第31話 勝てる場所を、教えてやれ
『七枠十番、ハルサメノツキが外から加速を始めました!』
実況の声が、少しだけ上ずった。
三コーナー。
カナリアステップはまだ先頭。
内で粘る逃げ馬の外に、ミヤコノルミナスが並びかける。
さらにその外からフロストリボン。
人気馬たちが一斉に勝負へ動き出した。
その、さらに外。
大きく外を回る七枠十番。
ハルサメノツキ。
「外すぎる……!」
誰かの声が聞こえた。
俺も同じことを思った。
外すぎる。
普通なら、あそこから勝つのは苦しい。
コーナーで外を回れば、それだけ距離を走る。
内で脚を溜めていたミヤコノルミナスとは、通ったコースの差が大きい。
でも。
それでも。
今日のハルサメノツキにとって、あそこが一番いい。
砂を被らない。
他馬に囲まれない。
自分のリズムで、湿ったダートを掴める。
勝てる場所は、馬によって違う。
強い馬の勝ち方が、すべての馬に合うわけじゃない。
「浅倉……!」
俺は手すりを握りしめた。
浅倉蓮は、まだ強く追っていない。
手は動いている。
だが、慌てていない。
ハルサメノツキの首の使い方に合わせて、少しずつ促している。
無理やりエンジンをかけるんじゃない。
馬自身が前へ行こうとする瞬間に、背中を押す。
その乗り方だった。
『ミヤコノルミナス、手応え十分! カナリアステップを捕まえにいく! フロストリボンも外から並んできた! その外、ハルサメノツキはまだ前との差があります!』
前との差。
確かにある。
三コーナーから四コーナーへ。
ミヤコノルミナスは、もう先頭を射程に入れていた。
完成度が高い。
折り合いもついている。
脚も残っている。
強い。
やっぱり強い。
フロストリボンもいい脚で上がってくる。
切れる差し脚は本物だ。
カナリアステップも絡まれながら、まだ簡単には止まらない。
どの馬も、重賞を勝つためにここへ来ている。
その中に、ハルサメノツキがいる。
二十万円で買われた、小柄な牝馬が。
「……まだ届かない」
黒川さんが、ほとんど息のような声で言った。
その声には、焦りがあった。
黒川桐子調教師が、珍しく焦っている。
それだけ、前が強い。
それだけ、ハルサメノツキの位置は楽じゃない。
けれど俺には、見えていた。
いや、見えているなんて言えない。
言ってはいけない。
ただ、感じていた。
ハルサメノツキの脚は、まだ鈍っていない。
むしろ、ここからだ。
この馬は、派手に弾けない。
一瞬で前を飲み込むような脚はない。
でも、一度走れる形に入れば、簡単には止まらない。
じわじわと。
少しずつ。
諦めの悪い脚で、前を削る。
「届く」
気づけば、俺はそう言っていた。
黒川さんがこちらを見た。
「三上さん?」
「届きます」
根拠を聞かれたら、困る。
だから俺はコースを見たまま、言葉を重ねた。
「前走の映像と同じです。あの馬、あそこから止まりません」
黒川さんは何も言わなかった。
ただ、視線をハルサメノツキへ戻した。
『四コーナーを回って直線へ! 先頭はカナリアステップ、しかし外からミヤコノルミナス! ミヤコノルミナスが並ぶ! フロストリボンも外から迫る!』
直線。
大井の長い直線に入った。
歓声が爆発する。
カナリアステップの脚色が鈍り始めた。
前半で絡まれたぶん、さすがに苦しい。
その外からミヤコノルミナスが抜け出す。
一番人気。
完成度の高い牝馬。
好位で競馬をして、直線で前を捕まえる。
完璧な勝ちパターンだった。
『ミヤコノルミナス先頭! 残り二百! フロストリボンが外から迫る! カナリアステップは三番手に後退!』
ハルサメノツキは。
まだ外。
まだ三馬身ほど後ろ。
遠い。
遠すぎる。
スタンドからも声が飛ぶ。
「ミヤコだ!」
「フロスト来い!」
「ハルサメ外! 外から来てるぞ!」
「無理だろ、外回しすぎだ!」
無理。
その言葉に、胸の奥が熱くなった。
何度も言われてきた。
安すぎる。
小さすぎる。
短距離で負ける。
内で揉まれると駄目。
重賞では足りない。
馬主が素人。
勝ったのは条件がハマっただけ。
そうだ。
条件がハマっただけだ。
でも、その条件を探して、選んで、ここまで来た。
勝てる場所を教えてやる。
それが俺の仕事だ。
『外からハルサメノツキ! ハルサメノツキ、じわじわ伸びている!』
伸びている。
一気ではない。
だが、止まらない。
フロストリボンの切れ味は鋭い。
ミヤコノルミナスの抜け出しも強い。
でも、ハルサメノツキだけが違う脚色だった。
派手な加速ではない。
長く、重く、湿った砂を掴むように。
一完歩ごとに、前との差を詰めていく。
浅倉の手が激しく動き始めた。
ここからは我慢じゃない。
ここからは、全部出す時間だ。
「浅倉!」
俺の声は、歓声に飲まれた。
それでも叫んだ。
「行け!」
残り百五十。
ミヤコノルミナスが先頭。
フロストリボンが半馬身差。
外からハルサメノツキ。
まだ一馬身半。
残り百。
フロストリボンの脚が少し鈍った。
早めに外を動いたぶん、最後の伸びが甘くなる。
ハルサメノツキがその外から並びかける。
『フロストリボンにハルサメノツキが並んだ! しかし先頭はミヤコノルミナス! ミヤコノルミナス粘る!』
ミヤコノルミナスは強かった。
抜け出してからも、簡単には止まらない。
鞍上が必死に追う。
馬も応える。
一番人気にふさわしい走りだった。
普通なら、これで勝っている。
けれど。
今日の外には、止まらない馬がいる。
『大外ハルサメノツキ! ハルサメノツキが伸びてくる!』
残り五十。
半馬身。
ミヤコノルミナスとの差が詰まる。
浅倉が体を沈める。
ハルサメノツキの首が下がる。
小さな馬体が、最後の力を振り絞る。
あの馬は、きっとわかっていない。
自分が二十万円で買われたことも。
周りからどう見られていたかも。
重賞がどれだけ大きな舞台なのかも。
ただ、走っている。
自分が走れる場所で。
自分が走れる形で。
ようやく。
誰かに、それを教えてもらったから。
「差せ……!」
俺の喉から、声が絞り出された。
残り二十。
クビ差。
ミヤコノルミナス。
ハルサメノツキ。
二頭が並ぶ。
フロストリボンは半馬身後ろ。
カナリアステップも粘るが、もう届かない。
『ミヤコノルミナス! ハルサメノツキ! ハルサメノツキ大外! 並んだ、並んだ、並んだ――!』
ゴール板。
二頭の鼻面が、ほとんど同時に線を越えた。
歓声が、一瞬遅れて爆発した。
『今、入線! これはきわどい! ミヤコノルミナスか、ハルサメノツキか! 大外から七枠十番ハルサメノツキ、最後ものすごい脚で追い込みました!』
わからない。
本当にわからなかった。
俺は手すりを握ったまま、動けなかった。
勝ったのか。
負けたのか。
鼻差なのか。
同着なのか。
スタンドもざわついている。
「どっちだ?」
「内じゃないか?」
「いや外が差しただろ!」
「最後、ハルサメの鼻出てたって!」
「ミヤコ残ったようにも見えたぞ!」
場内モニターに、写真判定の表示が出た。
東京湾牝馬賞。
写真判定。
その文字を見た瞬間、膝から力が抜けそうになった。
「三上さん」
黒川さんの声がした。
いつもの冷静な声じゃない。
少しかすれている。
「はい」
「……よく、ここまで走りました」
その言葉で、胸が詰まった。
まだ結果は出ていない。
勝ったかどうかもわからない。
けれど黒川さんは、まず馬を褒めた。
それが、この人らしいと思った。
返し馬から、ゲート入りから、道中から、直線まで。
ハルサメノツキは、自分の走りをした。
それだけは間違いない。
浅倉が引き上げてくる。
ハルサメノツキの首を軽く叩きながら、彼は馬上で何度も何度も息を吐いていた。
顔は泥だらけだ。
勝ったかどうか、浅倉にもわかっていないのだろう。
それでも、彼はハルサメノツキの首筋に手を置いた。
「……よく走った」
遠くて声は聞こえない。
でも、唇の動きがそう見えた。
掲示板の一着欄は、まだ空白。
観客席のざわめきが止まらない。
俺の心臓は、ずっと変な速度で鳴っていた。
こんなに長い一分があるのかと思った。
未勝利を勝った時とは違う。
ロードグランシャリオに負けた時とも違う。
馬主になってから、何度も緊張してきたつもりだった。
でも、これは別物だ。
重賞の写真判定。
自分の馬の名前が、その中心にある。
それがどれだけ異常なことか、今さらになって理解する。
二十万円で買った馬だ。
誰も欲しがらなかった馬だ。
それが今、一番人気の良血馬と、重賞のゴール前で写真を撮られている。
「……十分だ」
思わず、そうつぶやいた。
十分すぎる。
ここまで来た。
ここまで証明した。
勝っても負けても、ハルサメノツキはもう、ただの安馬じゃない。
そう思った瞬間。
場内のざわめきが、ふっと沈んだ。
掲示板が動く。
一着欄に、数字が入った。
七枠十番。
ハルサメノツキ。
一瞬、何が起きたのかわからなかった。
数字を見ているのに、意味が頭に入ってこない。
十番。
七枠十番。
ハルサメノツキ。
『写真判定の結果、一着は十番、ハルサメノツキ! 二着五番ミヤコノルミナス! わずかに大外ハルサメノツキが差し切りました!』
スタンドが揺れた。
本当に、揺れたように感じた。
「……勝った?」
俺は誰に聞くでもなく言った。
黒川さんが、片手で口元を押さえていた。
その目が、わずかに潤んでいるように見えた。
「勝ちました」
黒川さんは言った。
「ハルサメノツキが、重賞を勝ちました」
その瞬間、胸の奥で何かが崩れた。
息が詰まる。
視界が滲む。
笑えばいいのか、叫べばいいのか、泣けばいいのかわからない。
ただ、ひとつだけわかった。
ハルサメノツキは勝った。
二十万円の安馬が。
小柄で、条件限定で、誰にも見つけてもらえなかった牝馬が。
大井一八〇〇メートル、稍重、外枠、浅倉蓮。
勝てる場所で。
勝った。
「……黒川さん」
「はい」
「俺、馬主になってよかったです」
黒川さんは少しだけ笑った。
「それは、まだ早いです」
「え」
「勝った後の方が、大変ですから」
言葉は冷静だった。
でも、その声はいつもよりずっと柔らかかった。
やがて、浅倉が戻ってくる。
泥だらけの顔で、それでも目だけは輝いていた。
「三上さん!」
彼は馬上から叫んだ。
「勝ちました!」
そんなことは、もう掲示板で見ている。
実況でも聞いた。
周りも騒いでいる。
でも、浅倉の口から聞いたその言葉が、一番胸に刺さった。
「ありがとうございます!」
俺は頭を下げた。
馬主なのに。
たぶん、勝った馬の馬主なのに。
騎手に向かって、深く頭を下げた。
「この馬を、信じてくれてありがとうございます」
浅倉は一瞬驚いた顔をして、それから笑った。
「信じたのは、三上さんが先です」
その言葉に、また喉が詰まった。
ウイナーズサークルへ向かう途中、ハルサメノツキはいつも通りの顔をしていた。
自分が何をしたのか、わかっているのかいないのか。
耳を動かし、少しだけ首を振り、厩務員に促されて歩いていく。
パドックでは見栄えしなかった小柄な馬体が、今はやけに大きく見えた。
周囲から拍手が降ってくる。
「ハルサメ!」
「すごかったぞ!」
「二十万の馬だろ、マジかよ!」
「浅倉うまかった!」
「三上オーナー、やったな!」
俺はその声に、うまく反応できなかった。
ただ、ハルサメノツキを見ていた。
勝てる場所を、教えてやれた。
たったそれだけのことが、こんなにも嬉しい。
ウイナーズサークルで、ハルサメノツキは写真に収まった。
黒川さん。
浅倉。
厩務員。
そして俺。
きっと、どこかぎこちない顔をしているだろう。
でも、それでいい。
こんな日には、慣れていなくていい。
慣れていないから、覚えていられる。
東京湾牝馬賞。
一着、ハルサメノツキ。
その表示を見上げながら、俺は小さく息を吐いた。
景色が変わる。
黒川さんが言った通りだ。
明日から、きっと周りの目が変わる。
ハルサメノツキの評価も、俺の評価も。
安馬を偶然走らせた素人では、もう済まないかもしれない。
それは怖い。
でも。
今だけは、その怖さよりも、誇らしさが勝っていた。
俺はハルサメノツキの額に、そっと手を伸ばした。
「お前は、駄馬なんかじゃない」
小さな牝馬が、こちらを見る。
黒い瞳に、スタンドの光が映っていた。
「勝てる場所を、まだ誰も教えてやってなかっただけだ」
その言葉は、歓声に溶けて消えた。
けれど俺には、届いた気がした。
ハルサメノツキが、ほんの少しだけ鼻を鳴らした。




