 俺はハルサメノツキを見る。


「重賞を勝ったから終わりじゃない。ここから、この馬に合う場所を探す段階だと思っています」


「売った先で走るかもしれないわよ」


「そうですね」


「もっと大きな厩舎、もっと資金のある馬主、もっと派手な舞台。そういうところへ行ける可能性もある」


「あると思います」


「それでも?」


「それでも、今は売りません」


 黒川先生はしばらく俺を見ていた。


 やがて、小さく息を吐く。


「弱小馬主の言う台詞じゃないわね」


「自分でもそう思います」


「でも、嫌いじゃない」


 その言葉に、少しだけ肩の力が抜けた。


 先生はスマホを手に取り、短くメッセージを打つ。


「断っておく。理由は、現時点で売却の意思なし。それ以上は言わない」


「お願いします」


「ただし」


 先生は、厳しい顔に戻った。


「これから増えるわよ。もっと高い金額も出るかもしれない。血統を見る人、繁殖価値を見る人、話題性を見る人。色んな人がこの子に値段をつける」


 俺は頷いた。


「そのたびに、考えます」


「考えるのはいい。でも、馬の前で迷いすぎないこと」


「分かりました」


 黒川先生は、ハルサメノツキを見る。


「この子は、値札じゃなくて馬だから」


 その時、厩舎の外で車の音が止まった。


 黒川先生が窓の外を見る。


 俺もつられて視線を向けた。


 黒い車。


 見覚えがある。


 降りてきたのは、鳳条怜央だった。


 仕立てのいいジャケット。無駄のない歩き方。昨日の結果を祝うには、あまりにも静かな表情。


 鳳条は門の前で足を止め、こちらへ軽く会釈した。


「……朝から大物が続くわね」


 黒川先生がぼそりと言った。


「先生、俺、隠れてた方がいいですか」


「もう遅いわ。見つかってる」


 鳳条が厩舎の前まで来る。


「黒川先生。三上さん。重賞制覇、おめでとうございます」


「ありがとうございます」


 俺が頭を下げると、鳳条はハルサメノツキの馬房へ目を向けた。


 ハルサメノツキは、鳳条を一瞥した。


 そして、すぐに顔を背けた。


 鳳条の口元がわずかに緩む。


「媚びない馬ですね」


「すみません」


「謝ることではありません。走る馬は、それでいい」


 以前も似たようなことを言われた気がする。


 だが、今の言葉には少し違う響きがあった。


 見物ではない。


 評価だ。


「三上さん」


「はい」


「昨日の勝利で、この馬の価値は変わりました」


 鳳条は淡々と言った。


「競走馬としても、繁殖牝馬としても。周囲は、これからこの馬に値段をつけるでしょう」


 さっきの電話を聞いていたわけではないはずだ。


 それでも、同じことを言った。


 鳳条怜央は、やはり見えているものが違う。


「もう来ました」


 俺が言うと、黒川先生がこちらを睨んだ。


 余計なことを言うな、という目だった。


 鳳条は驚かなかった。


「でしょうね」


「断りました」


 今度は、黒川先生が諦めたように目を閉じた。


 鳳条は少しだけ沈黙した。


 それから、静かに笑った。


「あなたらしい」


「まだ、売る段階じゃないと思っただけです」


「段階、ですか」


「はい」


 俺はハルサメノツキを見た。


「この馬には、まだ合う場所があると思っています。重賞を勝ったから完成したわけじゃない」


 鳳条の目が、わずかに鋭くなった。


「その言葉、馬主としては危険ですね」


「よく言われます」


「でしょうね」


 鳳条は、少しだけハルサメノツキへ近づいた。


 もちろん、無断で触れはしない。


 距離を保ったまま、馬を見る。


「ロードグランシャリオは、王道を進ませます」


 唐突に、鳳条が言った。


「血統、馬体、実績。あの馬には、その道を進むだけの理由がある」


「はい」


「あなたの馬は、王道ではない」


 責める声ではなかった。


「ですが、昨日の勝ち方で、もう脇道とも言えなくなった」


 鳳条は俺を見る。


「次にどこを選ぶのか。競馬場の外も、それを見始めています」


 その言葉は、祝福より重かった。


 ハルサメノツキが勝ったことで、俺たちは自由になったわけではない。


 むしろ、選択肢が増えたぶん、間違えられなくなった。


 地方牝馬路線。


 古馬との対戦。


 交流重賞。


 中央への視線。


 繁殖価値。


 売却話。


 その全部が、一頭の馬房の前に集まってくる。


「鳳条さん」


「何でしょう」


「ロードグランシャリオは、次も予定通りですか」


「ええ」


 鳳条は即答した。


「王道を歩ける馬に、迷いは不要です」


「迷わないんですね」


「迷いますよ」


 意外な答えだった。


 鳳条は淡々と続ける。


「ただ、迷った跡を馬に見せないだけです」


 その言葉に、俺は何も返せなかった。


 鳳条は会釈し、踵を返す。


 去り際に、彼は一度だけ振り向いた。


「三上さん。昨日の勝利で、あなたは馬を選ぶ側から、選択を見られる側になった」


 静かな声だった。


「次の一手、楽しみにしています」


 黒い車が去っていく。


 厩舎の前には、また朝の音が戻った。


 けれど、俺の中には鳳条の言葉が残っていた。


 選択を見られる側。


 たしかに、そうだ。


 これまでは、誰も見向きもしない馬の中から、俺が走れる場所を探していた。


 だが、これからは違う。


 俺がどのレースを選ぶか。


 どの馬を休ませるか。


 どこで勝負し、どこで退くか。


 その全部に、周囲が意味をつける。


 黒川先生が、隣でぽつりと言った。


「面倒な場所に来たわね」


「はい」


「逃げたい?」


 俺はハルサメノツキを見る。


 静かに立つ、小さな重賞馬。


 それから、奥で鼻を鳴らすサビツキノエンジンを見る。


 逃げることで自分の走りを取り戻した馬。


 どちらも、俺が勝手に見つけたと思っていた。


 でも本当は、俺の方がこの馬たちに連れてこられたのかもしれない。


「逃げません」


 俺は言った。


「ただ、急ぎません」


 黒川先生は、少しだけ笑った。


「それでいいわ。今はね」


 その日の夕方。


 黒川先生から、一枚のメモを渡された。


 ハルサメノツキの今後について、考えられる選択肢が並んでいる。


 休養。


 地方牝馬路線。


 古馬混合。


 交流重賞。


 そして、一番下に小さく書かれた文字。


『中央挑戦の可能性』


 俺はその文字を、しばらく見つめた。


 まだ、決める時ではない。


 だが、もう無関係ではいられない。


 馬房の奥で、ハルサメノツキが静かに息を吐いた。


 二十万円の牝馬についた値段は、二千万円。


 けれど俺には、今のこの馬が、まだ値札の向こう側を走ろうとしているように見えた。

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